ショーペンハウアー入門 哲学入門シリーズ2
第1章 ショーペンハウアーってどんな人?
ショーペンハウアーという名前を聞いて、まず思い浮かぶのは「悲観主義」かもしれない。世界は苦痛に満ちていて、幸福は幻想で、人間は欲望に振り回される。そういう暗いイメージが先に立つ。けれど彼は、ただ陰気に世の中を呪った人ではない。むしろ彼の哲学は、人生の苦しさを真正面から見つめ、その苦しさがどこから来るのかを説明し、そして「苦しみが避けられない世界でも、どう生きればよいか」を示そうとしたものだった。彼が書いたものは、気分としての憂鬱ではなく、苦しみの構造を解剖する冷静な理論であり、同時に、生き方の提案でもある。
アルトゥール・ショーペンハウアーは1788年に生まれ、1860年に亡くなった。つまり、啓蒙の余熱が残り、フランス革命以後のヨーロッパが揺れ続ける時代を生きたことになる。若い頃から彼は、安定した人生のコースに乗るタイプではなかった。家庭環境も複雑で、商人の父と、文学サロンで活躍する母のもとで育つが、家族関係は緊張をはらみ、彼は早くから「世間的な成功」や「人間関係の快さ」に、あまり期待を置かない性格を形づくっていく。彼の文章には鋭い皮肉が多いが、その根には、世間の光沢よりも、もっと生々しい現実の手触りを信じる気質がある。
哲学史の中での彼の位置を一言で言うなら、カント以後の時代に現れた「異端の継承者」だ。彼はカントを高く評価し、自分の哲学の出発点としてもカントを据えた。しかし同時に、当時の大学で隆盛していたヘーゲル流の哲学、つまり大きな体系と歴史の理性を語る潮流に対しては、激しい敵意をむき出しにする。彼にとって、大学哲学は「言葉の巨大な城」を築いているように見えた。立派な概念で世界を包み込み、説明した気になっているが、そこには苦しむ個人の生が入っていない。ショーペンハウアーがこだわったのは、華麗な体系よりも、各人が日々の生活で直面する欲望、挫折、痛み、退屈、そうした体験の芯にあるものだった。
彼の代表作は『意志と表象としての世界』である。この題名だけで、すでに彼の哲学の中心が見える。「世界は表象である」というのは、世界が私たちの前に現れる仕方が、つねに主体の認識形式を通っているということだ。私たちは世界をそのまま掴んでいるのではなく、時間や空間、因果関係といった枠組みで整理したかたちで世界を見ている。ここまではカントに近い。だがショーペンハウアーはそこで終わらない。では、その表象の背後に、世界を世界たらしめる「核」はあるのか。カントはそれを物自体と呼び、しかし原理的にそれを認識できないと言った。ショーペンハウアーは、認識できないまま放置するのではなく、別のルートからその核に触れようとする。そのルートが「身体」だ。私たちは自分の身体を、外から見れば物体として表象するが、内側からは欲し、求め、衝動するものとして経験する。そこに、世界の根にある力の姿が見える。彼はその力を「意志」と呼んだ。
ここで言う意志は、日常語の「意志の強さ」みたいな意味ではない。もっと深い、もっと盲目的なエネルギーだ。生き延びたい、満たされたい、勝ちたい、愛されたい、認められたい。そういう具体的な願望の一つ一つの背後で、絶えず「もっと、もっと」と求め続ける原動力が働いている。ショーペンハウアーにとって世界の根底は理性ではなく、この意志だった。理性は後からくっつく道具にすぎず、私たちは理性で世界を操っているつもりでも、実際には意志に操られている。だから人間の生は、思うように明るくならない。欲望がある限り、欠乏があり、欠乏がある限り、苦痛がある。ひとつ満たしても、また次の欲望が湧き、満たされない間は苦しく、満たされた瞬間にはすぐ退屈が始まる。彼が描く人生は、「苦痛と退屈の振り子」で揺れる。悲観主義とは、単なる気分ではなく、この構造の認識なのだ。
けれど彼は、その認識をもって終わらない。むしろ彼の哲学が面白いのは、絶望の中に、いくつかの「出口」を設けるところにある。ひとつは芸術だ。芸術に没入しているとき、私たちは一時的に欲望の鎖からほどける。普段は「得するか損するか」「自分にどう関係するか」という意志の視点で世界を見ているが、芸術的な鑑賞では、対象をそれ自体として静かに眺めることができる。そこに、欲望から解放された時間が生まれる。もうひとつは倫理だ。彼は道徳の根拠を理性や社会契約に置かず、「同情」に置いた。相手の苦しみが自分の苦しみとして響くとき、私たちは利己心の殻を破り、意志の暴走にブレーキをかけることができる。世界は意志の争闘でできているが、それでも同情によって、人は互いを傷つけるだけの存在ではなくなりうる。ここには、冷笑ではなく、むしろ鋭い慈悲がある。
さらに彼が提示する最もラディカルな出口が「意志の否定」だ。欲望が苦しみを生むなら、欲望そのものを弱める道があるはずだ。禁欲、執着の手放し、自己中心性の解体。彼はキリスト教の禁欲的伝統や、仏教・ウパニシャッドなど東洋思想に強い関心を寄せ、それらの中に意志の否定の実例を見た。ここで誤解しやすいのは、ショーペンハウアーが単に「生きるのをやめろ」と言っているかのように受け取られる点だ。彼が問題にするのは生命そのものというより、生命を盲目的に駆動する意志のあり方である。生への執着が人を苦しめ、他者を傷つけ、世界を争闘に変えていくなら、その根を弱める方向に価値がある。彼の禁欲は、苦しみの構造を知った者が、衝動に乗せられずに生きるための一つの極限案だと言える。
人物としてのショーペンハウアーは、かなり癖が強い。自尊心が高く、他者への攻撃性もあり、学界や同時代の思想家を容赦なく批判する。ところが不思議なことに、その苛烈さは、文章の魅力にもつながっている。彼の文体は明晰で、比喩が鋭く、哲学書としては異様なほど読みやすい部類に入る。多くの哲学者が専門用語と抽象概念で読者を遠ざけるのに対し、彼は経験の側から概念を照らし、読者に「それ、分かる」と思わせる。だからこそ、後の時代に文学者や芸術家、さらには心理学や精神分析に関心を持つ人々に広く読まれた。哲学が大学の中だけで回っていた時代に、彼は哲学を再び「人生の問題」に引き戻したとも言える。
また、彼の人生の皮肉として有名なのは、彼が若い頃には評価されず、後年になって名声が追いついたことだ。彼は同時代の中心舞台に立つことを望んだが、実際には孤独と不遇を長く味わう。その経験は、彼の悲観をさらに磨きもしただろう。だが同時に、彼の哲学が単なる机上の思索ではないことを保証してもいる。欲望が裏切られ、期待が崩れ、世界が思い通りにならないとき、人は二つの方向に行ける。現実から目を背けて物語に逃げるか、現実の仕組みを直視して別の生き方を探すか。ショーペンハウアーは後者を選んだ。その直視のしかたが徹底しているから、読む側も自分の中の甘さをごまかせなくなる。そこに、この哲学の強さがある。
この本では、ショーペンハウアーを「暗い哲学者」として紹介するのではなく、「世界の苦しさを説明し、その上で抜け道を示す哲学者」として捉え直したい。彼は人生を肯定するタイプではないが、人生をただ嘲笑するタイプでもない。意志という根源的な力を見抜き、それが生む苦痛を認め、そのうえで芸術・倫理・禁欲という複数の回路を用意した。つまり彼の哲学は、絶望を煽るためのものではなく、絶望に耐えるための構造を与える。もし世界が理性ではなく衝動によって動いているなら、まずそれを知ることが第一歩になる。そして、知った上で、衝動に引きずられない時間をどう作るか、他者の苦しみをどう受け止めるか、自分の欲望とどう距離を取るか。ショーペンハウアーは、その問いを最初から最後まで、甘やかさずに追いかけた人だった。ここから先は、彼が組み立てた「表象」と「意志」の機械の中身を順に見ていくことになる。
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