ロラン・バルト入門 哲学入門シリーズ6
第一章 ロラン・バルトってどんな人?
ロラン・バルトを一言で言い当てるのは難しい。哲学者なのか、文学批評家なのか、記号論の研究者なのか。どれも正しいが、どれも少し足りない。バルトは「思想」を専門の囲いの中でやる人ではなく、言葉、文章、写真、広告、恋愛、声といった、日常の中に転がっているものを入口にして、「意味がどう作られてしまうのか」を見抜こうとした人だった。しかも、その見抜き方は、上から断罪するというより、仕組みを分解して見せるような、冷静さと遊び心が同居している。読者に向かって「それは間違いだ」と説教するのではなく、「こういう装置が働いている」と示して、意味の自明性を崩す。バルトの仕事がいまも読まれるのは、その視線が古びないからだ。社会の話題やメディアが変わっても、「常識が常識として見えてしまう仕掛け」は、形を変えて残り続ける。
バルトはフランスの戦後知識人の中心にいた。けれども、いわゆる権威的な哲学者のイメージとは少し違う。大学の講壇から体系を構築して、世界を説明し尽くすようなタイプではない。むしろ、彼は「体系の側」に警戒心を抱いていたように見える。何かを説明し過ぎる言葉、結論を急ぐ言葉、世界を一つの物語に閉じ込めてしまう言葉。そういうものに対して、バルトは常に距離を取ろうとする。その代わりに彼が好んだのは、複数の読みを許す形、途中で折れ曲がる文章、断章、細部への執着だった。世界は一枚岩ではないのに、言葉はしばしば世界を一枚岩にしてしまう。彼はその「言葉の暴力性」を、暴力として叫ぶのではなく、もっと繊細な手つきで解体した。
バルトを理解するための最初の鍵は、彼が「意味」を言語学の延長で考えたという点にある。私たちは普段、言葉を使うとき、言葉が現実を指し示していると思っている。「猫」という言葉は猫を指すし、「正義」という言葉は正義を指す。しかしバルトの視線では、言葉と現実の関係はそんなに素朴ではない。言葉は、現実をそのまま写す鏡ではなく、意味を作り上げる装置である。しかもその装置は、個人の内面だけで完結しない。社会の習慣、教育、メディア、権力、階級、流行と結びつきながら、「これが自然だ」「これが当たり前だ」という感覚を作っていく。バルトがやったのは、その装置のねじを一つずつ外して、どこで意味が固定され、どこで自然に見えるよう加工されるのかを示すことだった。
その代表的な仕事が『神話作用』である。ここでいう「神話」とは、古代の神々の物語のことではない。むしろ、現代社会で流通しているイメージや言葉が、どうやって「自然なもの」に見えるよう変換されるか、という仕組みのことだ。たとえば広告や雑誌の写真は、単に商品を紹介しているだけに見える。しかしそこには、「こういう生活が良い」「こういう身体が望ましい」「こういう価値観が大人だ」といった、価値の押し付けが薄く塗り込められている。しかも厄介なのは、それが押し付けとして感じられないように、巧妙に作られている点だ。バルトはこの「押し付けが押し付けに見えない」状態を問題にした。つまり、支配はいつも命令の形で来るわけではない。むしろ、当然の顔をしてやってくる。バルトの分析は、そういう“当然の顔”を剥がす。
ここまで聞くと、バルトは社会批判の人に見えるかもしれない。もちろんそれも一面としては正しい。だが、バルトの魅力は、批判が単なる糾弾で終わらないところにある。彼は意味の装置を壊して終わりにはしない。意味が固定される仕組みをほどいていくと、そこには逆に、意味が生まれ直す余地が現れる。読者は「与えられた意味」を受け取るだけでなく、「意味を作る側」にも回れる。ここで重要になるのが、のちに有名になる「作者の死」という発想だ。作品の意味は作者の意図に一つに定まる、という常識に対して、バルトはそれを拒む。作者が何を言いたかったかよりも、テクストが何を起こしてしまうかが重要だ。読むという行為が、作品を毎回生まれ直させる。読者が意味の中心に立つ。これは文学論であると同時に、権威のあり方そのものへの問いでもある。
バルトの文章は、理論を説明するための硬い文章ではなく、読む行為そのものを体験に変える文章だ。彼は「テクストの快楽」という言い方で、読むことが単なる理解ではなく、身体的な出来事であることを語った。読むとき、私たちは知識を取り込むだけではない。心地よくなったり、苛立ったり、刺さったり、妙に興奮したり、理由もなく忘れられなくなったりする。バルトはこの「読むときに起きること」を真面目に扱った。思想が人生から離れてしまうのではなく、人生が思想に触れて揺れる瞬間を、彼は言葉にしようとした。だからバルトは、冷たい構造主義者というイメージだけでは捉えきれない。むしろ後期のバルトは、理論を磨けば磨くほど、生活の手触りに近づいていく。
その象徴が写真論『明るい部屋』である。バルトは写真を見るとき、そこには「文化的に理解できる要素」と「個人的に刺さってくる要素」があると言う。前者は背景知識や教養で読める部分で、後者は説明しきれない痛みや感情として突き刺さる部分だ。バルトはその刺さりを、きれいな理屈に回収しない。説明できないものがある、という事実を残す。そしてその「説明できなさ」こそが、人間の経験の核心に触れていることがある。ここには、意味を固定しないという彼の姿勢が、別の形で現れている。すべてを言葉で支配しない。言葉が届かない点を、点として認める。その上で、なお書く。バルトはこの矛盾を、矛盾のまま抱えた。
ロラン・バルトの人生は、理論の歴史というより、書くことの形が変化していく歴史として見ると分かりやすい。はじめは文学をどう読むか、社会のイメージをどう読むかという「読解の技術」が前面に出る。しかし進むにつれて、読むことと生きることが近づいていく。恋愛、喪失、声、写真、断章、沈黙。理論の言葉だけでは足りない領域へ、彼は自分から踏み込む。それは理論を捨てたということではない。理論を突き詰めた結果、人生の細部に触れざるを得なくなった、という方が近い。意味を作る装置を見抜くほど、装置からこぼれ落ちるものの存在が、はっきり見えてくるからだ。
この本では、バルトを「難しい思想家」として遠くに置くのではなく、日常の読み方を変える人として近くに置きたい。広告やSNSの投稿、ニュースの見出し、写真、そして小説の文章。どれも、ただ眺めているだけなら自然に見える。しかしバルトの視線を手に入れると、そこに仕掛けが見えてくる。仕掛けが見えると、意味に振り回されにくくなる。さらに、意味を自分で作り直す余地が生まれる。これは単なる知識ではなく、精神の自由の話でもある。ロラン・バルトは、その自由への入口を、細部から開いてくれる人だ。次章からは、バルトの基本姿勢である「意味はどこから来るのか」という問いを、もう少し具体的に掘り下げていこう。