文学・思想の一丁目一番地
先輩と同棲 退廃恋愛1
第一章 俺はそっち側だと思っていた
午前九時十二分、俺は冷蔵庫を開けた。
中には缶チューハイが六本、卵が二個、賞味期限の切れた納豆、それから昨日の夜に半分だけ食べたコンビニのポテトサラダが入っていた。
チューハイを一本取った。
プルタブを起こす。
ぷしゅ、と音がした。
朝の部屋にはよく響いた。
俺は流し台の前で一口飲んだ。レモン味と書いてあるが、レモンを食べた時の味はほとんどしない。アルコールと甘味料の味がして、そのあとにレモンらしい酸っぱさが残った。
一本百三十八円。
一か月前まで、朝に飲むのはビールだった。
失業生活にも効率化は必要である。
同じ千円で飲める本数を計算すると、俺の冷蔵庫からビールは消えた。
俺はチューハイを持ったままパソコンの前へ座った。
今日も予定はなかった。
昨日もなかった。
一昨日もなかった。
予定がない日が何日続いたのかは、もう数えていない。
ブラウザを開くと、昨日見ていた動画サイトが表示された。猫がロボット掃除機に乗って移動しているところで止まっている。俺は再生せず、新しいタブを開いた。
指が勝手に昔の会社名を打った。
検索結果の一番上に会社のホームページが出た。
まだあった。
当たり前だ。会社は倒産していない。
なくなったのは俺の席だけだ。
採用情報を開いた。
新卒向けのページには、白いシャツを着た若い男女が会議室で笑っている写真があった。壁には色とりどりの付箋が貼られている。写真の中では誰も酒を飲んでいなかった。
社員紹介を押した。
画面を下へ送る。
いた。
俺がいた。
三年前の里中修平、二十八歳。
髪は短く、頬には肉があり、目の下にくまもない。青いシャツを着て、会社の窓際に立って笑っている。
「プログラマーは、自分の考えたものを世界に出せる仕事です」
そんなことを語っていた。
俺は缶を口につけた。
三年前の俺は、ずいぶんいいことを言う。
ページにはインタビューが続いていた。
「AIによって仕事がなくなるという話もありますが、私は悲観していません」
ここで一度、缶を置いた。
読みたくなかった。
しかし読んだ。
「プログラマーの仕事がなくなるのではなく、仕事の内容が変化していくのだと思います。AIを使い、さらに大きな価値を生み出す仕事へ移っていくはずです」
正論だった。
少なくとも、あの時の俺はそう信じていた。
当時からAIはあった。
俺は一人で五十のAIエージェントを動かしていた。
仕様書を渡す。コードを書かせる。テストさせる。別のエージェントにレビューさせる。エラーが出れば、そのログを別のやつに渡す。
俺自身はディレクターだった。
五十人の部下を持っている気分だった。
昼休みに同僚と、これからプログラマーはどうなるんだろうな、と話したことがある。
俺は生き残ると思っていた。
自分はAIを使う側にいる。
仕事を奪われる人間は、AIを使えない人間なのだ。
そんな線を頭の中に引いていた。
線の内側に自分がいることを、一度も疑わなかった。
会社は翌年、開発部門を再編した。
その次の年にも再編した。
さらに次の年、再編という言葉を使わなくなった。
人員最適化という言葉になった。
俺は最適化された。
面談室で、人事担当者が会社の今後について説明した。市場環境、AI活用、生産性、組織構造、競争力。いくつも言葉が並んだ。
最終的に俺が理解したのは、来月から来なくていいという一点だった。
五十のAIエージェントを使っていた男が消え、五十のAIエージェントは残った。
俺はチューハイを飲み干した。
時計を見ると九時三十七分だった。
二本目を取るか迷った。
迷った時点で、もう冷蔵庫の前に立っていた。
一本取り出した。
ちなみに、冷蔵庫の扉についている棚はドアポケットという。あそこへ卵を入れる人もいるが、扉は開閉するたびに温度が動くので、卵の保存場所としては本体側が向いているらしい。失業すると、生活に役立つ知識だけが妙に増える。履歴書には一行も書けない。
二本目を開けた。
銀行のアプリを起動した。
残高を見た。
数字はまだ六桁あった。
死ぬほど困ってはいない。
今日食べるものもある。
電気も止まっていない。
水道も出る。
インターネットもつながっている。
状況だけ切り取れば、俺はFIREしている。
会社へ行く必要がなく、午前九時から酒を飲み、好きな時間に寝られる。
ただし資産は増えない。
毎月減る。
失業手当が口座に入る日も、家賃と生活費を払えば数字は小さくなる。
このまま進めばゼロになる日が来る。
計算すれば日付まで出せた。
俺は計算しなかった。
プログラマーは未来を予測できる数字が好きだ。
無職になると、未来を予測できる数字が嫌いになる。
求人サイトを開いた。
登録してある職歴が表示された。
おすすめ求人が二十七件あった。
シニアエンジニア。
AIプロダクトマネージャー。
テクニカルリード。
どれも俺が数年前なら読んでいた求人だった。
応募ボタンを一つ押せばいい。
履歴書も登録済みだ。
職務経歴書もある。
ただ、面接で空白期間について聞かれる。
それを考えると、胸の奥が固くなった。
俺はブラウザを閉じた。
チューハイを飲んだ。
しばらくすると胸の固さが消えた。
問題は解決していない。
感じなくなっただけだ。
それで充分だった。
昼前になって、部屋にいるのが嫌になった。
酔いは軽かった。
俺はサンダルを履き、財布とスマートフォンをポケットへ入れた。
外へ出る。
九月の空気はまだ暑かった。
道路の向こうで草刈り機が鳴っている。アスファルトから熱が上がっていた。コンビニの前を通り、公園へ向かった。
歩く理由はない。
家に戻る理由もない。
公園には滑り台とブランコがあり、幼稚園くらいの子どもが四人遊んでいた。ベンチには母親らしい女が二人座っている。
その少し離れた植え込みで、誰かがしゃがんでいた。
女だった。
肩まである髪が顔にかかっている。
白いブラウスの背中が丸くなっていた。
次の瞬間、女の口から液体が落ちた。
吐いていた。
子どもたちが遊ぶ手を止めた。
一人が指を差した。
ベンチの母親が子どもを呼んだ。
女は植え込みに片手をつき、また吐いた。
足元にはコンビニの袋があった。
袋から缶が一本転がっている。
酒だった。
俺は通り過ぎようとした。
三歩進んだ。
止まった。
振り返った。
女はまだしゃがんでいる。
俺は近づいた。
酔っていなければ、たぶん近づかなかった。
「大丈夫ですか」
声をかけた瞬間、失敗したと思った。
知らない女に声をかけている。
しかも昼間の公園だ。
向こうには子どもがいる。
その親もいる。
女が騒げば、俺は説明の難しい立場になる。
酔った無職の男が、吐いている女に近づいた。
文字にすると最悪だった。
俺は逃げようと思った。
女が顔を上げた。
目の周りの化粧が少し崩れている。
頬が赤い。
俺はその顔を見た。
知っている気がした。
女も俺を見た。
数秒、止まった。
「里中君?」
俺は動けなくなった。
真中先輩だった。
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