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アボガドロ入門 科学者入門シリーズ49
第一章 気体の謎から始まる(数字は合うのに意味がわからない)
気体というものは、科学者にとって妙に不気味な存在だった。水や金属のように手のひらで重さを確かめられない。器に入れても形が定まらない。蓋をすればそこにいるのは分かるのに、開ければ一瞬で消える。見えているのに見えない。触れているのに掴めない。そんな相手に、当時の化学者たちは挑んでいた。
それでも彼らは、気体が気まぐれな幽霊ではないことを知っていた。温度を上げれば膨らみ、圧力をかければ縮む。ある条件のもとで測れば、いつも同じように振る舞う。さらに、混ざり合う気体の反応には、奇妙なほど美しい規則性が現れた。たとえば水ができるとき、水素と酸素の混合比には、きれいな整数比が顔を出す。偶然にしては整いすぎている。そこには、人間がまだ見つけていない“数の秩序”が確実に潜んでいた。
十九世紀のはじめ、化学は爆発的に発展していた。燃焼を巡る理論が整えられ、元素という考え方が強固になり、天秤による測定が精密になった。化学者たちは反応する前後の重さを比べ、物質が増えたり消えたりするのではなく、何かが組み替わっているのだと確信した。世界が魔法ではなく、保存則で動いている。これは科学にとって革命的だった。
しかし、ひとつだけ厄介な問題が残った。重さは測れる。比は求められる。だが、そこから先の“意味”が曖昧だったのだ。物質は粒からできているらしい、という思想は古くからあった。けれど、その粒がいくつ集まっているのか、どの粒がどの粒と結びつくのか、誰も目で見たことがない。化学は数字を扱うようでいて、実は言葉がふわふわしていた。原子とは何なのか。分子とは何なのか。同じ言葉を使いながら、人によって想像しているものが違っていた。
気体はその混乱を容赦なく暴き出す。液体や固体は、目の前で“かたまり”として存在するから、粒の議論が多少あいまいでも実験が成立する。しかし気体は、体積も圧力も温度も、少し条件が変わるだけで全体が変化する。つまり気体を扱うなら、粒の考え方を整理しないと、まともに会話ができない。にもかかわらず、当時の科学界はその整理にまだ成功していなかった。
そんな状況で、ひときわ鮮烈な観測結果が登場する。フランスの化学者ゲイ=リュサックが発表した「気体の化合体積の法則」だ。気体どうしが反応するとき、反応に関わる気体の体積は、非常に簡単な整数比で表される、というものだった。たとえば水素と塩素が反応して塩化水素になるとき、一対一で反応する。窒素と水素からアンモニアができるときにも、やはりきれいな比が現れる。実験の積み重ねが、こう囁いているようだった――気体の世界では、“数”が主役だ、と。
問題は、その“数”が何を意味するのかという点だった。体積が整数比になるのは分かった。だが、体積とはただの空間であり、粒の数ではない。気体は圧力を変えれば体積も変わるのだから、反応の本質を体積だけで語るのは危うい。それでも整数比が現れるのはなぜなのか。そこにこそ、気体の振る舞いが単なる流体の偶然ではなく、粒の集合としての秩序を持っている証拠があるはずだった。
ここで当時の化学者たちは、一種の「頭の詰まり」に直面する。数はきれいだ。しかし説明がごちゃつく。とくに水の生成は、議論を複雑にした。水素と酸素から水ができる反応は、体積の比で見ると、水素二、酸素一から、水蒸気二が生まれる。二対一が二になる。これだけなら美しいのだが、粒で考えようとすると、急に話がややこしくなる。もし水素が一粒、酸素が一粒で水になるなら、一対一で一になるはずだ。ところが実験は二対一で二と言っている。では水素は二粒で一つの“何か”なのか。酸素はどうなのか。水はどういう組み合わせなのか。反応式を整えるたびに、見えない粒の姿が変形してしまう。
当時の有力な考え方は、ジョン・ドルトンの原子説だった。元素はそれぞれ固有の原子からできており、化合物はその原子が一定の比で結びついたものだ、という枠組みである。これ自体は極めて強力だった。重さの比、反応の法則、化合物の定比例――多くの現象が説明できた。しかし気体の体積比という観測結果を、ドルトンの枠のまま綺麗に説明するのは難しかった。ドルトン自身、ゲイ=リュサックの結果に対して慎重だったとも言われる。理論の美しさはある。だが、実験の整数比がそれを突き崩す。
まるでパズルの最後のピースだけが見つからないような状況だった。絵の輪郭は描けているのに、中央だけが白紙。気体の反応は整数比で起こる。ならば反応は粒の数で決まっているはずだ。粒の数が整数であるなら、体積にも整数の影が落ちて当然だ。ここまでは直感できる。しかし、その直感を“言葉”に変換する装置がない。原子という言葉が便利すぎて、分子という言葉が曖昧すぎて、議論の足場がぐらぐらする。
この混乱は、科学者たちの能力が低かったからではない。むしろ逆だ。彼らはすでに、真実にかなり近づいていた。しかし真実が見えれば見えるほど、今の言語体系では届かないことが分かってしまったのだ。数学で言えば、方程式はあるのに未知数の定義が揺れている状態に似ている。未知数が何を表しているかが統一されない限り、式変形はできるのに意味が決まらない。だから議論が空回りする。研究者が天才であればあるほど、そこで苛立つ。
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