文学・思想の一丁目一番地
社不同盟 退廃恋愛2
第一章 天才だった俺
三年になってから、知らない顔をよく見るようになった。
女だった。黒い髪を肩の少し下まで伸ばしている。服装は地味で、白いシャツに黒いパンツの日が多かった。アトリエの隅に座っていることもあれば、中庭のベンチで缶コーヒーを飲んでいることもある。誰かと話しているところは見たことがなかった。
新入生なのだろうと思っていた。
妙なのは、まったく新入生らしくないことだった。
一年生はだいたい見れば分かる。廊下を歩く時に少し首が動く。掲示板を見る。教室の番号を確かめる。知らない人間と目が合うと、いったん視線を外してから、もう一度こちらを見る。大学という場所をまだ地図として見ている。
その女には、それがなかった。
廊下の真ん中を歩き、階段を上り、使われていない講義室に入っていく。アトリエの椅子に座る姿にも迷いがない。俺たち三年生の中にいても浮いていなかった。むしろ大学そのものに溶けていた。
名前だけは知っていた。
山田。
誰かがそう呼んでいるのを一度聞いた。
俺は山田について、それ以上知ろうとはしなかった。大学には知らない人間がたくさんいる。三年も通っていると、知らない人間を知らないままにしておくことにも慣れる。
俺は昔、自分を天才だと思っていた。
正確には、努力する天才だと思っていた。
美大には現役で受かった。
合格発表の日、予備校の壁に貼られた紙を見た。自分の番号を見つけた時、心臓が大きく一回鳴った。そのあとに何か劇的な感情が来ると思っていたが、何も来なかった。紙に数字がある。それだけだった。
講師に祝われた。
「運がよかったからです」
俺はそう言った。
本気ではなかった。
才能があったから受かったと思っていた。努力もした。デッサンは毎日やった。石膏像の前に座り、鉛筆を削り、紙に線を置いた。帰宅してからもクロッキー帳を開いた。
予備校には美馬さんという人がいた。
俺が高校三年の時、美馬さんはすでに三浪していた。年齢は四つ上だったと思う。痩せた人で、冬でも薄い灰色のパーカーを着ていた。手がいつも鉛筆の粉で黒かった。
俺が受かった年、美馬さんは落ちた。
だから四浪に入ったはずだ。
大学に入って三年になるが、キャンパスで美馬さんを見たことは一度もない。まだ受験しているのだろうか、と年に何度か思う。
夏の暑い日に自動販売機の前で思うこともあるし、冬に石膏室の匂いを嗅いで思い出すこともある。
石膏像は意外に汚い。美術室にある白い像を清潔なものだと思っている人は多いが、近くで見ると指の跡や黒ずみがある。長い間デッサンに使われた像では、鼻や額だけ妙に灰色になっていることがある。人間は絵を描くために像を眺めながら、その像自体も少しずつ汚していく。
美馬さんはよく俺の絵を見ていた。
「龍平くんは、ぼくと物を見る解像度が違う」
ある日、そう言われた。
俺は否定した。
口では。
心の中では、その通りだと思った。
努力は時間では測れないと思っていた。
一時間描いた人間が二人いても、その一時間の中身は同じではない。瓶を一本描く。輪郭を取って、影を置いて、口の楕円を整えて終わる人間がいる。俺は瓶の表面に映る窓を見る。ガラスの厚みを見る。机に落ちた影の中にも色があることを見る。鉛筆を置く場所が増える。
俺の一時間には密度がある。
そう信じていた。
予備校で百枚描けば、百枚分うまくなるわけではない。俺は一枚から多く取れる人間なのだと思っていた。
だから怖くなることがあった。
自分は今でもこれだけ描ける。
一年後には何を描いているのだろう。
二年後は。
十年後は。
夜、布団に入ってから、自分の未来を想像したことがある。巨大なキャンバスの前に立つ自分がいた。名前も知らない人間が俺の絵を見ている。美術館の白い壁に、自分の絵が掛かっている。
その想像をすると、胸の奥が熱くなった。
自分がどこまで行くのか分からなかった。
美大に入った。
畠山一平がいた。
最初に畠山の絵を見た時、俺はしばらく立っていた。
油絵だった。
窓際に置かれたテーブルと、その上のコップを描いただけの絵だった。題材には何もない。白いテーブル。透明なコップ。窓から光が入っている。
なのに目が離れなかった。
コップの縁に絵具が置かれていた。光がそこに集まっていた。テーブルの白にも何種類もの白があった。塗っていないように見える場所にも筆が入っていた。
俺には分かった。
分かってしまった。
こいつは見えている。
俺が一つのものを見る時、いくつもの要素を拾っている。畠山はその間にも拾い続けている。
畠山は朝からいた。
俺がアトリエに入ると描いている。昼になっても描いている。夕方になっても描いている。
ただ長時間いるわけではなかった。
筆を置く。
後ろへ下がる。
絵を見る。
首を少し傾ける。
また近づく。
一筆入れる。
その一筆の前に、長い時間があった。
俺はそれを見ているうちに嫌になった。
才能だけならよかった。
突然、信じられないものを描く人間なら、別の生き物として処理できた。
畠山は俺と同じことをしていた。
見る。
考える。
描く。
それだけだった。
ただ、一回ごとの密度が異様だった。
講評の日、絵が壁に並べられる。
教授たちは椅子に座り、学生の作品を一枚ずつ見る。
「ここの処理が弱い」
「色がまだ決まっていない」
「構図に逃げがある」
言葉が飛ぶ。
何か言われるうちはいい。
畠山の絵の前では、教授が腕を組む。
「これは、何も言うことがないな」
それで終わる。
美大には二種類の「何も言うことがない」があった。
一つは完成しているという意味。
もう一つは、話にならないという意味だった。
俺は入学した頃、いろいろ言われていた。
色がいい。
線が面白い。
ここを詰めれば強くなる。
そのうち言葉が減った。
「まあ、いいんじゃない」
そう言われた日があった。
別の日には、本当に何も言われなかった。
教授が俺の絵を見て、次へ行った。
俺は自分の作品の前に立ったまま、教授の背中を見ていた。
畠山にも何も言わない。
俺にも何も言わない。
同じなのに、中身は違った。
それから俺は課題を早く終わらせるようになった。
終わらせるだけなら簡単だった。
提出日に壁へ掛けられるものを作ればいい。単位は取れる。
午後になるとキャンパスを出た。
校舎の裏から細い道を下り、小さな丘の陰へ行く。キャンパスからは見えない。
そこでタバコを吸った。
火をつける。
煙を吐く。
遠くで車の音がする。
手元には絵具がついている。
アトリエでは、まだみんな描いているはずだった。
畠山もいる。
俺は吸い殻を携帯灰皿に入れた。
卒業はできる。
単位も取れる。
そのあとがなかった。
会社に入ることを考えた。デザイン事務所。広告会社。ゲーム会社。そういう名前を頭の中に置いてみた。
何も感じなかった。
俺は芸術家になるつもりだった。
それ以外の人生は考えていなかった。
芸術家になれないなら、そこから先は無だった。
「君、いつもここでタバコを吸ってるね」
声がした。
振り返った。
丘の上に女が立っていた。
白いシャツ。黒いパンツ。片手に缶コーヒーを持っている。
山田だった。
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