デリダ入門 哲学入門シリーズ11
第一章 デリダってどんな人?
ジャック・デリダは、二十世紀後半を代表する思想家の一人です。名前だけは聞いたことがあるけれど、「難しい人」「何を言っているのか分からない人」という印象を持っている人も多いかもしれません。たしかにデリダの文章はやさしくはありません。しかし、だからといって中身が空っぽなのではなく、むしろ私たちがふだん当たり前だと思っている考え方の土台を、ていねいに点検し直そうとした人でした。デリダをひとことで言うなら、世界を乱暴に壊す人ではなく、言葉の使い方や物の見方のクセを見抜く、非常に粘り強い読者だったと言えます。
デリダは一九三〇年、当時フランス領だったアルジェリアのエル・ビアールで生まれました。フランス本国ではなく植民地の側に生まれたという事実は、彼の思想を理解するうえで見落とせません。中心にいる人の見え方と、周辺に置かれた人の見え方は違います。社会のルールや言葉の使い方が、誰かには自然に見えても、別の誰かには不自然に感じられることがあるからです。デリダはのちに「中心」と「周辺」、「正統」と「例外」といった対立のあり方を問い直していきますが、その感覚の根には、こうした出自の経験も響いていたと考えられます。
若いころのデリダはフランスに渡り、高等師範学校で学びました。そこで現象学、哲学史、文学、言語論などを深く吸収していきます。特にフッサール、ハイデガー、ニーチェ、レヴィ=ストロース、ルソー、プラトンといった思想家たちとの格闘が、のちのデリダの仕事の核になります。ここで大事なのは、デリダが「ゼロから新しい理論を発明した天才」というより、先人たちのテクストを徹底的に読み込み、その内部にある緊張や矛盾を照らし出した思想家だという点です。彼は哲学の外から石を投げたのではなく、哲学のど真ん中に入って、古典を読み直すことで新しい地平を開きました。
デリダの名を一気に有名にしたのは、一九六〇年代の仕事です。とくに『グラマトロジーについて』などの著作で、彼は西洋哲学が長く前提にしてきた考え方を問い直しました。その代表が、「目の前にあるものこそ確かだ」「話し言葉のほうが書き言葉よりも本物に近い」といった発想です。私たちはふつう、本人がその場で話している言葉のほうが、紙に書かれた文章よりも“生きた言葉”だと感じがちです。たとえば友人から直接「ありがとう」と言われるのと、メッセージで「ありがとう」と送られるのでは、前者のほうが気持ちが伝わると感じる人は多いでしょう。こうした感覚そのものをデリダは否定したいわけではありません。ただ、その感覚がいつのまにか「話し言葉が上、書き言葉が下」という序列になっていないかを疑ったのです。
ここでデリダらしさがよく出ます。彼は「逆に書き言葉こそ最高だ」と単純にひっくり返すのではありません。そうではなく、そもそもなぜ私たちは序列を作ってしまうのか、その序列は本当に安定しているのかを見ます。たとえば会議で誰かが話した言葉も、録音されたり、議事録にまとめられたり、別の人に引用されたりした瞬間に、すでにその場を離れて流通しはじめます。すると「その場での生の声」だけでは意味は完結しません。言葉はつねに繰り返され、文脈を変えながら働いていく。デリダはこうした点に注目し、私たちが当然視している「本物/二次的」「中心/周辺」といった区分の足場を揺らしていきました。
このためデリダは、しばしば「何でも相対化する人」「白黒つけない人」と批判されます。たしかに彼は、物事を簡単に断定する態度には慎重でした。しかしそれは、責任から逃げるためではありません。むしろ逆で、簡単に決めてしまうと見えなくなるものがある、と考えたからです。ある言葉が何を意味するのか、ある制度が誰を守り誰を排除しているのか、ある常識が何を前提にしているのか。こうした問いを、面倒くさがらずに追いかけることがデリダの仕事でした。デリダを読むことは、答えを暗記することよりも、問いの立て方を学ぶことに近いのです。
また、デリダは哲学者であると同時に、文学や批評とも深く関わりました。彼の文章は論文のように直線的に進まず、言葉の多義性や語源、表記の違いを手がかりに、行きつ戻りつしながら考えを進めることがあります。そのため最初は読みにくいのですが、慣れてくると、彼が「わざと回りくどく書いている」のではなく、「単純化した瞬間に取りこぼしてしまうもの」を守ろうとしていることが分かってきます。たとえば日常でも、誰かに謝るときに「ごめん」の一言で済ませるのと、「何がまずかったのか」「どう受け取られたのか」を言葉にするのとでは、同じ謝罪でも重みが違います。デリダの文体は、そうした“言い切れなさ”を引き受けようとする態度に近いところがあります。
デリダは一部の専門家だけの思想家ではありません。彼の問いは、現代社会のさまざまな場面につながっています。たとえばニュースで「正義」という言葉が使われるとき、その正義は誰の立場から見た正義なのか。法律に従うことと、正しいことをすることはいつも一致するのか。あるいは「本音」と「建前」はどちらが本当なのか。こうした問いに対して、デリダはすぐに答えを与えるというより、言葉の使われ方そのものを検討する視点を与えてくれます。だからこそ、彼は哲学だけでなく、法、政治、文学、文化研究など広い分野で読まれ続けているのです。
では、入門としてデリダをどう読めばよいのでしょうか。最初から「すべて理解しよう」とすると苦しくなります。まずは、デリダが何かを破壊したい人ではなく、当たり前に見えるものの組み立て方を見ようとした人だ、という人物像をつかむことが大切です。たとえば「常識だから」「昔からそうだから」という言い方を聞いたときに、本当にそれだけで十分なのかと一歩立ち止まる。その姿勢こそ、すでにデリダ的な読みの入り口です。デリダは、世界を分かりやすく整理してくれる先生というより、見落としていた前提に気づかせてくれる読書の伴走者なのです。
この本では、そんなデリダを、難解な用語の暗記ではなく、考え方の流れとして追っていきます。最初は聞き慣れない言葉が出てきても大丈夫です。大切なのは、「なぜこの人は、こんな面倒な問いを立てたのか」という動機を見失わないことです。デリダを読む面白さは、答えが一つに決まらないところにあります。けれどそれは、何でもありという意味ではありません。むしろ、言葉を雑に扱わず、他者との違いを急いで消さず、考えることを投げ出さないための、厳しい練習なのです。デリダという思想家は、その練習を私たちに要求する人であり、同時に、その練習が現代を生きるうえで必要だと教えてくれる人でもあります。