文学・思想の一丁目一番地

墾田永年私財法から日本政府成立まで 国家入門4

国家入門4 墾田永年私財法から日本政府成立まで
国家入門4 墾田永年私財法から日本政府成立まで

第一章 墾田永年私財法ってなに?

 墾田永年私財法という名前を見ると、いかにも歴史の試験に出てきそうな法律である。制定された年は七四三年、奈良時代のことで、聖武天皇の時代だった。名前も長いし、漢字ばかりで近寄りがたい。しかし内容を思い切って簡単にすると「新しく田んぼを開墾したら、その土地をずっと自分のものにしていい」という法律である。土地を耕した人が、その成果を自分の財産として持てるようにしたわけだ。

 それだけ聞けば、それほど不思議な法律には思えない。山林を切り開き、荒れ地を耕して田んぼにした人が、その土地を所有するのは当然ではないかと思えてくる。ところが奈良時代の日本では、その「当然」が当然ではなかった。当時の国家は、土地を国家のものとして管理し、それを人々に割り当てる仕組みを作ろうとしていたからである。墾田永年私財法は、そんな国家の基本方針を大きく揺さぶる法律だった。

 奈良時代の日本は、律令国家と呼ばれる仕組みを整えようとしていた。中国の隋や唐を参考にして、戸籍を作り、人々を把握し、土地を割り当て、そこから税や労働力を集める。地方には役人を置き、中央から全国を統治しようとする。現在の感覚では当たり前に見えるが、これはかなり大がかりな国家建設である。誰がどこに住んでいるのか、誰がどれだけ土地を持っているのかを把握しなければ、税を集めることさえできない。

 その中心にあったのが班田収授法である。人々に口分田と呼ばれる田を配り、その土地を耕してもらう。そして一定の税を国家へ納めてもらう。死亡すると土地は国家へ返され、次の班田のときに再び配り直されることになっていた。つまり土地は、基本的には個人が永久に所有するものではなかった。国家が巨大な地主となり、国民に土地を貸しているような姿を想像すると、仕組みがかなり見えやすくなる。

 ところが、この制度には重大な問題があった。人が増えれば、そのぶん配る土地も必要になる。新しく子どもが生まれ、成長して口分田を受け取る年齢になれば、新しい田を用意しなければならない。しかし田んぼは、役所の帳簿に数字を書けば突然現れるものではない。山を切り開き、水路を作り、石を取り除き、長い時間をかけて耕地へ変える必要がある。国家が土地を配る仕組みは、土地が十分に存在することを前提としていたのである。

 そこで国家は、開墾を増やそうと考えた。七二三年には三世一身法という法律が出され、新しく灌漑設備を作って開墾した土地などについて、一定の期間だけ私有を認めた。名前のとおり、本人だけではなく子や孫の世代まで所有できる場合があった。しかし最後には国家へ返さなければならない。何十年もかけて土地を作っても、いずれ返却しなければならないなら、大規模な開墾に全力を出したくないと考える人がいても不思議ではない。

 そこで二十年後の七四三年、さらに踏み込んだ墾田永年私財法が登場する。「永年」という言葉が重要である。新しく開墾した土地については、期限を設けず私有してよいことになった。自分が死んだあとも、子どもや孫へ受け継がせることができる。これは開墾する側から見れば、非常に大きな変更だった。苦労して作った土地を国家へ返さなくていいのなら、開墾にお金や人手を投入する理由が強くなる。

 たとえば、有力者が百人の人を集めて荒れ地を田んぼに変えようとしているとする。木を切り、土地をならし、水路を掘り、農具や食料も用意しなければならない。完成するまでに何年もかかるかもしれず、途中で失敗する危険もある。それなのに土地を最後は国家へ返さなければならないなら、費用を出す側にはためらいが生まれる。しかし「完成した田はずっとあなたのものです」と言われれば、話は変わってくる。未来の収穫を見込んで、現在の開墾に投資しやすくなる。

 ここだけを見ると、墾田永年私財法は国家の敗北ではなく、むしろ現実的な政策だったといえる。国家には耕地を増やしたいという目的があり、そのために私有という利益を人々へ与えたのである。現在でも企業に補助金を出したり、税制上の優遇を与えたりして、政府が特定の投資を促すことがある。方法はまったく同じではないが「利益を与えることで望ましい行動を引き出す」という発想そのものは、それほど遠いものではない。

 ただし、ここから予想外の問題が始まる。大規模な開墾を行いやすいのは、普通の農民よりも資金と人脈を持つ貴族や寺院だった。土地を開墾するには、多くの労働者や農具が必要になる。水路を引くには周囲との調整も必要であり、役所との交渉まで発生する。有力者ほど有利になるのは当然だった。土地を増やすために私有を認めた政策が、結果として有力者の土地所有を拡大する方向へ働いていったのである。

 さらに重要なのは、墾田永年私財法が出た瞬間に律令国家が崩壊したわけではないことだ。ここは歴史を理解するときに注意したいところである。教科書では、墾田永年私財法の次に荘園が登場し、その後に武士が登場するため、法律一本で国家の土地制度が壊れたように見える。しかし実際には、変化は何十年、何百年という時間をかけて進んだ。国家が土地を管理する制度と私有地が並び、その比率や関係が少しずつ変化していった。

 そして、この「少しずつ」が日本国家の歴史を大きく変えていく。土地を持つ者が増えれば、当然ながら国家はその土地からどのように税を取るのかという問題に直面する。土地を守るためには、地方の有力者とのつながりも必要になる。やがて貴族や寺社と結びついた荘園が増え、そこでは税を免除される権利や、役人の立ち入りを拒む権利まで問題になっていく。土地の私有という一つの穴から、税と行政の問題まで広がっていくのである。

 この流れを理解すると、墾田永年私財法は単なる農業政策ではなくなる。国家とは何かという問題が、すでにここに隠れているからだ。国家が強いとは、兵士をたくさん持っていることだけではない。誰が土地を持っているのかを把握し、そこから税を取り、法律を適用し、争いが起きたときに裁くことができる。これらの力が中央政府から離れていけば、国家の形そのものが変わっていく。

 興味深いのは、国家が自分から私有地を認めたことである。誰かが反乱を起こして土地を奪ったわけではない。国家は国家を維持するために、制度を変更した。ところが、その変更によって国家が土地を直接管理する原則は弱まっていく。国家を救うための政策が、長い目で見ると国家の形を変える一因になる。この逆説こそ、墾田永年私財法のおもしろいところである。

 もちろん七四三年の役人たちが「これで数百年後には武士の時代が来る」と考えていたわけではない。彼らが解決しようとしていたのは、目の前にある耕地不足や制度運営の問題だった。しかし歴史では、目の前の問題を解決するために作られた制度が、別の時代にはまったく違う意味を持つことがある。墾田永年私財法も、そんな制度の代表例といえる。

 ここから日本の土地は、国家が一元的に管理するものではなくなっていく。私有地が広がり、有力者が土地を集め、荘園という仕組みが発達する。そして土地をめぐる争いを処理し、守るための武力を担う人々が重要になっていく。その先には武士、鎌倉幕府、戦国大名、江戸幕府が待っている。さらに明治になると、ばらばらになった統治の力を中央政府へ集め直す巨大な改革が始まる。

 七四三年に出された一つの法律から、近代日本政府の成立までを一直線につなぐことはできない。しかし「土地を誰が支配するのか」という問いを追いかけると、不思議なくらい日本国家の変化が見えてくる。墾田永年私財法は、その長い物語の入口に置かれた扉である。扉に書かれているのは難しい漢字七文字だが、その向こう側では、国家そのものがゆっくりと姿を変え始めている。

続きはこちらから
国家入門4 墾田永年私財法から日本政府成立まで
国家入門4 墾田永年私財法から日本政府成立まで
国家入門に戻る
うしPのページに戻る