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国家入門1 ウェストファリア条約以前の世界

第一章 国家ってなに?

 あなたは「国家って何ですか?」と急に聞かれたら、なんと答えるだろうか。

 日本、アメリカ、中国――学校で習う地図には色分けされた国がきれいに並んでいる。パスポートには国名が書いてあって、ニュースでは「国家間の対立」「国際社会」という言葉が毎日のように飛び交っている。あまりに当たり前にそこにあるので、かえって「国家とは何か?」と考えたことがない、という人も多いかもしれない。

 教科書的な定義からいけば、国家とは「一定の領域・そこに住む人々・それらを統治する権力からなる社会的組織」だ、という言い方がよくされる。領土・国民・主権。この三つがそろうと、ひとまず国家と呼んでいいらしい。だが、そう言われてもどこかピンとこない感じが残る。「じゃあEUは国家なのか?」「ローマ帝国は?」「国連は?」「台湾は?」と、すぐに例外やグレーゾーンが思い浮かぶからだ。

 ここで大事なのは、「完璧な定義」を最初から求めないことだ。むしろ、この本でやりたいのは逆である。「国家の定義がぐらぐらしている」ことそのものを観察し、その揺らぎの理由を歴史の中に探っていくことだ。なぜなら、国家というのは石のように固い実体ではなく、時代ごとにかたちを変えてきた“約束ごとの束”だからである。

 もう少し日常的な言葉で考えてみよう。あなたが役所に行って住民票を取るとき、相手をしてくれるのはただの職員さんだ。けれども、その人の発行する紙には不思議な力が宿っている。「あなたはどこそこ市の住民である」「どこそこ国の国民である」ということが、公的に証明される。それを銀行に持っていけば口座が作れるし、携帯会社に持っていけば契約ができる。紙切れ一枚なのに、そこには無数の制度と約束が折りたたまれている。個々の職員さんが偉いわけではない。彼らの背後に「国家」という巨大なフィクションがあるからこそ、その紙が力を持つのだ。

 この意味で、国家とは「みんなで共有している物語」と言い換えることもできる。「この線からこの線までが日本という領土で、このパスポートを持っている人は日本人とみなします。税金を払う義務があり、一定の権利も持っています。なにかあれば国家はあなたを守ります」。この物語を、多くの人が「そういうものだ」と受け入れている状態――それが国家の前提である。

 とはいえ、国家はただの物語ではない。そこには物語を支える暴力とお金のシステムが張り巡らされている。警察、軍隊、裁判所、刑務所、税務署。これらはすべて、国家というフィクションを現実に定着させておくためのしくみだ。社会学者マックス・ヴェーバーは、国家を「正当な暴力を独占するもの」と定義した。乱暴に聞こえるかもしれないが、要するに「人を逮捕していいのは警察だけ」「徴税を命じていいのは国だけ」といったルールを社会が認めている、という意味だ。

 ここでひとつ、国家を理解するための三つのレベルをざっくりと区別しておこう。

 一つ目は「感覚としての国家」である。オリンピックで自国の選手を応援するときの一体感、ワールドカップで知らない人とハイタッチしてしまうあの空気、「日本人として恥ずかしくない行動を」といった言い回し。そこには、見えない「私たち」という輪郭がある。このレベルでは、国家はほとんど感情的な共同体として感じられている。

 二つ目は「制度としての国家」だ。憲法、法律、役所、警察、学校、税金……。日々の生活の中で、じわじわと効いてくる仕組みとしての国家である。選挙に行けば代表者を選べるし、災害が起きれば自衛隊や消防が動く。年金や健康保険もここに含まれる。感情的な「私たち」が、具体的なルールとして組み立てられた姿がこのレベルだといえる。

 三つ目は「国際関係の単位としての国家」である。ニュースに出てくる「国家」「国際社会」は、だいたいこの意味だ。条約に署名するのも、戦争をするのも、国連に加盟するのも、みんな国家単位で行われる。「世界は国家と国家の関係からできている」という前提が、国際政治の基本的な設定になっている。

 この三つのレベルは、きれいに分かれているわけではない。むしろ互いに影響しあっている。たとえば、ある国で革命が起きて政治制度が大きく変われば、人びとの「私たち感」も揺らぐ。逆に、「もうこんな政府は嫌だ」という感情が高まれば、制度そのものがひっくり返ることもある。また、戦争や経済制裁といった国際関係の出来事が、国内の生活や感情に波紋を広げることもある。

 この本では、主に二つ目と三つ目――「制度としての国家」と「国際関係の単位としての国家」を軸に話を進めていく。けれども、一つ目の「感覚としての国家」もまったく無視できない。なぜなら、制度を支えているのは最終的には人間の感情だからだ。「そんなルールは納得できない」と多くの人が感じた瞬間、どれほど立派な憲法や条約も、ただの紙切れに戻ってしまう。

 では、国家はいつからあるのだろうか。

 ここで注意したいのは、「昔からあったもの」がそのまま今のかたちに続いているわけではない、ということだ。人類はずっと集団を作って生きてきた。家族、村、部族、王国、帝国……。しかし「明確な国境線を引き、その内側をひとつの主権のもとに管理し、他の同じような“国家”と対等な存在として振る舞う」というスタイルは、歴史的にはかなり新しい。

 この本の第一巻が扱う「ウェストファリア以前」とは、まさにその“前史”である。そこでは、今私たちが当たり前と感じている前提――「国境があり」「国民がいて」「国家が他の国家と交渉する」という前提――がまだ固まっていない。宗教権力と世俗権力がぶつかり合い、帝国と都市と封建領主が入り乱れ、世界の各地でまったく別の秩序の形が試されていた。

 だからこそ、最初の章でやっておきたいのは、「国家=当たり前」という感覚にひびを入れることだ。国家は自然現象ではない。山や海のように、そこにあるのが当然のものではない。むしろ、人類がある時期に選び取った、ひとつの巨大な仕組みであり、ある種の実験だ。その実験は、一見うまくいっているように見えるところもあれば、戦争や抑圧という形で大失敗している部分もある。

 国家を歴史の中に置き直してみると、いくつかの問いが浮かび上がってくる。

 たとえば、「国家って本当に必要なのか?」という問いがある。もし国家がなければ、人びとはバラバラの暴力にさらされてしまうのだろうか。ある思想家はそう考え、「国家を持つことは、個人が自分の安全を守るための契約だ」と説明した。別の思想家は、「国家そのものが暴力の源になる」と批判し、「国家はできるだけ小さくあるべきだ」と主張した。さらに別の人は、「国家などどうでもいい。階級支配こそが問題だ」と言い、国家を打倒すべきものと見なした。

 もうひとつの問いは、「国家は誰のものか?」である。王様のものなのか、貴族のものなのか、それとも「国民全体のもの」なのか。今日の感覚では、「国家は国民のものであり、政治家はその代理人だ」と考えるのが普通かもしれない。だが、そう考えられるようになったのはごく最近のことであり、長い歴史の多くの時間において、国家は支配者の私物に近いものとして振る舞ってきた。

 さらに、「国家はどこまで介入してよいのか?」という問題もある。税金を取る、兵役を課す、教育を行う、福祉を提供する、情報を管理する、監視カメラを増やす……。国家が担う役割が増えれば増えるほど、私たちの生活は国家に深く組み込まれていく。ある人にとってそれは安心であり、別の人にとっては息苦しさになる。

 本書は、これらの問いにすぐ答えを出そうとはしない。むしろ、ウェストファリア以前の世界をたどりながら、「国家という実験がどのように準備され、どのような問題を抱えこんできたのか」をゆっくり見ていくためのガイドブックである。国家を賛美するわけでも、単純に否定するわけでもなく、「この仕組みは、人類にとってどういう意味を持ってきたのか?」を考えるための材料集だと思ってほしい。

 最後に、この第一巻での立場をはっきりさせておこう。ここでは、「国家は、人類がたまたま行き着いた、ひとつの暫定的な答えである」と考える。そこには多くの利点もあるし、多くの欠点もある。その両方をちゃんと見たうえで、「それでも、今ここで生きている私たちは、この仕組みとどう付き合っていくのか?」というところまで話を進めたい。

 国家を「当たり前」からいったん外して眺めなおすこと。それが、この第一章の目的である。ここから先は、部族社会、都市国家、帝国、封建制、宗教権力……と、現在から見れば少し奇妙にも思えるさまざまな秩序のかたちを旅していくことになるだろう。その旅の終わりに、「国家ってなに?」という最初の問いが、今とは少し違った意味を帯びて見えてくるはずだ。

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