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ジュール・ブリュネってどんな人?
目次
- 第一章 なぜ日本に来たの?
- 第二章 ジュール・ブリュネは何者だったの?
- 第三章 幕府はなぜフランス式軍隊を欲しがったの?
- 第四章 ブリュネは日本で何を教えたの?
- 第五章 近代軍隊は、何人教えれば作れるの?
- 第六章 鳥羽・伏見で何が壊れたの?
- 第七章 なぜブリュネは帰らなかったの?
- 第八章 榎本武揚たちは、蝦夷地で何を作ろうとしたの?
- 第九章 ブリュネは函館で何をしたの?
- 第十章 宮古湾海戦はなぜ大勝負だったの?
- 第十一章 なぜ防衛線は破れたの
- 第十二章 帰国後、彼はどうなったの?
- 第十三章 ジュール・ブリュネをどう語ればいいの?
- あとがき
- 参照記事・参考リンク
- 余談:映画『ラスト サムライ』からブリュネへ
第一章 なぜ日本に来たの?
ジュール・ブリュネは、ふらりと日本へやって来た冒険家ではない。幕末の日本にあこがれて海を渡った旅人でもない。彼はフランス陸軍の砲兵将校であり、徳川幕府の陸軍を近代化するために派遣された、第一次フランス軍事顧問団の一員だった。つまり、彼の来日は個人的な夢ではなく、幕府とフランス政府のあいだに生まれた軍事プロジェクトの一部だった。
ここを最初に押さえないと、ブリュネという人物はすぐにロマンだけで包まれてしまう。「最後のサムライを助けた青い目の武士」という語り方は分かりやすい。しかし、それだけでは彼がなぜ日本に来たのかが見えなくなる。ブリュネは、刀を持った武士に感動して日本へ来たのではない。大砲、兵器工場、軍隊の訓練制度を持ち込むために来たのである。
では、なぜ幕府はフランス人の軍人を必要としたのか。理由は単純で、幕府は自分の軍隊が古くなっていることに気づいていたからである。黒船来航以後、日本はもう国内の理屈だけで生きられなくなった。外国の軍艦、近代的な砲、訓練された歩兵、外交圧力が現実として目の前に現れた。古い家に住んでいたら、急に周囲だけ高層ビルと高速道路になったようなものだった。
幕府には、まだ権威があった。将軍もいる。奉行もいる。旗本もいる。けれども、それは江戸時代の秩序を前提にした強さだった。国内の反乱を抑えるには使えても、近代国家同士の軍事力にはそのままでは対応できない。刀や槍の精神だけでは、大砲の射程は伸びない。勇敢な兵士がいても、弾薬が届かなければ戦えない。幕府が欲しかったのは、根性ではなく仕組みだった。
そこで幕府が目を向けたのがフランスだった。幕末の幕府は、フランスを手本に軍制改革を進めようとしていた。フランス側でも、在日公使レオン・ロッシュが幕府との関係強化を重視していた。幕府は軍制と工廠をフランス式に再編したがり、ロッシュはそれを日仏関係の中核案件として後押しした。こうして、ブリュネたち軍事顧問団が日本へ送られる道が開かれた。
ただし、フランスが幕府に全財産を賭けたわけではない。ここも重要である。フランス政府は、幕府から求められた人数をそのまま送ったわけではなく、他地域での軍事的負担やイギリスとの関係にも配慮していた。つまり、幕府支援は熱烈な友情だけではなく、東アジアでフランスの影響力を確保するための、限定的で計算された政策でもあった。
この時代の日本は、いわばOSの更新を迫られた国だった。見た目は同じでも、中身の仕組みを入れ替えなければ動かない。幕府は、軍隊という巨大なシステムを更新しようとした。銃を買うだけなら、まだ簡単である。しかし本当に必要なのは、銃の使い方、部隊の動かし方、将校の育て方、弾薬の作り方、命令の通し方だった。ブリュネたちは、その更新作業のために呼ばれた外部エンジニアのような存在だった。
ブリュネ自身は、その中でも砲兵担当だった。砲兵とは、大砲を撃つ兵科である。しかし大砲は、ただ重い鉄の筒を置けば使えるものではない。どこに置くか。どれだけの火薬を使うか。どの角度で撃つか。弾薬をどう運ぶか。壊れた部品をどう直すか。これらがすべてつながって、はじめて砲兵は戦力になる。ブリュネの仕事は、単なる射撃指導ではなく、砲兵という仕組み全体を育てることだった。
たとえば、料理人を一人呼んでも、店はすぐには回らない。厨房、食材の仕入れ、調理器具、皿洗い、会計、客席の流れが整ってはじめて、料理店は営業できる。軍隊も同じである。強い兵士を何人か作るだけでは足りない。教官、兵器工場、翻訳された教本、訓練場所、指揮官の教育が必要になる。ブリュネたちの来日は、料理人だけでなく、厨房の設計者まで呼んだようなものだった。
実際、顧問団の任務は歩兵、騎兵、砲兵の訓練だけではなかった。幕府側の武器製造、弾薬製造、工廠改善、教範導入、将校教育の整備まで含んでいた。ブリュネ個人も、砲兵再編だけでなく、江戸の工廠にフランス式の合理的方法を導入する役割を与えられていた。だから彼を「銃を教えた外国人」とだけ見ると、かなり小さく見積もることになる。
ブリュネが日本に来た一八六七年は、幕府にとってあまりにも遅い時期でもあった。改革は始まったが、時間がなかった。新しい軍制を学ばせ、兵器工場を整え、将校を育て、部隊を動かせるようにするには、本来なら何年も必要である。ところが政治の方は待ってくれない。薩摩や長州との緊張、朝廷をめぐる駆け引き、将軍徳川慶喜の政権運営が、改革途中の軍隊にすぐ実戦を要求してくる。
つまりブリュネの来日は、幕府の希望であると同時に、幕府の焦りの証拠でもあった。まだ間に合うかもしれない。西洋式の軍隊を作れば、政局を支えられるかもしれない。フランスの力を借りれば、薩長に対抗できるかもしれない。そういう切迫感の中で、ブリュネたちは横浜に到着した。彼らは完成した軍隊を届けに来たのではなく、崩れかけた家の柱を補強するために呼ばれたのである。
ここで見えてくるのは、ブリュネの物語が最初から二重だったということだ。一方では、彼はフランス陸軍の命令で来た公的な軍事顧問である。もう一方では、彼が教えた軍隊は、まもなく政治的敗者の側へ追い込まれていく。最初は国家の仕事として始まったものが、やがて個人の決断へ変わっていく。この変化こそが、ブリュネをただの外国人教官ではなく、幕末史の中で忘れにくい人物にしている。
だから「なぜ日本に来たの?」という問いの答えは、一行では終わらない。表向きの答えは、徳川幕府陸軍の近代化支援のためである。もう少し深く言えば、幕府が古い軍事システムの限界に気づき、フランスが東アジアでの影響力を求めたからである。さらに深く言えば、近代という巨大な波が日本に押し寄せ、幕府がその波に飲み込まれないため、必死に新しい軍隊を作ろうとしたからである。
ブリュネは、その波の先端にいた。彼は日本を救うために来た聖人ではない。幕府のためだけに命を投げ出すつもりで来た義士でもない。最初の彼は、フランスの軍事技術と外交方針を背負って来日した若い砲兵将校だった。しかし、彼が日本で見たもの、教えたもの、作りかけたものは、やがて彼自身を引き返せない場所へ連れていく。第一章で大事なのは、そこまでの入口を開けておくことである。
第二章 ジュール・ブリュネは何者だったの?
ジュール・ブリュネは、ただの外国人軍人ではない。日本史の中では、どうしても「旧幕府軍に味方したフランス人」として見られやすい。しかし、その見方だけでは、彼の輪郭はかなりぼやける。ブリュネを理解するには、まず彼を「戦場で刀を振るう英雄」ではなく、「砲兵、工学、製図、軍事制度に通じた近代軍人」として見る必要がある。
彼は一八三八年一月二日、フランスのベルフォールで生まれた。父は軍獣医ジャン=ミシェル・ブリュネであり、彼は最初から軍事と無縁の家庭に育ったわけではない。若いころにはサン=シールに入り、その後エコール・ポリテクニークへ進み、さらにメスの砲兵・工兵学校で学んだ。ここだけを見ると、彼は単なる腕自慢の兵士ではなく、フランス軍の中でも理系的な訓練を受けた将校だったことが分かる。
この経歴はかなり重要である。砲兵という兵科は、勇気だけでは務まらない。大砲を撃つには、距離、角度、火薬量、弾道、風、地形、運搬、補給を考えなければならない。歩兵が「前へ進む力」を象徴するとしたら、砲兵は「計算して戦場を変える力」を象徴する。ブリュネは、その計算する軍人として育てられた。
たとえば、剣の強い人物なら、目の前の敵を倒す場面で力を発揮する。けれども砲兵将校は、敵が見える前から仕事を始めている。どこに砲を置けばいいか、どの道なら運べるか、弾薬はどれだけ必要か、どこを撃てば相手の動きが止まるか。こういうことを事前に組み立てる。つまり砲兵将校は、戦場で腕を振るう人というより、戦場そのものを設計する人に近い。
ブリュネが日本で後に見せる性格も、ここからかなり説明できる。彼は、目立つ一騎打ちをするために日本へ来たわけではない。彼が得意としたのは、兵士を配置し、砲を用意し、工廠を整え、教範を運用し、軍隊を動く仕組みにすることだった。だから彼の人生を読むときは、映画的な剣戟よりも、地図、工場、教練場、弾薬庫を見るべきである。
来日前のブリュネには、すでに実戦経験もあった。彼はメキシコ遠征に参加し、プエブラでの働きによってレジオン・ドヌールを受けたとされる。これは、机の上だけで軍事を学んだ人物ではなかったということを意味する。理論を知り、現場も知っている。幕府が求めた「西洋の軍事技術」を伝える人材としては、かなり条件がそろっていた。
ここで「砲兵将校」という言葉を、もう少し具体的に考える必要がある。近代軍隊において砲兵は、ただ強い武器を扱うだけの存在ではない。大砲は重い。動かすには馬や人員が必要になる。撃つには火薬と弾が必要になる。壊れれば修理が必要になる。弾がなくなれば、どれだけ立派な砲でも鉄の置物になる。だから砲兵は、自然に補給、工業、道路、測量、命令系統と結びつく。
この点で、ブリュネは幕末日本にとって象徴的な人物だった。日本が必要としていたのは、一人の強者ではなかった。必要だったのは、強さを再生産する仕組みだった。銃を一丁買うだけなら、金を払えば済む。しかし銃を使える兵士を育て、弾薬を補給し、部隊を動かし、壊れた武器を直し、次の教官を育てるとなると、話はまったく違う。ブリュネは、その違いを体で知っている側の人間だった。
彼には、製図や写生の能力もあったとされる。これは一見すると、軍人としては脇道に見えるかもしれない。しかし、十九世紀の軍人にとって、地形を見て描く力、施設を記録する力、砲台や工場の構造を理解する力は、かなり実用的な能力だった。写真やデジタル地図に頼れない時代、正確に見ること、正確に描くことは、そのまま軍事的な判断力につながった。
たとえるなら、ブリュネは「戦う人」であると同時に「図面を引ける人」だった。建物を建てる時、現場で汗を流す職人も必要だが、設計図を読める人、材料を計算できる人、全体の構造を考える人も必要になる。軍隊も同じである。ブリュネは、戦場の現場を知りながら、同時に設計図の側から軍隊を考えられる人物だった。
だから、彼を「武士に魅せられたフランス人」とだけ語ると、むしろ彼の面白さを小さくしてしまう。彼の本質は、武士道への感動よりも、近代軍事システムへの信頼にある。彼は、軍隊を精神論ではなく、訓練、規律、火力、補給、技術、指揮の組み合わせとして見ていた。これは、幕末の日本にとって非常に異質であり、同時に必要とされていた見方だった。
ブリュネの来日時の所属も、ここで改めて押さえておく必要がある。彼は、私人でも傭兵でもなく、シャノワーヌ大尉率いる第一次フランス軍事顧問団の一員だった。階級は来日時点では中尉で、日本滞在中の一八六七年八月に大尉へ昇進している。つまり、彼は最初から「好きで幕府に味方した外国人」だったのではなく、フランス陸軍の正式な任務として日本へ来た軍事専門家だった。
この事実は、後の行動を考える上でも大事である。最初から無頼の冒険家だった人間が、敗れゆく勢力に肩入れするのと、公的任務で派遣された軍人が、途中から命令系統を外れて残るのとでは、意味がまったく違う。前者ならロマンで済む。後者なら、軍規、外交、忠誠、責任の問題になる。ブリュネの物語が複雑なのは、彼がもともと制度の内側にいた人間だからである。
そして、制度の内側にいた人間だからこそ、制度が崩れる瞬間に引き裂かれる。幕府がまだ政権として存在しているうちは、彼の仕事は分かりやすい。フランス政府の顧問団として、幕府陸軍を教える。それだけである。しかし、幕府が政治的に敗れ、フランスが中立へ傾き、教え子たちが旧幕府軍として北へ向かうと、彼の立場は一気に難しくなる。職務としての任務は終わっても、彼が作りかけた軍事システムはそこに残っていた。
この意味で、ブリュネは「境目の人」である。フランス人でありながら、日本の内戦に深く入り込んだ。公的な軍人でありながら、最後には公的任務を離れた。技術者的な砲兵将校でありながら、最後には政治的な賭けにも踏み込んだ。彼はどちらか一方にきれいに分類できない。だからこそ、彼を読むと、近代というものが単なる進歩ではなく、人間を引き裂く力でもあったことが見えてくる。
ブリュネを一言で説明するなら、「幕末日本に派遣されたフランスの砲兵将校であり、軍隊を作る技術を持ち込み、その作りかけの軍隊と運命を共にしようとした人物」である。ただし、これは英雄礼賛ではない。彼の行動には軍規違反の問題があり、外交問題もあり、自己正当化もあった。それでも彼は、単なる脱走兵として片づけるには大きすぎる役割を果たした。
だから第二章で読者に残したいのは、「ブリュネは何者だったのか」という問いへの、少し厚みのある答えである。彼は侍になりたかったフランス人ではない。彼は、日本に近代軍隊の作り方を教えに来た、数学と砲兵と実戦経験のあるフランス軍人だった。その人物が、やがて幕府崩壊の渦の中で、自分の任務、自分の教え子、自分の国の利害、自分の軍人としての誇りを、同時に抱え込んでしまう。ジュール・ブリュネの面白さは、まさにそこにある。
第三章 幕府はなぜフランス式軍隊を欲しがったの?
徳川幕府がフランス式軍隊を欲しがった理由は、単に「西洋かぶれ」だったからではない。幕府は、自分たちの軍事システムが時代遅れになっていることを、かなり切実に理解していた。黒船来航以後、日本の政治は、国内の身分秩序だけで完結しなくなった。海の向こうから、蒸気船、大砲、条約、外交圧力がやって来る。そこで問われたのは、武士の誇りではなく、国家として戦える仕組みを持っているかどうかだった。
江戸幕府は、二百年以上にわたって日本列島を支配してきた。その力の源は、将軍の権威、幕藩体制、武士身分、藩との主従関係にあった。しかし、十九世紀半ばになると、その仕組みだけでは足りなくなる。たとえば、古い城下町の火消し組織が、突然、近代的な消防車と無線通信を持つ外国の消防隊と比べられるようなものである。根性や経験はある。けれども、装備、通信、訓練、組織の作り方が違いすぎる。
幕府が欲しがったのは、強い武器だけではなかった。銃や大砲は買えば手に入る。しかし、買っただけでは軍隊にはならない。撃ち方を知らなければならない。弾薬を作らなければならない。砲を運ぶ道具も必要になる。将校を育て、命令系統を整え、訓練を反復し、兵器工場を動かす必要がある。つまり幕府が必要としていたのは、武器そのものではなく、武器を戦力に変える社会的な仕組みだった。
その手本として選ばれたのが、フランスだった。幕末の幕府はフランスを範として軍制改革を進め、フランス軍事顧問の招聘を一八六六年に取り決め、同時にフランス式教範の翻訳も進めていた。第一次顧問団の改革提案は、将軍徳川慶喜に提出され、さらに幕府の軍事責任者である松平乗謨にも示されたと整理されている。つまり、これは現場だけの思いつきではなく、幕府中枢の政治判断だった。
では、なぜイギリスではなくフランスだったのか。もちろん幕末日本では、イギリスの影響も大きかった。薩摩や長州との関係を考えれば、イギリスは無視できない存在だった。しかし幕府側には、フランス公使レオン・ロッシュの強い後押しがあり、幕府の近代化要求とフランス側の対日影響力拡大の思惑が重なった。幕府は軍制と工廠をフランス式に再編したがり、ロッシュはこれを日仏関係強化の中核案件として推したとされる。
ここで大事なのは、幕府が「軍隊の形」を欲しがったのではなく、「近代国家の背骨」を欲しがったという点である。近代軍隊とは、兵士がたくさんいるだけの集団ではない。徴募、訓練、補給、兵器製造、将校教育、会計、命令、規律が結びついた巨大な装置である。武士が個人として強いことと、国家が軍隊として強いことは違う。剣豪が百人いても、弾薬庫が空なら戦争は続かない。勇士が千人いても、命令が伝わらなければ烏合の衆になる。
幕府が直面していた問題は、まさにそこだった。江戸時代の武士は、身分としては軍事階級だった。しかし、平和が長く続いた結果、多くの武士は行政官でもあり、儀礼の担い手でもあり、必ずしも近代戦争の兵士ではなかった。しかも幕府軍全体を一つの規格で訓練し、統一された装備で動かす仕組みは弱かった。藩ごと、人ごと、部隊ごとにバラバラな力を、どうやって一つの軍隊にするのか。それが幕府の課題だった。
この問題は、現代でいえば、会社が古い紙の帳簿からクラウド会計へ移るようなものだ。パソコンを買っただけでは業務は変わらない。社員に使い方を教え、入力ルールを決め、責任者を置き、古い書式を捨て、全員が同じ仕組みで動くようにしなければならない。幕府にとってのフランス式軍隊も同じだった。新しい銃を持つだけではなく、軍隊のOSそのものを入れ替える必要があった。
ブリュネたち軍事顧問団の意味は、ここにある。彼らの任務は、歩兵、騎兵、砲兵の訓練だけではなかった。幕府側の武器・弾薬製造、工廠改善、教範導入、将校教育の整備まで含んでいた。単に「外国人教官が銃の撃ち方を教えた」のではなく、「教習所、兵器工場、参謀教育をまとめて立ち上げる外部チーム」に近い。
ブリュネ個人の専門である砲兵は、幕府の課題をよく映していた。砲兵は、ただ大砲を撃つ兵科ではない。砲の性能、火薬、弾、鋳造、修理、測量、訓練、配置がすべて必要になる。幕府軍の砲は施条が不完全で、射程や精度にも限界があった。ブリュネは砲兵器材を点検し、江戸の工廠と鋳造所を巡検し、武器・弾薬生産をフランス式の合理的工程へ改める任務を担った。これは単純な教練ではなく、制度訓練だった。
制度訓練という言葉は、この章の鍵になる。幕府は、兵士を少し強くしたかっただけではない。強い兵士を作り続ける仕組みを欲しがった。たとえば、一人の名医がいる病院と、若い医師を育て、薬を管理し、記録を残し、設備を保守できる病院は違う。前者は名医が倒れれば終わる。後者は、人が入れ替わっても機能し続ける。幕府がフランス式軍隊に期待したのは、後者の強さだった。
しかし、幕府の改革には決定的な弱点があった。時間が足りなかったのである。軍制改革は、始めた翌日に完成するものではない。教官を育て、部隊をそろえ、訓練を反復し、兵器工場を整えるには、長い時間が必要になる。ところが、政治状況はその時間を与えてくれなかった。薩摩、長州、朝廷、外国勢力、将軍徳川慶喜の政治判断が絡み合い、改革は途中のまま戦争へ押し出されていく。
だから、幕府がフランス式軍隊を欲しがったことは、希望であると同時に焦りでもあった。まだ間に合うかもしれない。近代的な陸軍を作れば、政局の主導権を取り戻せるかもしれない。フランス式の訓練と工廠を整えれば、薩長に対抗できるかもしれない。だが、その「かもしれない」は、すでにかなり追い詰められた者の言葉でもあった。
この章で見ておくべきなのは、幕府が無能だったからフランスに頼った、という単純な話ではない。むしろ幕府は、かなり正確に問題を見ていた。古い軍事秩序では危ない。武器だけでは足りない。教範、将校、工廠、訓練、組織を一体で変えなければならない。そこまでは分かっていた。しかし、分かってから実行するまでの時間が足りなかった。ここに幕末幕府の悲劇がある。
ジュール・ブリュネが登場するのは、その悲劇の中心である。彼は、幕府が欲しがった新しい軍隊の部品ではなく、その設計思想を運んできた人物だった。幕府がフランス式軍隊を求めたのは、フランスが好きだったからではない。近代国家として生き残るために、軍隊という巨大な機械を作り直す必要があったからである。そしてその機械は、完成する前に、戊辰戦争という現実の戦場へ投げ込まれることになる。
第四章 ブリュネは日本で何を教えたの?
ジュール・ブリュネが日本で教えたものは、ひとことで言えば「近代軍隊の作り方」だった。ただし、ここで注意しなければならない。彼は幕府軍全体の万能教師として、歩兵も騎兵も砲兵もすべて一人で教えたわけではない。ブリュネ本人の中核任務として最もはっきりしているのは、砲兵教練と軍需技術指導である。第一次フランス軍事顧問団の中では、ブリュネが砲兵、デシャルムが騎兵、デュ・ブスケとメスロが歩兵を担当したと整理されている。つまり彼は、幕府軍全体の総先生というより、砲兵を中心に軍隊の仕組みへ踏み込んだ専門家だった。
砲兵を教えるというと、大砲の撃ち方を教える場面だけを想像しやすい。しかし、それでは半分も見えていない。大砲は、銃よりもさらに面倒な兵器である。重い。運びにくい。弾薬を大量に必要とする。火薬の品質が悪ければ威力が落ちる。砲身の精度が悪ければ狙った場所に飛ばない。砲架が壊れれば、どれだけ立派な砲でも動かない。だから砲兵教育とは、単なる射撃練習ではなく、兵器、工場、補給、測量、命令をまとめて扱う教育になる。
ブリュネがまず向き合ったのも、そういう総合的な問題だった。フランス側記録では、幕府軍の砲は施条が不完全で、射程も精度も限られていたとされる。そこでブリュネは、砲兵器材を点検し、江戸の工廠や鋳造所を巡検し、武器や弾薬の生産をフランス式の合理的工程へ改める任務を担った。ここで彼が教えたのは、単に「撃て」ではない。「ちゃんと作り、ちゃんと運び、ちゃんと狙い、ちゃんと使う」という一連の考え方だった。
たとえば、ピアノを習う場合を考えると分かりやすい。鍵盤の押し方だけを教えても、音楽家は育たない。楽譜の読み方、指の使い方、練習の手順、楽器の調律、演奏会での合わせ方まで必要になる。砲兵も同じである。大砲を撃つ瞬間だけが砲兵ではない。砲を置く場所、弾薬の数、射程の計算、砲兵同士の連携、指揮官の命令、補給線の維持まで含めて、はじめて砲兵になる。ブリュネは、その全体像を幕府軍へ持ち込もうとした。
その意味で、彼の授業は「武器の授業」であると同時に「制度の授業」だった。教練の背後には、将校養成、常備的な徴募、仏式の軍事行政創設まで含む大きな改革構想があった。軍隊は、兵士が集まれば自然にできるものではない。誰が命令するのか。誰が訓練するのか。誰が記録するのか。誰が武器を保管するのか。誰が弾薬を作るのか。こうした問いに答える仕組みがなければ、兵士は集団にはなっても軍隊にはならない。
だから、ブリュネの役割を「フランス式の撃ち方を教えた人」とだけ説明すると、かなり小さくなる。むしろ彼は、幕府軍に対して「火力をどう組織するか」を教えた人物だった。火力とは、単に強い弾を飛ばすことではない。敵より長い距離から撃つ。味方の前進に合わせて撃つ。敵の動きを止める。砲を失わないように移動させる。必要な弾薬を途切れさせない。こういう全体の組み合わせが、火力を戦力に変える。
この違いは、パソコンにたとえると分かりやすい。最新の高性能パソコンを買っても、使い方が分からなければただの箱である。ソフトを入れ、設定を整え、データを管理し、作業手順を覚え、故障時の対応を決めて、ようやく仕事に使える。幕府が買った銃や砲も同じだった。武器そのものは重要だが、それを運用する知識がなければ、近代軍隊にはならない。ブリュネは、武器というハードウェアと、訓練や制度というソフトウェアをつなぐ場所にいた。
教え方の面でも、彼らはただ口で伝えただけではなかった。少数の日本人士官がすでにフランス語を理解し、横浜では仏学教育を受けた者が通訳として機能していた。また、顧問団の来日と並行してフランス式教範の翻訳が進み、『法国歩兵演範 小隊教法』のような教本も確認できる。つまり、ブリュネたちの教練は、その場限りの実演ではなく、日本側が繰り返し読める知識へ変換されていた。
これはかなり大きい。口頭で教えられた知識は、その人がいなくなれば薄れていく。しかし、通訳され、翻訳され、教本になれば、別の人が学び直せる。さらに、その人が次の人に教えられる。知識が紙に移ることで、一回の授業が何度も再生できるようになる。軍隊にとって教本とは、単なる本ではない。教官を増やすための装置であり、訓練を標準化するための道具である。
ブリュネの仕事には、装備の問題も深く関わっていた。フランス側は制服や装具のモデルを持参し、幕府側のフランス式部隊は後装式シャスポー銃やミニエー銃を装備していたとされる。しかし、ここでも大事なのは、装備を輸入することと、装備を使いこなすことは別だという点である。良い銃を渡されても、射撃法、弾薬補給、隊列の動かし方、修理の仕方を知らなければ、戦力として安定しない。ブリュネの仕事は、まさにその接合部にあった。
訓練場所も、彼の仕事の性格をよく示している。最初の主要訓練場所は、横浜近郊の大田村、大田陣屋だった。そこでは大鳥圭介の指揮する部隊を相手に教授が始まったとされる。その後、江戸へ段階的に移っていく。大田村は、日本人部隊に密着して観察できる利点があったが、訓練空間が狭く、とくに騎兵や砲兵には不向きだった。砲兵は広い場所を必要とする。弾を飛ばし、砲を動かし、距離を測り、部隊を広げるからである。
江戸に移った後、重要になったのが駒場野や江戸周辺の軍需施設だった。幕府と顧問団の共同計画では、中目黒火薬所、王子の鋳造所、関口系の製造施設、駒場の砲兵射撃場を組み合わせ、火薬製造、砲鋳造、兵器製造、射撃試験を分担させる構想があったとされる。単一の練兵場で兵士を並べるだけではなく、江戸周辺に散らばる施設をつなぎ、砲兵システムとして動かそうとしていたのである。
ここまで来ると、ブリュネが教えたものの正体がはっきりしてくる。彼は「フランス式の軍隊ごっこ」を教えたのではない。兵器を点検し、工廠を見直し、翻訳教本を使い、砲兵を訓練し、将校教育や軍事行政の構想と結びつけた。つまり、近代戦争を可能にする部品を、一つずつ幕府軍の中へ埋め込もうとしたのである。
もちろん、その成果を大きく見すぎてもいけない。直接フランス式教育を受けた日本兵は最大でも二百三十名ほどだったとする見方があり、幕府軍全体が短期間でフランス軍のコピーになったわけではない。一方で、別系統の叙述では、一八六七年秋には教練対象が歩兵千五百、騎兵三百、砲兵二百五十へ拡大したともされる。この違いは、直接濃く教えた中核生徒と、仏式再編の対象部隊を分けて考えると理解しやすい。
つまり、ブリュネの教育は「完成」ではなく「着工」だった。大きな建物を作るとき、最初にできるのは完成した部屋ではない。基礎、柱、配管、電線、図面である。外から見ると、まだ何もできていないように見える。しかし、その基礎がなければ建物は立たない。ブリュネの教練も同じで、戊辰戦争の時点では幕府軍全体を変えるには間に合わなかった。それでも、伝習隊、砲兵施設、軍需製造、翻訳教本という形で、確かな基礎を残した。
だから第四章で読者に残すべき答えは、こうである。ブリュネは日本で、大砲の撃ち方だけを教えたのではない。彼は、近代軍隊が火力をどう作り、どう運び、どう管理し、どう再生産するのかを教えた。彼の授業は、練兵場だけでなく、工廠、鋳造所、火薬所、翻訳教本、将校教育にまで広がっていた。ジュール・ブリュネが幕府にもたらしたものは、一本の大砲ではなく、大砲を軍隊の力に変える考え方だった。
第五章 近代軍隊は、何人教えれば作れるの?
近代軍隊は、何人教えれば作れるのか。この問いは、ジュール・ブリュネを考えるうえで、かなり重要である。なぜなら、ここを間違えると、彼の仕事を大きく見すぎるか、小さく見すぎるかのどちらかになるからだ。ブリュネが来たから、幕府軍が一気にフランス軍のようになった、と言えば誇張になる。逆に、直接教えた人数が少ないから何も変わらなかった、と言えば、それもまた浅い見方になる。
訓練規模にはズレがある。フランス式の直接軍事教育を受けた日本人兵士は最大でも二百三十名にすぎない、という見方がある。他方では、一八六七年秋には教練対象が歩兵千五百、騎兵三百、砲兵二百五十まで拡大し、将来的には全軍一万二千人と五百人の将校へ広げる計画があった、ともされる。この二つは、単純にどちらかが正しく、どちらかが間違いというより、「濃く直接教えた中核」と「仏式再編の対象部隊」を分けて考えると理解しやすい。
たとえば、学校を作る場面を想像すればよい。最初に百人の先生を育てることができれば、その百人がそれぞれ別の教室を持ち、さらに生徒を教えられる。最初に教えた人数だけを見ると小さく見える。しかし、その中に次の教官、翻訳者、指揮官、現場責任者が含まれていれば、意味は大きく変わる。近代軍隊を作るとは、兵士を一人ずつ完成品にすることではなく、兵士を育て続ける仕組みを作ることだからである。
ブリュネたちの教育も、この構造で見る必要がある。彼らがその場で直接教えた人数には限界があった。しかし、教練は通訳を介し、フランス式教範の翻訳とも結びつき、再利用可能な知識へ変換されていた。少数の日本人士官がフランス語を理解し、通訳として機能し、さらに『法国歩兵演範 小隊教法』のような教本が存在していたのだ。つまり、教えは口頭で消えるものではなく、紙と制度の中へ移されていた。
ここが、近代軍隊と古い武芸の大きな違いである。名人の技は、その名人の体に宿る。弟子が見て、まねて、何年もかけて盗む。もちろん、それも一つの強さである。しかし近代軍隊は、個人の名人芸だけでは動かない。教本を作り、訓練手順をそろえ、命令の言葉を統一し、同じ動きを何百人、何千人が再現できるようにする。そこでは「一人の達人」よりも「同じことを教えられる仕組み」の方が大事になる。
この意味で、二百三十名という数字は、小さく見えても侮れない。もしそれが、ただの二百三十人の兵士なら、幕府全体を変えるには少なすぎる。しかし、その中に将校候補、教官候補、通訳、現場で命令を伝える者が含まれていたなら、話は変わる。火種が小さくても、乾いた薪に移れば大きな火になる。ブリュネの教育は、火そのものを広げるというより、火種を作る作業に近かった。
ただし、火種があれば必ず燃え広がるわけではない。そこには時間がいる。燃え移る薪もいる。風向きもいる。幕府軍の場合、その時間が決定的に足りなかった。仏式再編の対象部隊は拡大しつつあったが、全軍が均質な近代軍隊へ変わる前に、戊辰戦争が始まってしまう。旧幕府側はなお装備と訓練の不均一が大きく、全軍の再編は完了していなかった。ブリュネの教練は「完成」ではなく「着工」に近かった。
この「着工」という見方は、とても大事である。家を建てるとき、基礎工事が終わった段階では、まだ人は住めない。壁もない。屋根もない。外から見ると、ただ地面を掘っているように見えるかもしれない。しかし、基礎がなければ家は立たない。ブリュネの訓練も同じである。戊辰戦争の時点で、幕府軍は完成した近代軍隊ではなかった。しかし、砲兵、工廠、教範、将校教育という基礎工事は、確かに始まっていた。
ここで重要になるのが、直接教育と制度移植の違いである。直接教育とは、教官が目の前の兵士に姿勢を直させ、号令をかけ、銃や砲の扱いを教えることである。制度移植とは、その教育を日本側が自分たちで繰り返せるように、教官、教本、訓練場所、兵器生産、指揮系統まで整えることである。前者は授業であり、後者は学校づくりである。ブリュネの意味は、授業だけでなく、学校づくりに関わった点にある。
たとえば、料理教室で十人にカレーの作り方を教えるだけなら、その十人しか作れない。しかし、レシピを作り、調理器具をそろえ、食材の仕入れ先を決め、教える側の人間を育てれば、カレーは百人、千人へ広がっていく。軍隊も同じである。一回の教練で終わるなら、人数はその場で止まる。けれども教範になり、教官が育ち、工廠が動き、命令系統が整えば、知識は増殖する。
だから、ブリュネの影響を考えるとき、「何人教えたのか」だけを問うのは足りない。「何人が、次に誰かを教えられるようになったのか」「どの知識が、翻訳されて残ったのか」「どの設備が、訓練を支えたのか」と問わなければならない。近代軍隊は人数の集まりではなく、反復できる仕組みの集まりだからである。
この視点で見ると、幕府の仏式部隊は、たんに少数の西洋かぶれではなく、近代軍隊の試作品だったと言える。試作品は、完成品ではない。壊れやすいし、未完成な部分も多い。しかし、試作品には未来の形が入っている。歩兵千五百、騎兵三百、砲兵二百五十という数字は、幕府がその試作品をより大きな部隊へ広げようとしていたことを示している。そこには、少数教育から部隊再編へ進もうとする意思があった。
もちろん、それでも限界は大きかった。近代軍隊は、外国人教官だけでは作れない。日本側に受け皿がなければならない。命令を聞く兵士、学ぶ将校、翻訳する人材、金を出す政権、維持する工場、訓練を続ける時間が必要である。ブリュネは種を持ち込める。しかし、土壌そのものを一人で作ることはできない。幕府はその土壌を作ろうとしたが、政治の崩壊があまりにも早かった。
そのため、ブリュネの教育は、短期的には旧幕府軍の一部にしか浸透しなかった。伝習隊や砲兵施設、軍需製造の改善としては現れたが、幕府全軍を決定的に変えるところまでは届かなかった。しかし長期的には、旧幕臣たちが静岡や沼津へ持ち運んだ仏式軍学、軍学校規則、翻訳教本が、沼津兵学校を経て、日本陸軍制度の一源流へつながっていく。ここに、直接の戦果だけでは測れない影響がある。
つまり、「近代軍隊は何人教えれば作れるのか」という問いへの答えは、単純な人数ではない。二百三十人では少なすぎる、と言うこともできる。二百三十人でも、核になれば大きい、と言うこともできる。千五百人を教練対象にしても、時間がなければ完成しない、とも言える。問題は人数ではなく、その人数が制度の中で増殖できるかどうかである。
ブリュネの仕事は、まさにその増殖の入口にあった。彼は幕府に、完成した近代軍隊を手渡したわけではない。そうではなく、近代軍隊を作るための核を置いた。教官、教練法、砲兵運用、工廠改善、翻訳教本、将校教育。これらは一つ一つは小さく見える。しかし、結びつけば軍隊を生む。ブリュネが教えた人数は限られていた。だが、彼が持ち込んだ問いは大きかった。軍隊とは、人の数なのか。それとも、人を戦力に変え続ける仕組みなのか。その問いが、幕末の日本を近代へ押し出していく。
第六章 鳥羽・伏見で何が壊れたの?
鳥羽・伏見で壊れたものは、幕府軍だけではない。壊れたのは、徳川幕府がまだ軍事改革で巻き返せるかもしれない、という時間の感覚だった。フランス式の訓練は始まっていた。砲兵も整えられつつあった。工廠や教範や将校教育も、少しずつ形になっていた。だが、その改革は完成していなかった。幕府は、家を建てている途中で台風に襲われたような状態だった。
戊辰戦争が始まる直前の幕府軍には、たしかに新しい要素が入っていた。ブリュネたちは、歩兵、騎兵、砲兵の伝習部隊を扱い、さらに全軍一万二千人と五百人の士官へ訓練を拡大する構想にも関わっていた。しかし一八六八年初頭の幕府軍は、一部がフランス式に訓練されていた一方で、多くはまだ伝統的な兵装や古い運用にとどまっていた。鳥羽・伏見の敗北は、フランス式が完成して負けたのではなく、完成する前に戦争へ突入した敗北だった。
ここを間違えると、ブリュネの意味も幕府の失敗も見えにくくなる。幕府軍が負けたから、フランス式軍制は無意味だった、と言うのは早すぎる。反対に、フランス式なら勝てたはずだ、と言うのも単純すぎる。問題は、最新の部品をいくつか入れた車が、全体の整備を終える前にレースへ出されたことに近い。エンジンは新しい。だが、タイヤ、運転手、燃料供給、整備体制がそろっていない。これでは、車全体としては不安定になる。
鳥羽・伏見の戦いは、幕府の軍事改革にとって、成績発表ではなく中間試験の失敗だった。しかも、その中間試験の点数で政権の生死が決まってしまった。軍隊の近代化には、訓練、補給、兵器生産、将校教育、指揮系統の統一が必要である。けれども幕府は、そのすべてを十分にそろえる前に、政治的な決戦へ押し出された。壊れたのは、戦場の陣形だけではなく、改革を続けるための政治的な余裕だった。
ブリュネ自身の位置も、この時点ではまだ微妙である。彼は幕府側の軍事顧問として戦局の中心にいたとされ、鳥羽・伏見直前後には江戸の薩摩藩邸攻撃に助言したとも記録される。また、徳川慶喜がシャノワーヌやブリュネらに意見を求めた局面もあった。しかし、ブリュネ本人が鳥羽・伏見の火線にどこまで直接入ったかは、公開史料だけでは確定しにくい。厳密には、幕府軍支援は確認できるが、直接戦闘参加の細部は未詳と見るべきである。
この慎重さは大事である。ブリュネを派手な戦場の英雄として描けば、物語としては分かりやすい。しかし、資料の中のブリュネ像は少し違う。彼はこの段階では、剣を抜いて突撃する人物というより、幕府軍が近代軍隊として機能するための助言者だった。戦場で目立つ一撃を放つ人間ではなく、訓練、兵器、部隊運用、判断の背後にいる人間である。つまり鳥羽・伏見の段階で壊れたのは、彼の武勇ではなく、彼が作ろうとしていた制度の土台だった。
幕府にとって、鳥羽・伏見の敗北が決定的だったのは、軍事的損失以上に政治的意味が大きかったからである。戦争では、一回の敗北だけなら立て直せることもある。兵を集め直し、補給を整え、戦線を引き直せばよい。しかし幕府の場合、敗北はただの戦術的後退ではなかった。将軍の権威、幕府の正統性、諸藩の態度、外交上の扱いが一気に揺らいだ。軍隊が負けたことで、政権そのものが負けはじめたのである。
これは、会社でいえば主力商品の失敗だけでなく、銀行、取引先、社員、顧客が同時に不安になった状態に近い。商品を改良すれば済む段階なら、まだ立て直せる。だが、資金繰りが疑われ、社長の判断が疑われ、社員が離れ、取引先が別会社へ乗り換えはじめたら、もう技術改善だけでは足りない。幕府のフランス式軍制改革も同じだった。軍隊を直せばよい、という話ではなくなった。
ブリュネたちフランス軍事顧問団にとっても、鳥羽・伏見は任務の意味を変える事件だった。幕府がまだ政権であるなら、彼らの仕事は明快である。フランス政府の顧問団として、徳川幕府の陸軍近代化を助ければよい。しかし幕府が敗れ、政治的な中心から外れていくと、その支援はただの軍事教育ではなくなる。どの勢力を助けているのか。フランスは内戦のどちらに近づくのか。顧問団は中立と介入の境目に立たされる。
実際、鳥羽・伏見後には顧問団の活動にもブレーキがかかる。ブリュネたちは一八六八年三月に顧問団が訓練停止命令を受け、三月二十一日に横浜へ退避した。さらに九月には、顧問団の解散と帰国処理が進められる。つまり、鳥羽・伏見は幕府軍の敗北であると同時に、フランス軍事顧問団の公式任務が空洞化していく入口でもあった。
ここで、ブリュネの物語は次の段階へ向かう。彼は最初、公的な軍事顧問として日本へ来た。だが、幕府が敗れ、顧問団が退避し、フランスが距離を取りはじめると、彼の前には別の問いが現れる。自分の任務は終わったのか。それとも、自分が育てた兵士と軍事システムは、まだ生きているのか。国家の命令に従って帰るのか。それとも、現場で始めた仕事に最後まで関わるのか。
鳥羽・伏見で壊れたものを一言で言うなら、それは「公的任務としての分かりやすさ」である。戦う相手も、支援する相手も、政治の中心も、すべてが流動化した。昨日まで政権だった幕府が、今日には敗者になりつつある。昨日まで軍事改革だった仕事が、今日には内戦への関与になりつつある。ブリュネは、その変化の中で、ただの教官ではいられなくなっていく。
また、鳥羽・伏見は旧幕府軍の弱点も露出させた。弱かったのは、個々の兵士の勇気だけではない。全軍を同じ規格で動かす力、政治判断と軍事運用をつなぐ力、敗北後にすぐ再編する力が足りなかった。近代軍隊とは、勝っている時だけ整っていればよいものではない。負けた時に、どれだけ速く立て直せるかも含めて軍隊である。幕府軍は、そこまでの制度をまだ持ち切れていなかった。
この敗北の痛みは、後の箱館戦争にも影を落とす。ブリュネが蝦夷地でやろうとすることは、ある意味で鳥羽・伏見の反省の縮小版だった。部隊を整理し、指揮を通し、砲台を置き、補給を整え、防衛線を作る。つまり、バラバラな兵力を一つの戦争機械へ組み替える作業である。鳥羽・伏見で壊れたものを、彼は北方で小さく作り直そうとする。
だから第六章で押さえるべき結論は、鳥羽・伏見は単なる敗戦ではなかったということだ。それは、幕府の近代化が時間切れになった瞬間だった。フランス式訓練の価値が否定されたのではない。むしろ、その必要性が明らかになったのに、政権がそれを完成させる時間を失った。ブリュネにとっても、鳥羽・伏見は任務の終わりではなく、任務が政治と忠誠の問題へ変質する始まりだった。
幕府は、近代軍隊を作ろうとしていた。ブリュネは、その作業に深く関わっていた。しかし、鳥羽・伏見で明らかになったのは、軍隊だけを近代化しても、政権全体がそれに耐えられなければ意味がないということだった。大砲を新しくしても、命令系統が揺らぎ、政治的正統性が崩れ、外交環境が変われば、軍隊は孤立する。鳥羽・伏見で壊れたのは、幕府軍の隊列ではない。幕府がまだ近代化によって生き残れるという、最後の猶予だった。
第七章 なぜブリュネは帰らなかったの?
ジュール・ブリュネが帰らなかった理由を、単純な美談にしてはいけない。彼は、幕府の武士道に心を打たれて、すべてを捨てたロマンチストだったのか。あるいは、命令に背いて日本の内戦へ加わった無謀な脱走兵だったのか。どちらの見方にも、少しずつ真実はある。けれども、それだけでは足りない。ブリュネの残留は、忠義、軍規、外交、責任感、フランスの国益が絡み合った、かなり複雑な決断だった。
まず押さえるべきなのは、彼が最初から好き勝手に動いていた人物ではないという点である。ブリュネは、フランス陸軍とフランス政府の対日軍事顧問団に属し、徳川幕府陸軍の近代化支援という公式任務で来日していた。つまり、彼は私人でも傭兵でもなく、公的な軍事使節の一員だった。だからこそ、後に彼がその枠を外れて旧幕府軍に合流することは、単なる友情では済まない事件になる。
鳥羽・伏見の敗北後、幕府の立場は急速に悪くなった。フランス軍事顧問団の任務も、そのまま続けることが難しくなる。一八六八年三月には、顧問団が訓練停止命令を受け、横浜へ退避した。その後、九月二十九日には、ウトレー公使が顧問団の解散と帰国処理を決定したと整理されている。つまり、ブリュネには帰る道が用意されていた。命令系統に従うなら、彼はここで日本から離れるはずだった。
しかし、ブリュネは帰らなかった。一八六八年十月四日、彼は辞表と三通の書簡を残し、カズヌーヴとともに品川沖の榎本艦隊へ合流した。これは、彼の人生の中でも最も決定的な転回である。軍事顧問として幕府を教える立場から、敗れた旧幕府側と運命をともにする立場へ移ったからである。ここで彼は、フランス政府の仕事をする人間から、自分自身の判断で動く人間へ変わった。
では、なぜそこまでしたのか。よくある答えは「教え子を見捨てられなかったから」である。これは、かなり重要な理由だろう。ブリュネは、幕府軍に砲兵教練、工廠改善、軍制再編を教えてきた。彼の目の前には、自分が訓練し、自分が制度化しようとした兵士たちがいた。作りかけの橋を前にして、設計者だけが安全な岸へ戻るようなことは、彼にはできなかったのかもしれない。
ただし、それだけで説明すると、ブリュネは情に流された人物に見えてしまう。彼の一八六八年十月四日の書簡群から見えるのは、もっと政治的な自己理解である。彼は自らの残留を、幕府軍への私人としての忠義というより、フランスの対日影響力を北方勢力の側で保持しようとする、政治的かつ軍事的な試みとして理解していたとされる。この意味で、彼は「ラストサムライ」というより、自分が育成した軍事システムと教え子を見捨てなかった現場責任者に近い。
ここは、現代の会社にたとえると分かりやすい。海外から呼ばれた技術責任者が、古い工場を最新設備へ変えようとしていた。機械も入れ替えた。作業員も訓練した。生産ラインも動き始めた。ところが、会社の本社が倒産しかけ、親会社から「撤収せよ」と命令が来る。その時、責任者は帰ることもできる。だが、現場には訓練した作業員と、動き始めたばかりのラインが残っている。ブリュネの決断には、この現場責任者の感覚があった。
もう一つ重要なのは、彼が旧幕府軍を単なる敗残兵として見ていなかったことだ。ブリュネにとって、北へ向かう旧幕府勢力は、まだ軍事的にも政治的にも可能性を残す勢力だった。彼は北方に拠って持久し、政治的風向きの転換を待つ構想を抱いたとされる。つまり、彼は絶望して美しく滅びようとしたのではない。箱館や松前を拠点とし、旧幕府側を再編し、まだ交渉可能な軍事的実体として残そうとしたのである。
この見方をすると、ブリュネの残留は「義理」と「戦略」のあいだにある。彼は教え子を見捨てたくなかった。だが同時に、フランスが築いた対幕府関係を完全に失わせたくなかった。幕府が江戸で敗れても、東北や蝦夷に旧幕府側の軍事拠点が残れば、フランスの影響力も残るかもしれない。これは彼自身の言い分であり、自己正当化も含まれている。けれども、少なくとも彼は自分の行動を、ただの感情ではなく政治軍事的な選択として考えていた。
だから、ブリュネをただの脱走兵と呼ぶのも、ただの義士と呼ぶのも、どちらも粗い。脱走兵という言葉は、軍規違反の側面をよく示す。彼は命令系統を外れ、帰国処理の流れに逆らった。だが、義士という言葉は、教え子への責任や、旧幕府側に残された可能性を見た感覚を示す。問題は、その二つが同時に成り立っていることだ。ブリュネは、規律に反したから責任感がなかったのではない。責任感を理由に、規律を破ったのである。
ここに、近代軍人としての苦しさがある。軍人は命令に従う存在である。しかし軍人は、現場を見て判断する存在でもある。上からの命令と、現場の責任が一致している時は迷わない。だが、それが食い違った時、どちらを選ぶのか。ブリュネの場合、フランス本国や公使館の判断は撤収に向かっていた。けれども彼の目の前には、自分が育てた兵士、自分が関わった軍事改革、自分の仕事の成果があった。
この苦しさは、医師にも似ている。病院の方針で撤退が決まったとしても、ベッドの上にはまだ患者がいる。制度上は帰ってよい。けれども、現場の人間としては、いま離れてよいのかという問いが残る。もちろん、だからといって規則を破ってよいとは限らない。だが、人間は制度の歯車である前に、目の前の相手との関係を持ってしまう。ブリュネの残留には、その逃げられなさがある。
ただし、ここでも英雄化しすぎてはいけない。ブリュネの行動は、日本側から見れば明治政府への敵対行為でもあった。実際、日本側は後に、ブリュネらが政府の敵として行動したと抗議している。これは、彼がただの観察者ではなかったことを意味する。彼の残留は、個人の友情物語ではなく、実際に軍事力の再編と戦争継続に関わる行動だった。だから外交問題にもなり、帰国後の処分にもつながっていく。
ブリュネが残った理由を、もっと深く言えば「自分の仕事が終わっていないと思ったから」である。幕府陸軍の近代化は、鳥羽・伏見で時間切れになった。しかし、彼が教えた兵士や制度の一部は、まだ旧幕府軍の中に残っていた。箱館へ向かう榎本艦隊は、敗北した幕府の残骸であると同時に、ブリュネにとっては、自分の作りかけた軍事システムをもう一度組み直せる最後の場所でもあった。
だから彼は、帰国という安全な道ではなく、北へ向かう不安定な道を選んだ。そこには、友情もあっただろう。名誉もあっただろう。フランスの影響力を守る計算もあっただろう。自分の仕事を途中で捨てたくない、という技術者的な執着もあっただろう。人間の決断は、一つの理由だけでできていない。ブリュネの場合、その複数の理由が、十月四日の書簡と榎本艦隊への合流に凝縮された。
第七章で押さえるべき結論は、ブリュネは「帰れなかった」のではなく「帰らないことを選んだ」ということである。しかも、その選択は純粋な忠義でも、単純な反逆でもない。公的任務の終わりと、現場責任の続きがぶつかった場所で、彼は後者を選んだ。だからブリュネの残留は、幕末史の小さな異国趣味ではない。近代国家の命令と、現場で生まれた人間関係が衝突した時、人はどちらへ行くのかという問題なのである。
第八章 榎本武揚たちは、蝦夷地で何を作ろうとしたの?
榎本武揚たちは、蝦夷地へただ逃げたのではない。もちろん、彼らは敗者だった。江戸は失われ、幕府は崩れ、旧幕府軍は政治の中心から押し出されていた。しかし、彼らが北へ向かった理由を「敗残兵の逃亡」とだけ見ると、箱館戦争の本質が見えなくなる。彼らが蝦夷地で作ろうとしたのは、もう一つの政治軍事拠点だった。
ここで大事なのは、五稜郭をただの最後の砦として見ないことである。五稜郭は、負けた者たちが閉じこもった墓場ではない。少なくとも榎本たちにとっては、新しい秩序をもう一度組み立てるための拠点だった。江戸で失われたものを、北の土地で小さく作り直す。政治、軍隊、海軍、補給、外交の可能性を残す。そのために、蝦夷地が選ばれたのである。
榎本艦隊の行動線を見ると、その意図はかなりはっきりする。旧幕府軍は鷲ノ木に上陸し、五稜郭へ入ったあと、松前、江差へと進んだ。つまり、単に城へ籠もったのではなく、道南の主要な港と交通線を押さえようとした。兵力については史料ごとに差があるが、少なく見ても二千人台後半、多く見れば四千人前後の規模だったと見るのが無難だと整理されている。
これは、かなり実務的な動きである。五稜郭だけを持っていても、戦争はできない。港がいる。船がいる。食料がいる。弾薬がいる。周辺の城や拠点を押さえなければ、孤立した要塞になる。たとえるなら、店を開くときに店舗だけ借りても商売にならないのと同じである。仕入れ先、倉庫、配送ルート、従業員、会計がなければ、店は開いていても回らない。榎本たちは、五稜郭という店舗だけでなく、道南全体の営業網を作ろうとした。
榎本武揚の位置は、政治的な柱だった。彼は艦隊を率い、旧幕府側の正統性を背負い、新しい拠点の中心に立った。大鳥圭介は陸軍の総司令格であり、荒井郁之助は海軍の責任者だった。そして、その中間にブリュネがいた。蝦夷地政権側の指揮系統は、榎本を政治的主柱、大鳥を陸軍、荒井を海軍とし、その間でブリュネが軍制、編成、配置、運用を束ねる形だった。
この配置を見ると、ブリュネが単なる助っ人外国人ではなかったことが分かる。彼は榎本の横で政治を決める王様ではない。かといって、戦場の片隅で大砲だけを見ていた技術者でもない。彼は、旧幕府側の残った軍事力をどう組織し直すかを考える、実務上の中枢にいた。榎本が旗なら、大鳥が陸の腕で、荒井が海の腕であり、ブリュネはその腕をどう動かすかを考える神経のような位置にいた。
蝦夷地で作ろうとしたものを、あえて短く言えば「小さな国家の試作品」である。もちろん、それは国際的に安定して承認された国家ではない。明治政府から見れば反乱勢力であり、旧幕府側の脱走軍である。しかし内部から見れば、彼らはただ生き延びるだけでなく、役職を置き、軍隊を編成し、防衛線を築き、外交の余地を探っていた。負けた軍隊が野宿していたのではなく、崩れた政権の破片から、もう一度政治を組み立てようとしていた。
この「もう一度作る」という意識が、ブリュネの存在と強く結びつく。ブリュネは幕府時代に、軍隊を近代化するための教練、砲兵、工廠、軍制改革に関わっていた。鳥羽・伏見で幕府の改革は時間切れになった。しかし蝦夷地では、規模を小さくして、それをもう一度試す余地があった。資料では、ブリュネは榎本武揚のもとで軍制再編、四旅団編制、防御線構築、規律と軍法の導入に深く関与したとされる。
これは、幕府本体で失敗した近代化の再演である。ただし、場所は江戸ではなく箱館であり、支える政権は二百年続いた幕府ではなく、北へ逃れた旧幕府勢力だった。条件は悪い。人も足りない。物資も限られる。外交的にも不安定である。それでもブリュネにとっては、自分が作りかけた軍事システムを、最後にもう一度組み直す場所だった。
だから、蝦夷地でのブリュネは「戦場の英雄」よりも「再編の技術者」として見るべきである。彼は、散らばった兵力を部隊にし、拠点を防衛線にし、港と艦隊を作戦の一部にしようとした。資料では、彼が四個旅団、機動縦隊、補給、工廠、工兵機能を編成したとされている。地上防衛力は整ったが、海軍劣勢は解消しなかったともされる。
ここが、箱館戦争の面白いところである。榎本たちは、精神論だけで戦っていたのではない。むしろ、かなり近代的に考えていた。港を押さえ、兵力を配置し、艦隊を使い、砲台を整え、補給を考える。負けた側だから古い、勝った側だから新しい、という単純な図式ではない。旧幕府側にも、近代的な軍事技術と制度設計の感覚はあった。ただし、それを支える政治的土台と時間が足りなかった。
この状況は、避難所で役所を作ろうとするようなものでもある。大きな災害で本庁舎が失われた。だが、住民はいる。書類も一部残っている。職員も何人かいる。そこで仮設の机を並べ、名簿を作り、食料を配り、警備を置き、外部と連絡を取る。正式な庁舎ではない。しかし、そこには行政の機能がある。蝦夷地の榎本政権も、それに近い。完全な国家ではないが、国家の機能をもう一度立ち上げようとしていた。
その意味で、蝦夷地は「旧幕府の墓」ではなく「未完成の実験場」だった。江戸の幕府は終わった。しかし、旧幕府系の人材、艦隊、フランス式訓練、砲兵知識、海軍技術は残っていた。それらを組み合わせれば、北方に政治軍事拠点を作れるかもしれない。榎本たちは、その可能性に賭けた。ブリュネは、その賭けを軍事制度として形にしようとした。
もちろん、この実験には最初から無理があった。新政府は日本全体の正統性を握りつつあり、列強も次第に明治政府を相手にする方向へ傾いていく。蝦夷地側がどれだけ内部を整えても、外から国家として認められなければ、政治的な持久は難しい。軍事的にも、海軍力で劣れば道南の拠点は孤立する。五稜郭が強くても、海を押さえられなければ、箱館は長くもたない。
それでも、榎本たちが蝦夷地で作ろうとしたものには、歴史的な意味がある。彼らは、ただ徳川の昔へ戻ろうとしたのではない。むしろ、旧幕府の人材と西洋式軍事知識を使い、別の近代化の可能性を残そうとした。明治政府だけが近代化の道だったのではなく、敗れた側にも別の近代国家構想の断片があった。箱館戦争は、その断片が燃えながら見える瞬間である。
第八章で押さえるべき結論は、榎本武揚たちは蝦夷地で「逃げ場所」を作ろうとしたのではなく「再起動する政権」を作ろうとした、ということである。五稜郭は墓標ではなく、仮設の中枢だった。榎本は政治の柱となり、大鳥は陸軍をまとめ、荒井は海軍を担い、ブリュネは軍制と防衛を組み直した。そこにあったのは、旧幕府の残り火ではない。崩壊した国家の部品を使って、もう一つの近代を組み立てようとした、短く激しい実験だった。
第九章 ブリュネは箱館で何をしたの?
ブリュネが箱館でやったことを、いちばん短く言えば「負けかけた軍隊を、もう一度軍隊として組み直した」ということになる。彼は、刀を抜いて最前線を駆け回った外国人英雄ではない。もちろん戦争の中に身を置いた人物ではある。しかし、彼の本当の役割は、散らばった兵士、砦、港、砲台、補給点を、一つの防衛システムとしてつなぎ直すことだった。ブリュネは最前線の一騎打ちを主導した英雄というより、部隊や堡塁や沿岸砲台や補給点を束ねた参謀・編成者と見るのが正確である。
箱館というと、五稜郭に立てこもった最後の戦い、という印象が強い。だが、ブリュネの発想は、五稜郭だけを守ることではなかった。五稜郭は中心であっても、それだけでは戦争はできない。松前、江差、亀田、沿岸の砲台、兵の移動路、弾薬や食料の保管場所が必要になる。つまり彼が考えたのは、城一つの籠城ではなく、道南全体を使った防衛だった。
これは、家の玄関だけに鍵をかけるのではなく、窓、裏口、庭、塀、照明、防犯カメラまで組み合わせる考え方に近い。玄関が強くても、裏口が開いていれば侵入される。五稜郭が強くても、海を押さえられ、周辺拠点を抜かれ、補給が切れれば孤立する。ブリュネは、戦場を点ではなく面で見ようとした。そこに砲兵将校らしい発想がある。
蝦夷地に入った後、旧幕府側は五稜郭を占拠し、さらに松前や江差を押さえた。ここで重要なのは、ブリュネが五稜郭に入ったあと、すぐ守りに閉じこもったわけではないことである。周辺拠点を制圧し、道南の港と交通線を確保することが、防衛の前提だった。資料では、ブリュネの助言により、大鳥圭介が周辺守備隊への攻撃を急ぎ、松前城攻略にはフランス人将校や艦砲支援も関わったとされる。
なぜ周辺を押さえる必要があったのか。それは、戦争が「強い城に入れば勝ち」というものではないからである。城は、食料と弾薬がなければただの石と土になる。港がなければ物資は入らない。周辺の道を失えば兵は動けない。船が動かなければ、敵の上陸を防げない。ブリュネは、五稜郭を中心にしながらも、その外側にある生命線を見ていた。
しかし、その構想はいきなり大きな傷を負う。江差攻略のあと、旧幕府側の主力艦である開陽丸が暴風で座礁し、失われたのである。これは一隻の船を失っただけではない。ブリュネの防衛構想は、沿岸拠点、機動縦隊、艦隊の急行が連動することを前提にしていた。開陽丸の喪失は、その連動の中心軸を折る出来事だった。扉の蝶番が外れた家では、板そのものが立派でも、開け閉めの仕組みが壊れてしまう。
一八六九年一月以降、ブリュネは本格的に蝦夷地防衛の設計者になる。榎本政権が成立すると、彼は大鳥圭介や荒井郁之助のそばで軍の中枢に立った。ただし、日本側の官職を正式に受けたかどうかについては慎重に見た方がよい。彼は日本側の称号や位階を受けず、実質的には地上軍編成と政務助言に深く関わった近接助言者にとどまっている。
ここがブリュネらしいところである。彼は「王」になったのではない。榎本武揚が政治的な柱であり、大鳥圭介が陸軍をまとめ、荒井郁之助が海軍を担う。その横で、ブリュネは軍隊が動く形を整える。組織図のいちばん上に名前がある人物ではなくても、実務を組み立てる人物は大きな力を持つ。会社でいえば、社長ではなく、現場全体の工程を握る技術責任者に近い。
ブリュネが行った再編は、かなり具体的だった。約三千の有効兵力を四個旅団に分け、フランス人指揮官を配置し、軍規を仏式化したとされる。また、箱館を主基地、松前を副基地とし、中央、東部、南部、北部、亀田大堡塁、さらにブリュネと大鳥の機動縦隊を組み合わせる防衛区分が作られた。各拠点には二十日分の糧食と弾薬を置き、弾丸鋳造所、火工廠、砲架や山地用具の工房、小火器修理所まで整えられた。
この配置を見ると、ブリュネの仕事がよく分かる。彼は単に「兵を四つに分けた」のではない。どこに兵を置くか、どこに食料を置くか、どこで弾を作るか、どこで修理するか、どの部隊を動かすかを考えた。戦場を一枚の盤面として見ていたのである。将棋でいえば、王将だけを守るのではなく、飛車、角、金、銀、歩の位置関係で盤全体を作るようなものだった。
特に重要なのは、機動縦隊である。拠点に兵を置くだけなら、守りは硬く見える。しかし、敵は必ず弱いところを探してくる。だから、どこかが押された時に素早く動ける部隊が必要になる。ブリュネと大鳥の機動縦隊は、そのための移動する予備戦力だった。固定された砦と、動く部隊を組み合わせることで、点ではなく線と面で守る発想になる。
また、彼は陸軍だけを見ていたわけではない。蝦夷地では、海軍の運用規則をオランダ式からフランス式へ切り替え、戦闘配置や砲術運用にも助言したとされる。これは、来日当初の公式任務から見れば、かなり広がった役割である。もともとは砲兵教官として来日した人物が、箱館では陸軍、砲兵、工兵、補給、一部海軍運用まで見渡す総合軍事顧問になっていた。
なぜそこまで役割が広がったのか。理由は、箱館側に時間も人材も足りなかったからである。大きな国家なら、陸軍、海軍、工兵、補給、行政がそれぞれ専門部署を持てる。しかし、榎本政権は急造の政治軍事拠点だった。限られた人材で、国家の機能を圧縮して動かさなければならない。その中で、砲兵と工学と制度設計に通じたブリュネの能力は、自然に広い範囲へ使われることになった。
ただし、彼の仕事を万能の成功例として描いてはいけない。地上防衛力は整えられたが、海軍の劣勢は消えなかった。開陽丸を失った旧幕府側は、海からの圧力に弱くなった。どれだけ陸の防衛線を整えても、敵が上陸地点を選べるなら、防衛側は後手に回る。強い城を持っていても、相手が空から屋根に降りてくるなら、門だけを固めても足りないのと同じである。
ブリュネが箱館でやったことは、敗北を勝利に変える魔法ではなかった。そうではなく、すでに不利になっていた旧幕府側を、できるだけ近代的な軍隊として持ちこたえさせる作業だった。兵を整理し、規律を入れ、拠点を結び、補給を置き、工房を整え、動ける予備を作る。これは華やかな突撃ではない。しかし、軍隊が軍隊であり続けるためには、こういう地味な仕事こそが必要になる。
だから第九章で押さえるべき結論は、ブリュネは箱館で「戦った」というより「戦える形を作った」ということである。彼は、五稜郭をただの最後の砦にせず、道南の拠点群を組み合わせた防衛システムにしようとした。そこには、砲兵将校としての計算、工学的な視線、軍事顧問としての経験、そして自分が育てた兵たちを最後まで組織しようとする執着があった。箱館のブリュネは、ラストサムライではない。崩れゆく政権の部品を集めて、最後の近代軍隊を組み立てようとした参謀だった。
第十章 宮古湾海戦はなぜ大勝負だったの?
宮古湾海戦は、旧幕府軍にとって「一か八か」の大勝負だった。なぜなら、この戦いは単なる海戦ではなく、箱館戦争全体の流れをひっくり返すための、最後に近い攻勢だったからである。ブリュネが箱館で組み立てた防衛構想は、五稜郭だけに頼るものではなかった。沿岸拠点、砲台、機動縦隊、補給、艦隊の動きを組み合わせ、道南全体を守る設計だった。しかし、その設計には大きな穴があった。海の主導権である。
旧幕府軍は、開陽丸を失っていた。これは、ただ一隻の軍艦を失ったという話ではない。開陽丸は、旧幕府側の海上戦力の中心であり、沿岸拠点と艦隊を連動させるための要だった。前の章で見たように、ブリュネの防衛構想は「沿岸拠点+機動縦隊+艦隊急行」の連動を前提としていた。ところが開陽丸を失うと、その連動の中心が消える。扉に鍵が残っていても、蝶番が外れれば扉全体はうまく閉まらない。
箱館側は陸上では工夫できた。四個旅団を配置し、亀田の大堡塁を守らせ、機動縦隊を置き、各拠点に食料や弾薬を備蓄することはできた。地形を利用し、砲台を置き、敵の進撃を遅らせることもできる。しかし、海を押さえられなければ、敵は上陸地点を選べる。守る側は、相手がどこから来るかを常に警戒しなければならない。陸の防衛線がどれだけ整っていても、海から背中を突かれれば崩れてしまう。
そのため、宮古湾海戦の狙いははっきりしていた。新政府軍の装甲艦、甲鉄を奪うことである。甲鉄は、ただの船ではない。装甲を持ち、強い火力を持ち、旧幕府側にとっては戦局を変えうる存在だった。もし甲鉄を奪えれば、海の力関係は一気に変わる。開陽丸喪失で失われた海軍力を、敵の最重要艦を奪うことで補えるかもしれない。つまり宮古湾海戦は、負けを少し取り返す戦いではなく、盤面そのものを反転させる戦いだった。
将棋でたとえるなら、守勢に回った側が、相手の飛車を奪いにいくようなものだ。自分の駒は減っている。陣形も苦しい。普通に守っていれば、じわじわ押し込まれる。そこで、相手の大駒を一気に取れば、形勢が変わるかもしれない。宮古湾の甲鉄奪取作戦は、そのような勝負手だった。危険は大きい。しかし、成功すれば見返りも大きい。
作戦は、回天、蟠龍、高雄の三艦で奇襲する構想だった。ところが、実際には出発前から計画は崩れはじめる。烈風で蟠龍を失い、高雄も故障する。それでも荒井郁之助は、回天一隻でも甲鉄奪取を決行したとされる。旧暦三月二十五日未明、回天は甲鉄に接舷し、兵が斬り込んだ。しかし甲鉄側のガトリング機関銃が大きな力を発揮し、約三十分で旧幕府側は退却した。フランスの資料では、この奇襲案はフランス水兵の提案を受けてブリュネが決断した大きな奇襲として位置づけられている。
ここで見えるのは、古い勇敢さと新しい火力の衝突である。接舷して斬り込むという発想には、まだ白兵戦の感覚がある。相手の船に乗り移り、人間の突撃で奪い取る。しかし甲鉄には、装甲と機関銃がある。人間が勇敢に飛び込んでも、短時間に高密度の弾丸が浴びせられる。勇気がなかったから失敗したのではない。勇気が、機械化された火力に押し返されたのである。
この差は、幕末という時代をよく表している。刀の時代から銃の時代へ、木造船の感覚から装甲艦の時代へ、個人の斬り込みから機関銃の火線へ、戦争の中心が移り変わっていた。宮古湾海戦は、その変化が海の上で一気に露出した場面だった。旧幕府側は、近代軍隊を作ろうとしていた。しかし、相手もまた近代兵器を持っていた。近代化は、片方だけの武器ではなかった。
ブリュネにとっても、この戦いは大きな意味を持っていた。彼は箱館で、防衛線を組み立て、兵力を再編し、補給と工廠を整えた。しかし、それは基本的に「どう持ちこたえるか」の設計だった。宮古湾海戦だけは、その防衛設計が攻勢へ転じた最大の賭けだった。守って時間を稼ぐだけではなく、敵の海軍力の中核を奪い、戦略環境を変えようとしたのである。
なぜそこまでして甲鉄を奪いたかったのか。理由は、箱館戦争の勝敗が、陸上だけでは決まらなかったからである。五稜郭がいくら堅くても、海から艦砲射撃され、別の海岸に上陸されれば、守備側は苦しくなる。敵が海を持っているということは、敵が移動の自由を持っているということだ。こちらは道路を歩くしかないのに、相手は海という高速道路を使える。その差は大きい。
実際、宮古湾で甲鉄を奪えなかったことで、旧幕府側は「装甲艦と機関銃を欠いた側」として、「それを持つ相手」の上陸を待つ形になった。その後、新政府軍は乙部へ上陸し、松前口、木古内口、二股口などから圧力をかけていく。宮古湾海戦の失敗は、海の上だけで終わった敗北ではない。のちの陸戦全体を、不利な形で始めさせる敗北だった。
ここで大事なのは、ブリュネや旧幕府側が無謀な夢想家だったと片づけないことである。甲鉄奪取は危険だった。しかし、何もしなければ海の劣勢は変わらない。防衛線はじわじわ圧迫される。新政府軍が上陸地点を選び、兵力を集中し、艦砲で支援すれば、旧幕府側は後手に回る。だから旧幕府側から見れば、危険な奇襲は、合理性のない暴走ではなく、劣勢をひっくり返すための数少ない選択肢だった。
スポーツでいえば、終盤で点差をつけられたチームが、守備を固めるだけでは勝てない場面に似ている。普通にやれば負ける。だからリスクの高い攻撃に出る。失敗すればさらに苦しくなるが、成功すれば試合全体の空気が変わる。宮古湾海戦は、旧幕府側にとってそういう作戦だった。守りを続けるために、あえて攻めなければならなかったのである。
しかし、結果は失敗だった。回天は甲鉄を奪えず、旧幕府側は退却する。人的損失も出た。日本人艦長一名の戦死、アンリ・ド・ニコルの負傷、エウジェーヌ・コラッシュの捕虜などが確認されている。日付については、日本側では旧暦三月二十五日、新暦では一八六九年五月六日、フランス側叙述では五月五日とされ、一日のずれがある。幕末維新期の戦史では旧暦と新暦が混在するため、この点は注意して読む必要がある。
宮古湾海戦の失敗は、旧幕府側の「質で差を埋める」戦いの限界も示している。兵力で劣る側は、奇襲、接舷、斬り込み、地形利用、局地的な集中で差を埋めようとする。だが、相手が装甲艦と機関銃を持っている場合、近接戦でも火力密度がまったく違う。短い時間、狭い場所で、どれだけ弾を出せるか。その差が、白兵戦の勇気を押しつぶす。
この戦いは、ブリュネの限界というより、ブリュネが置かれていた条件の限界を示している。彼は、陸の防衛システムをかなり整えた。各拠点に糧食と弾薬を置き、工廠を整え、機動縦隊を配置し、地形に応じた防衛線を作った。それでも、海の劣勢と外交環境の悪化までは、一人の参謀が解決できない。どれだけ上手に家の中を片づけても、屋根そのものが吹き飛ばされれば、雨は入ってくる。
だから宮古湾海戦は、箱館戦争の小さな挿話ではない。そこには、旧幕府側が勝つために何を必要としていたのかが凝縮されている。必要だったのは、五稜郭の堅さだけではない。陸の防衛線だけでもない。海上の主導権、装甲艦への対抗、機関銃の火力、兵力輸送への対応、そして列強の態度まで含む大きな条件だった。甲鉄を奪うという作戦は、その中の一番大きな欠けを、一撃で埋めようとした試みだった。
第十章で押さえるべき結論は、宮古湾海戦は「無謀な奇襲」ではなく「劣勢側が戦争全体の条件を変えようとした勝負手」だったということである。ブリュネが箱館で作った防衛線は、負ける速度を遅らせることはできた。しかし、それだけでは勝ちには届かない。そこで必要になったのが、海の力関係を変える一撃だった。甲鉄を奪えれば、旧幕府側はまだ持ちこたえられるかもしれない。奪えなければ、装甲艦と機関銃を持つ新政府軍の上陸を待つしかない。宮古湾海戦の重さは、まさにそこにある。
第十一章 なぜ防衛線は破れたの?
ブリュネの防衛線が破れた理由は、彼の作戦が単純に下手だったからではない。むしろ、彼の構想はかなり理にかなっていた。五稜郭だけに籠もるのではなく、松前、江差、亀田、沿岸砲台、機動縦隊、補給工房を組み合わせ、道南全体を一つの防衛システムとして使おうとした。彼は一騎打ちの英雄というより、堡塁、沿岸砲台、補給点を束ねた参謀・編成者として見るのが正確である。
それでも防衛線は破れた。なぜか。理由は、地上の防衛線だけでは、戦争全体を支えられなかったからである。ブリュネは陸上の盤面をかなり整えた。四個旅団を置き、亀田大堡塁を守らせ、機動縦隊を用意し、各拠点に食料や弾薬を蓄えた。だが、彼の設計を支えるはずの海軍力、外交環境、兵力差、火力差が、次々に旧幕府側の不利へ傾いていった。防衛線は、線そのものが弱かったというより、線を支える地盤が崩れたのである。
最初の大きな亀裂は、開陽丸の喪失だった。旧幕府側は、五稜郭に入った後、松前や江差を押さえ、道南の主要港を掌握しようとした。しかし江差攻略の後、開陽丸が暴風で座礁し、救出不能になった。これは一隻の船を失っただけではない。ブリュネの防衛構想は、沿岸拠点、機動縦隊、艦隊急行の連動を前提としていたため、開陽丸喪失はその中央の蝶番を失うに等しかった。
たとえるなら、ブリュネの防衛線は、よく考えられた店の経営計画だった。店内の動線は整っている。倉庫もある。従業員の配置も決まっている。だが、配送トラックを失えば、商品が届かない。いくら店内が整っていても、外との接続が切れれば商売は続かない。開陽丸は、その配送トラックであり、同時に防犯車でもあった。失われた瞬間、防衛線全体の動きが鈍くなる。
次に致命的だったのが、宮古湾海戦の失敗である。旧幕府側は、甲鉄を奪うことで海上の劣勢を一気に覆そうとした。これは無意味な賭けではなかった。甲鉄を奪えれば、装甲艦と火力の差を埋められるかもしれない。しかし作戦は失敗し、旧幕府側は甲鉄を奪えなかった。結果として、旧幕府側は装甲艦とガトリング機関銃を欠いたまま、それを持つ新政府軍の上陸を待つ形になった。
ここで防衛側の苦しさが決まった。海を持つ側は、攻める場所を選べる。海を持たない側は、どこを守ればよいのかを常に考え続けなければならない。相手が正面から来るなら、正面を固めればよい。しかし相手が海岸を選び、艦砲で支援し、兵をまとめて運べるなら、防衛側は広い範囲へ薄く兵を置かざるをえない。これは、玄関だけでなく、窓も裏口も屋根も同時に守れと言われるようなものだった。
そして四月九日、新政府軍は乙部に上陸する。上陸第一波は約千四百とされるが、戦域全体の兵力で見ると、諸藩兵合計は八千百八、通説的総兵力は約九千五百とも整理されている。一方、旧幕府側の防衛線編成上の地上兵力は約三千だった。つまり旧幕府側は、よく組織されていたとしても、広い戦場で大きな兵力差を受け止めなければならなかった。
兵力差は、単に人数の差ではない。人数が多い側は、同時に複数の方向から圧力をかけられる。防衛側が一つの場所へ兵を寄せれば、別の場所が薄くなる。逆に、全体へ均等に置けば、一つ一つの拠点が弱くなる。小さな毛布で大きな体を覆うようなもので、肩を隠せば足が出る。足を隠せば肩が出る。ブリュネの機動縦隊は、その穴を埋めるための工夫だったが、兵力差そのものを消すことはできなかった。
上陸後、新政府軍は松前口、木古内口、二股口などから進んだ。木古内口では大鳥圭介が迎撃し、二股口では土方歳三がよく持ちこたえた。しかし、局地的な粘りは、戦域全体の圧力を完全には止められなかった。ちなみに、ブリュネは防衛構想の設計者であり、前線巡察は確認できるが、木古内口や二股口での直接指揮は未詳とされる。新政府軍は海岸側陣地を圧迫し、旧幕府側は後退していった。
ここで重要なのは、局地戦で勝っても、全体で負けることがあるという点である。二股口で踏みとどまることはできる。木古内口で敵を押し返すこともある。だが、別の道が抜かれ、海から圧力がかかり、箱館方面へ進まれれば、防衛線全体は縮まっていく。サッカーで、右サイドだけ完璧に守っても、中央と左を崩されれば失点するのと同じである。戦争は、局地の勇敢さだけでは決まらない。
火力差も大きかった。旧幕府側は五稜郭や沿岸砲台にカノン砲や野砲を置き、各防御点に弾薬を備蓄していた。しかし新政府側には甲鉄があり、その艦砲は射程四キロ以上で、五稜郭へ有効射撃を加えたとされる。箱館奉行所は本来、外国艦砲を避ける意図で内陸へ置かれたはずだったが、わずかな年月で砲の射程がその前提を無効化していた。
これは、要塞の悲劇である。要塞は、作られた時代の兵器を前提に設計される。しかし兵器の進歩がその前提を越えると、安心だった距離が危険な距離へ変わる。安全地帯だと思っていた場所に、敵の砲弾が届く。家の塀を高くしたのに、相手がドローンで上から来るようなものだ。五稜郭は古びた中世の城ではなかったが、砲の進歩はそれ以上に速かった。
さらに、外交環境も旧幕府側に味方しなかった。一八六九年初頭には、列強が明治政府承認へ傾き、旧幕府側は国際的にも孤立していく。これは戦場の外の話に見えるが、実は防衛線の内側にも響く。外国から承認されない政権は、補給、交渉、停戦、援助の可能性を狭められる。ブリュネがどれだけ現地を整えても、外側の政治的空気が変われば、持久戦の意味は薄れていく。
防衛線とは、地図に引いた線だけではない。兵力、火力、補給、海上交通、外交、士気が結びついて、はじめて防衛線になる。ブリュネは、その多くを理解していた。だからこそ彼は、拠点、糧食、弾薬、工房、機動縦隊を組み合わせた。しかし海軍力の劣勢、開陽丸喪失、甲鉄の存在、兵力差、列強の承認方向までは、現地の工夫だけで埋め切れなかった。
最終段階では、箱館総攻撃によって防衛線は一気に縮む。五月十一日に総攻撃が始まり、四稜郭が退き、箱館市街が制圧され、弁天台場が孤立し、千代ヶ岡陣屋も落ちていく。最後に五稜郭が残るが、それはもはや道南全体を支える中心ではなく、追い詰められた最後の点になっていた。
つまり、防衛線は一箇所で突然切れたのではない。開陽丸を失い、宮古湾で甲鉄を奪えず、乙部に上陸され、三方向から圧迫され、艦砲に撃たれ、外交的にも孤立する。そのたびに、防衛線を支える歯車が一つずつ外れていった。最後に五稜郭が降伏した時、そこにあったのは「砦が弱かった」という事実ではない。砦を戦争の中心として機能させるための外側の条件が、ほとんど失われていたという事実だった。
第十一章で押さえるべき結論は、ブリュネの防衛線は、戦術として破れたというより、戦略環境に押しつぶされたということである。彼は、三千前後の兵力で道南を面として守ろうとした。補給を置き、工房を整え、部隊を分け、機動縦隊を準備した。しかし相手は海を使い、兵力を集中し、装甲艦と艦砲を持ち、外交的な正統性も握っていった。一本の堤防が悪かったのではない。海面そのものが上がり、いくつもの波が同時に押し寄せたのである。
第十二章 帰国後、彼はどうなったの?
ジュール・ブリュネの物語は、五稜郭の敗北で終わらない。むしろ、彼の本当の難しさは、戦争が終わった後に現れる。旧幕府側は敗れ、榎本武揚たちは降伏へ向かい、ブリュネは日本を離れる。しかし彼は、ただ敗走して消えた人物ではなかった。帰国後の彼には、外交問題、軍規違反、処分、復帰、そしてその後の軍歴が待っていた。
まず、彼の退場は単純な逃亡ではなかった。フランス砲艦コエトロゴンは箱館へ来ており、戦局が悪化する中で、ブリュネらフランス人を収容する役割を果たした。彼の退場は単なる敗走ではなく、外交調停を伴う救出だった。つまり、彼は戦場で行方不明になったのでも、敵に捕らえられたのでもなく、フランス側の艦によって戦場から切り離されたのである。
ここには、ブリュネの立場の複雑さがよく出ている。彼は旧幕府側に加わり、明治政府から見れば敵対行為に関わった人物だった。しかし同時に、フランス人であり、元フランス軍人でもあった。日本側が彼を簡単に処刑するわけにもいかず、フランス側も彼を完全に見捨てるわけにはいかない。戦場では敵味方がはっきりしていても、外交の場では線がにじむ。
その後、ブリュネは箱館から横浜へ移され、さらにサイゴンを経て本国へ向かい、一八六九年十月三日にパリへ戻ったとされる。ここで大事なのは、彼の帰国が「お疲れさま」という形では済まなかったことである。日本側はフランス公使ウトレーに強く抗議し、この件は「仏蘭西人元陸軍教師ブリュネ外七名函館賊徒へ党与一件」として、外交史料の独立案件になっている。つまり、帰国問題は個人の処分ではなく、日仏関係の問題になった。
これは、会社の社員が海外支社で勝手に現地勢力の争いへ加わったようなものだ。本人は「現場を守るためだった」と言うかもしれない。現地の人々からは「敵に協力した」と見られるかもしれない。本社は「社員の行動ではあるが、会社の正式方針ではない」と言いたい。相手国は「それで済むのか」と抗議する。ブリュネ事件も、このような責任の押し合いを含んでいた。
フランス側の扱いも、一見すると分かりにくい。彼はただちに重罪人として軍法会議にかけられ、軍歴を完全に断たれたわけではない。しかし、何もなかったことにもされなかった。一八六九年二月六日付のフランス軍務省文書では、ブリュネに対し、一八六八年の帰国便出発日を起点とする無給休暇が与えられ、その期限は一八七〇年三月一日までとされた。さらに、国外ではフランス士官としての資格を主張してはならない、と明記されていた。
この処理は、フランス政府の本音をよく示している。ブリュネの行動を全面的に認めるわけにはいかない。だが、彼を国家的裏切り者として即座に切り捨てるのも不都合だった。彼は有能な将校であり、政治的にも外交的にも微妙な案件を抱えていた。だからフランスは、彼を完全に称賛するのでもなく、完全に破滅させるのでもなく、いったん曖昧な場所に置いたのである。
この曖昧さは、近代国家らしい処理でもある。近代国家は、感情だけで人を罰するわけにはいかない。軍規、外交、世論、人材価値、相手国との関係を計算する。ブリュネは命令を破った。しかし、彼を重く罰しすぎれば、自国の軍人を切り捨てたようにも見える。軽く済ませすぎれば、日本政府への説明がつかない。そこで選ばれたのが「処分はするが、将来は断たない」という中間線だった。
最終的に、一八六九年十月十五日、ブリュネは日本の政治的紛争に与した重大な規律違反を理由に停職処分を受けた。ただし、この停職は軍法会議より軽い行政処分であり、一八七〇年二月二十六日には復帰が認められた。差し引かれたのは、四か月十一日の先任日数だったとされる。つまり彼は罰せられたが、軍人としての将来を完全に閉ざされたわけではなかった。
ここで見えるのは、フランス側の現実主義である。ブリュネは規則を破った。だが、使えない人材ではなかった。むしろ彼は、砲兵、工学、現地指導、実戦経験を持つ有能な将校だった。国としては、規律を守らせなければならない。しかし、能力ある軍人を完全に捨てることも惜しい。これは、組織がよく直面する問題である。ルールを破った有能な人間を、どこまで罰し、どこから再び使うのか。
ブリュネのその後を見ると、彼が完全に失脚したわけではないことは明らかである。一八七〇年には普仏戦争に従軍し、メスで捕虜になった。その後、ウィーンやローマで駐在武官職を務め、第十一砲兵連隊、第四十八歩兵旅団、第十九砲兵旅団を指揮し、戦争大臣シャノワーヌの官房長も短期間務めた。さらに第二十五歩兵師団を指揮し、将官として軍歴を終えたと整理されている。
これは、かなり重要である。もしフランスがブリュネを本当に許しがたい裏切り者と見ていたなら、このような軍歴は考えにくい。もちろん、彼の行動が無罪だったという意味ではない。実際に停職処分は受けている。しかし、フランス軍は彼を最終的には軍人として再利用した。日本での逸脱は彼の経歴に傷をつけたが、彼の能力と将来を完全に消すほどの傷にはならなかった。
この点で、ブリュネは「処刑されなかったから英雄」でもないし、「復帰したから正しかった」でもない。処分の軽重と、行動の正当性は別である。彼が復帰できたのは、彼の行動が完全に正しかったからではなく、フランス側にとって処分しすぎるより、管理し直す方が合理的だったからだろう。国家は、ときに道徳的な結論ではなく、実務上の落としどころを選ぶ。
日本側から見れば、この処理は不満が残ったはずである。明治政府にとってブリュネは、ただの外国人見物人ではなかった。旧幕府側に加わり、軍制再編や防衛運用に関わった人物である。外交文書の件名が「函館賊徒へ党与」としていることからも、日本側がこれを対仏外交案件として扱ったことが分かる。ブリュネの帰国後処理は、箱館戦争が国内戦争で終わらず、国際関係へ影を落としたことを示している。
ここで改めて、ブリュネの評価が難しくなる。彼は、敗者に殉じて死んだわけではない。旧幕府側と最後まで戦い抜き、五稜郭で切腹したわけでもない。彼は脱出し、帰国し、処分を受け、復帰し、軍歴を続けた。だから、純粋な悲劇の英雄として描くと、事実からずれる。かといって、ただ逃げた男として描くのも違う。彼は箱館で実際に軍事的役割を果たし、その結果として外交問題と処分を背負った。
むしろ、ブリュネの帰国後の人生は、彼が「境界の人物」だったことをいっそうはっきりさせる。彼はフランス軍人でありながら、日本の内戦に深く入った。軍規を破りながら、軍人として復帰した。旧幕府側に肩入れしながら、フランス国家の中へ戻っていった。どちらか一方にきれいに分類できない。だからこそ、彼は物語として面白いだけでなく、歴史の問題としても重要なのである。
たとえるなら、ブリュネは橋の上に立っていた人間だった。片側にはフランスの軍規と国家がある。もう片側には、日本で自分が教えた兵士たちと、崩れかけた旧幕府勢力がある。彼は一度、日本側の戦場へ踏み出した。しかし最後には、フランス側へ戻された。その橋を渡った痕跡が、停職処分であり、外交抗議であり、その後の軍歴である。
だから第十二章で押さえるべき結論は、ブリュネは敗北後に消えたのではなく、処分されながらもフランス軍人として生き残った、ということである。彼の帰国後は、ロマンの余韻ではなく、国家が逸脱した軍人をどう処理するかという現実の話である。フランスは彼を称賛しきれず、日本は彼を許しきれず、それでも彼は軍歴を続けた。ここに、ブリュネという人物のいちばん近代的な冷たさがある。英雄譚は戦場で終わる。しかし、近代国家の物語は、戦後処理、懲戒、外交文書、人事記録の中で続いていく。
第十三章 ジュール・ブリュネをどう語ればいいの?
ジュール・ブリュネを語るとき、一番避けたいのは、彼を一つの分かりやすい箱に押し込めることである。「ラストサムライ」と呼べば、たしかに覚えやすい。敗れゆく旧幕府軍に加わったフランス人将校、という絵も強い。しかし、その言葉だけでは、ブリュネの本当の面白さは消えてしまう。彼は侍になりたかった外国人ではない。近代軍隊を教えに来て、その作りかけの軍隊と教え子たちを、最後まで見捨てられなかった砲兵将校だった。
反対に、彼をただの脱走兵として片づけるのも粗すぎる。たしかに、彼はフランス側の帰国処理に従わず、旧幕府艦隊へ合流した。そこには軍規違反の問題がある。明治政府から見れば、彼は敵対勢力に加担した外国人だった。しかし、それだけでは、なぜ彼がそうしたのか、なぜフランス側が彼を完全には切り捨てなかったのか、なぜ後年まで記憶されたのかが分からなくなる。
ブリュネを正確に語るなら、「境界の人物」と見るのがよい。彼はフランス軍人でありながら、日本の内戦へ深く入り込んだ。公的な軍事顧問として来日しながら、最後には公的任務を離れた。技術者的な砲兵将校でありながら、政治的な賭けにも踏み込んだ。彼の評価は「無謀な脱走兵」でも「純粋な浪漫的英雄」でもなく、国際政治、軍規、私的忠誠が衝突した境界事例として読むのが妥当だろう。
この「境界」という言葉が、彼を理解する鍵になる。幕末の日本そのものが、境界に立っていた。江戸時代と明治時代の境界。武士の軍事身分と近代軍隊の境界。藩と国家の境界。内戦と国際外交の境界。ブリュネは、その全部が重なった場所に立っていた人物である。だから彼を語ることは、単に珍しい外国人を語ることではない。幕末日本が、どのように近代国家へ変わろうとしたのかを語ることでもある。
ブリュネを語る第一の軸は、軍事技術である。彼は、幕府に精神論を教えに来たのではない。砲兵教育、工廠改善、軍制再編を同時に担う、砲兵主任兼制度設計者に近い位置にいた。彼の仕事は、大砲の撃ち方だけではなく、火薬、鋳造、弾薬、教範、将校教育、部隊運用をつなぐことだった。つまり彼は、強い一人の兵士を作ったのではなく、強さを作り続ける仕組みを持ち込もうとした。
ここは、記事全体の中心に据えるべきである。ブリュネは「武士を助けた人」よりも、「軍隊を作る方法を教えた人」として見る方が深い。たとえば、魚を一匹渡す人と、魚の獲り方を教える人は違う。さらに、港を作り、船を整え、網を修理する工房を作り、次の漁師を育てる人はもっと違う。ブリュネが幕府に与えようとしたものは、まさにこの三番目のものだった。
第二の軸は、未完成である。ブリュネの仕事は、成功物語として語るより、未完成の近代化として語った方がよい。幕府軍は、フランス式訓練によって一夜で近代軍隊になったわけではない。装備も訓練も不均一で、全軍の再編は終わっていなかった。ブリュネの教練は、完成より着工に近かったと整理されている。だが、着工だから無意味だったのではない。基礎工事は、建物が立つ前には見えにくいだけである。
この未完成さが、ブリュネの悲劇を作っている。彼が日本へ来るのが十年早ければ、幕府陸軍はもっと深く変わったかもしれない。反対に、十年遅ければ、彼は明治政府に雇われた外国人教官の一人で終わったかもしれない。しかし彼は、幕府が崩れる直前に来た。新しい軍隊を作りはじめた瞬間、政権そのものが倒れはじめた。水道管を直している最中に、家全体が燃えはじめたようなものだった。
第三の軸は、責任である。ブリュネは、帰ることができた。顧問団の任務は停止され、帰国処理も進んでいた。しかし彼は、辞表と書簡を残して榎本艦隊に合流した。彼の残留は、武士道への憧れだけでは説明できず、フランスの影響力を北方勢力の側で保持しようとする政治的、軍事的な試みとして理解できる。ここには、教え子を見捨てられない感情と、フランスの国益を意識する計算も重なっているだろう。
この責任は、きれいなものだけではない。現場責任を理由に規律を破れば、それは別の責任問題を生む。会社でいえば、本社の撤退命令を受けた技術者が、現地工場と作業員を守るために残るようなものだ。人間としては理解できる。現場の責任感もある。しかし組織から見れば、勝手な行動である。ブリュネの決断は、この二つの正しさがぶつかった場所にあった。
第四の軸は、参謀性である。箱館でのブリュネは、最前線で決闘する英雄ではなかった。彼は、散在する部隊、堡塁、沿岸砲台、補給点を一つの防衛システムに束ねようとした。四個旅団と機動縦隊を軸に、蝦夷地南部を多層の火線と移動予備で守ろうとしたのである。これは城一つに籠もる発想ではなく、半島全体を使って波の勢いを削ぐ防衛設計だった。
だから、箱館戦争のブリュネを語るときは、剣ではなく地図を見るべきである。どこに兵を置いたのか。どこに弾薬を置いたのか。どの港を押さえたのか。どの艦を失ったのか。どこから新政府軍が上陸したのか。こうした問いを立てると、ブリュネの姿は急に立体的になる。彼は物語の中の異国の剣士ではなく、崩れかけた軍事システムを最後まで組み直そうとした参謀だった。
第五の軸は、限界である。ブリュネは有能だったが、魔法使いではない。開陽丸を失い、宮古湾海戦で甲鉄を奪えず、新政府軍が乙部に上陸し、三方向から進撃し、列強が明治政府承認へ傾いていく中で、旧幕府側は戦略的に包囲された。防衛線が破れたのは、単に一つの砦が弱かったからではない。海軍力、兵力、火力、外交環境という外側の条件が、次々に旧幕府側を押しつぶしたからである。
この限界を描くと、ブリュネはむしろ大きく見える。万能の英雄として描けば、敗北した時点で物語はしぼむ。しかし、限られた条件の中で何を組み立てたのかを見ると、彼の能力も、時代の残酷さも見えてくる。小さな船で荒れた海を渡ろうとした人間は、沈んだから無能なのではない。どんな船を作り、どこまで進み、どの波で壊れたのかを見ることで、その人の仕事が分かる。
そして最後の軸は、記憶である。ブリュネは敗者の側にいた。それでも、完全に忘れられたわけではない。日本側の抗議は外交問題として長く尾を引いたが、彼はフランスで復帰し、のちに将官に達した。また日本近代国家が成立した後、旧敵側の外国将校に一定の歴史的位置を認める流れも生まれた。つまりブリュネの記憶は、勝者だけの歴史に回収されなかった。
では、読後に人へ説明するなら、どう言えばよいのか。こう言えばよい。ジュール・ブリュネは、幕末の日本にフランス式の近代軍隊を教えるために来た砲兵将校である。幕府が崩れると、彼は帰国せず、自分が育てた旧幕府軍とともに箱館へ向かった。そこで彼は、五稜郭だけでなく道南全体を防衛システムとして組み直そうとした。しかし海軍力、兵力、外交環境の差に押され、旧幕府側は敗れた。彼は英雄でも単なる脱走兵でもなく、近代軍事、外交、忠誠が衝突した場所に立った人物である。
この説明が強いのは、ブリュネを一つの言葉で消費しないからである。「ラストサムライ」と言えば印象は残るが、問題は浅くなる。「脱走兵」と言えば規律は見えるが、現場責任が消える。「軍事顧問」と言えば任務は見えるが、箱館での賭けが消える。だから、ブリュネは一語で片づけず、三つの顔を持つ人物として語るのがよい。砲兵将校、制度設計者、境界に立った現場責任者。この三つである。
ジュール・ブリュネの面白さは、彼が勝者ではないところにある。勝った英雄は、歴史の流れと自分の物語が重なりやすい。しかし敗れた側にいた人物は、もっと複雑なものを見せる。未完成の制度、崩れた政権、守れなかった教え子、処分された軍人、後に残った記憶。そこには、近代化がいつも成功と進歩だけで進むわけではないという現実がある。
だから、ブリュネを語ることは、幕末のロマンを語ることでは終わらない。それは、近代国家が軍隊を作るとはどういうことか、外国の技術を受け入れるとはどういうことか、制度が崩れる時に現場の人間はどこまで責任を負うのか、という問いを語ることでもある。彼は、刀の時代の最後に現れた異国の武士ではない。砲兵、工廠、教範、補給、外交の時代に現れた、近代そのものの矛盾を背負った人物だった。
最後にもう一度だけ言えば、ジュール・ブリュネは「武士になったフランス人」ではない。彼は、幕府の近代軍隊を作るために来て、その未完成の軍隊が歴史の波に飲まれるところを、現場で見てしまったフランス人である。そして、その波から逃げずに、最後の防波堤を組み立てようとした。だから彼の物語は、敗北で終わっても、ただの失敗談にはならない。近代化とは何か、忠誠とは何か、制度を作る人間は制度が壊れる時にどうするのか。その問いを、彼はいまも残している。
あとがき
ジュール・ブリュネという人物は、ひとことで説明しようとすると、かえって見えにくくなる人物です。幕末の日本に来たフランス人将校、旧幕府軍に味方した外国人、五稜郭とともに語られる異国の軍人。どれも間違いではありません。しかし、それだけでは彼の面白さは半分ほどしか伝わりません。
この文章で見てきたブリュネは、武士に憧れて日本へ来たロマンチストではありませんでした。彼はフランス陸軍の砲兵将校であり、幕府の軍隊を近代化するために派遣された軍事顧問でした。彼が持ち込んだのは、勇気や精神論ではなく、砲兵、工廠、教範、補給、訓練、軍制という仕組みでした。
そこが、ブリュネをただの「ラストサムライ」から引き離します。彼は刀の物語の人物というより、大砲と設計図の人物です。戦場で誰かを斬るよりも、どこに砲を置き、どう兵を動かし、どこに弾薬を置き、どう軍隊をもう一度組織するかを考えた人物でした。五稜郭の物語を、感傷ではなく制度の物語として読み直すと、彼の姿は急に立体的になります。
ブリュネの物語が忘れにくいのは、彼が勝者ではなかったからでもあります。勝った側の近代化は、あとから見ると一本道に見えます。明治政府ができ、日本は近代国家になり、軍隊も制度も整っていく。けれども、歴史の途中には、敗れた側にも別の可能性がありました。旧幕府軍の中にも、近代軍隊を作ろうとする意思があり、仏式軍制を学び、工廠を整え、教範を翻訳しようとする動きがありました。
その未完成の可能性のそばに、ブリュネはいました。彼は完成した近代軍隊を日本へ納品したわけではありません。むしろ、作りかけの軍隊が政治の崩壊に巻き込まれ、時間切れになっていく場面を見た人物でした。家の柱を補強している途中で、家そのものが燃えはじめたようなものです。それでも彼は、北へ向かい、箱館で最後の防衛線を組み立てようとしました。
もちろん、それは純粋な美談ではありません。彼は軍規を破り、日本の内戦に深く関わりました。明治政府から見れば、敵対勢力に加わった外国人です。フランスから見ても、扱いに困る逸脱した軍人でした。けれども、だからこそ彼は面白いのです。正義の英雄でもなく、単なる反逆者でもない。国家の命令と、現場で生まれた責任感のあいだで揺れた人物だったからです。
ブリュネを読むことは、近代化を読むことでもあります。近代化とは、ただ新しい武器を買うことではありません。新しい制度を入れ、古い秩序を組み替え、人の動き方を変え、命令や知識を再生産できる仕組みを作ることです。その変化は便利で強力ですが、同時に多くの人を引き裂きます。古い忠誠と新しい国家、現場の責任と本国の命令、敗者への情と外交上の計算が、ひとりの人間の中でぶつかるからです。
ジュール・ブリュネは、そのぶつかり合いを背負った人物でした。彼は幕末日本の脇役ではありますが、彼を見ることで、幕末という時代の輪郭が変わります。そこには、武士の終わりだけでなく、近代軍隊の始まりがありました。五稜郭の敗北だけでなく、制度を作ろうとした人間たちの未完成の努力がありました。
だから、彼を語るときは、ただ「武士になったフランス人」と言うだけでは足りません。ジュール・ブリュネは、幕府の近代軍隊を作るために来日し、その未完成の軍隊が歴史の波に飲まれる瞬間を見届け、最後には自分もその波の中へ踏み込んだフランス砲兵将校でした。彼の物語は、敗北で終わります。しかし、その敗北は、ただの失敗ではありません。制度を作る人間は、制度が壊れる時にどこまで責任を負うのか。その問いを、今もこちらへ投げかけているのです。
参照記事・参考リンク
ジュール・ブリュネ、フランス軍事顧問団、箱館戦争、宮古湾海戦について調べるために参照した資料です。 まずは基本資料、次に詳しく調べたい人向けの研究資料を並べています。
基本資料
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国立国会図書館「フランス軍事顧問団と軍隊の近代」
幕府がフランス軍事顧問団を招き、フランス式軍制を導入しようとした背景を確認できる資料。
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函館市文化・スポーツ振興財団「ジュール・ブリュネ〜函館ゆかりの人物伝」
ブリュネの来日、箱館戦争への参加、帰国後までを日本語で概観できる人物紹介。
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在フランス日本国大使館「Jules BRUNET, le dernier samouraï」
フランス語資料。ブリュネと日本の関係を公的機関の解説として確認できる。
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JACAR「仏蘭西人元陸軍教師『ブリュネー』外七名函館賊徒へ党与一件」
明治政府側がブリュネらを外交問題として扱ったことを確認できる一次資料入口。
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箱館奉行所「箱館戦争の7か月」
榎本艦隊の蝦夷地上陸、五稜郭占拠、箱館戦争の流れを把握するための資料。
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宮古市「戊辰戦争・宮古港海戦」
宮古湾海戦、回天、蟠龍、高雄、甲鉄奪取作戦の概要を確認できる。
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木古内町観光協会「箱館戦争」
木古内口、二股口、箱館総攻撃、五稜郭落城までの流れを地域史として確認できる。
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はこぶら「箱館戦争官軍上陸の地碑」
新政府軍の乙部上陸について、観光案内を通じて分かりやすく確認できる。
さらに詳しく調べたい人へ
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Frédéric O’Brady「Chronique des premières missions militaires françaises au Japon 1866-1868 et 1872-1890」
フランス軍事顧問団の規模や影響を、過大評価しすぎないために重要な研究資料。
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Masaya Nakatsu「Les missions militaires françaises au Japon entre 1867 et 1889」
第一回から第二回以後まで、フランス軍事使節団の流れを通史的に確認できる博士論文。
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François-Xavier Héon「Le véritable dernier Samouraï : l’épopée japonaise du capitaine Brunet」
ブリュネの書簡や箱館での行動を深掘りしたフランス語論文。
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Gallica「Documents pour servir à l'histoire des relations entre la France et le Japon」
フランス側の対日関係や軍事顧問団の背景を、原資料に近い形で確認できる資料。
余談:映画『ラスト サムライ』からブリュネへ
ジュール・ブリュネは、映画『ラスト サムライ』の主人公像のモデルの一人として語られることがある。 ただし、映画は史実そのものではなく、ブリュネの実像ともかなり異なる。 本記事では、映画的な「最後の侍」像ではなく、幕府の近代軍隊づくりに関わったフランス砲兵将校としてのブリュネを中心に見ている。
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