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ローティ入門 哲学入門シリーズ13

第一章 ローティってどんな人?

リチャード・ローティは、二十世紀後半のアメリカ哲学を語るときに避けて通れない人物である。けれども、最初に名前だけ聞くと、どこかつかみにくい哲学者にも見える。プラグマティズムの人と言われたり、相対主義者だと批判されたり、分析哲学から大陸哲学へ橋をかけた人だと紹介されたりするからだ。しかも本人は、哲学は「最終的な土台」を与える学問ではない、と言う。ふつう哲学者には「世界の真理をどう説明するか」を期待してしまうので、最初からその期待をずらしてくるローティは、読者にとって少し変わった存在に映る。だが、そこにこそ彼の面白さがある。ローティは、哲学の答えを増やした人というより、哲学の役割そのものを組み替えようとした人なのである。

ローティはアメリカの哲学者で、もともとは非常に本格的な分析哲学の訓練を受けている。つまり、言葉の使い方を厳密に見て、論証の筋道を丁寧に追う、あの硬質なスタイルを内側から知っていた人だということだ。だからこそ彼の転回は重い。外から「難しい哲学なんていらない」と言ったのではなく、哲学の専門的な議論のど真ん中を通ってきた人が、そのうえで「哲学は自分が思っていたような仕事をしなくてもいいのではないか」と言い出したのである。この点を押さえるだけでも、ローティは単なる破壊者ではないことがわかる。彼は哲学を雑に捨てたのではない。むしろ哲学を生かすために、その自画像を描き直そうとした。

ローティを理解するうえで大事なのは、彼が「真理」そのものを軽蔑していたわけではない、ということだ。ここはよく誤解される。ローティはしばしば、真理よりも「正当化」を重視するような書き方をする。そのため、「真理なんてどうでもいいと言っている人」と見なされやすい。しかし彼が狙っていたのは、真理という言葉を消すことではなく、真理をめぐる思考の癖を変えることだった。私たちは何かを語るとき、まるで言葉が世界をそのまま写し取っているかのように考えがちである。けれどローティは、言葉はつねに歴史的で、共同体の中で鍛えられ、使われ、修正されるものだと言う。すると哲学の仕事は、「世界の本質を鏡のように映す正しい表現」を探すことより、「どんな言い方が、いまの私たちの生をよりましにできるか」を考えることへと移っていく。ここに、ローティがプラグマティズムと深くつながる理由がある。

彼の名前を一気に有名にした本は『哲学と自然の鏡』である。この本でローティは、近代哲学が長く抱えてきた「心は世界をどう正しく表象するか」という枠組みに強い疑いを向けた。哲学は、科学の基礎を保証する審判役のような立場を取りたがることがある。だがローティは、その役割そのものが近代のある時期に作られた自己理解にすぎないのではないか、と問い直す。これは単に一つの学説への反対ではなく、「哲学者は何者か」という自己像への批判でもあった。そのためローティは、哲学史の中の個別論点だけでなく、哲学という営みの雰囲気そのものを変えた人だと言える。

とはいえ、ローティの魅力は、難解な批判理論に閉じこもるところにはない。彼はむしろ、会話、読み替え、言い換え、連帯といった言葉を大切にした哲学者だった。世界にただ一つの正しい語彙があるのではなく、人は複数の語彙を使いながら生き、時には別の語彙に出会うことで自分を変えていく。こうした発想は、学問の専門家だけでなく、日常を生きる読者にもひらかれている。たとえば、昔は当然だと思っていた言葉づかいが、いまは誰かを傷つけるものとして見直されることがある。あるいは、自分を説明する言葉が、年齢や経験によってしっくり来なくなることがある。ローティの哲学は、そうした変化を「真理からの逸脱」としてではなく、人間の歴史性そのものとして受け止める視線を与えてくれる。

またローティは、政治や社会についても独特の語り方をした。彼は壮大な形而上学的原理で人間を統一しようとするより、残酷さを減らすこと、他人の苦痛に想像力を向けることを重視した。これは冷めた態度ではなく、むしろ地に足のついたリベラルな希望の形である。人は最終的な土台を共有できなくても、痛みや侮辱を減らしたいという実践的な目標なら共有できるかもしれない。ローティはそこに、民主主義の現実的な力を見た。この点でも彼は、哲学を「絶対的な答えの学問」から「共同生活のための語彙を育てる営み」へとずらしている。

もちろん、こうした立場には批判も多い。ローティは相対主義だ、科学の真理を軽んじている、規範の根拠を失わせる、といった反論は今でも繰り返される。実際、ローティの文章には、あえて挑発的に読める表現もある。だから彼を読むときは、賛成か反対かを急ぐより、まず「何に対してこの人はこんな言い方をしているのか」を丁寧に追う必要がある。ローティは、すべての価値判断を放棄しようとしているのではない。そうではなく、価値判断を支える言葉の土台が最初から一枚岩だと思い込むことに疑いを向けているのである。この違いをつかめると、ローティは急に読みやすくなる。

ローティを入門として読む意義は、ここにある。彼は「この世界の本質はこうだ」と最終結論を示す哲学者ではない。そのかわり、私たちがどんな問いを立て、どんな言葉で生き、どんな仕方で他人と折り合いをつけるのかを考え直させる。哲学を、正解を当てる競技としてではなく、言葉を鍛え、視野を広げ、残酷さを減らすための実践として捉え直す入口を与えてくれる。だからローティは、専門家向けの論争の中だけにいる人ではない。むしろ、価値観の対立が激しく、言葉の使い方そのものが政治や生活を左右する時代にこそ、読み直す意味がある哲学者だと言える。

この本では、そんなローティを「相対主義者かどうか」という単純なラベルで片づけず、どんな時代に現れ、何を批判し、何を残そうとしたのかを順番に見ていく。最初に人物像を押さえるだけでも、ローティはかなり印象が変わるはずだ。彼は哲学を壊した人というより、哲学を窮屈な役割から解放しようとした人である。そしてその試みは、うまくいった部分もあれば、いまなお議論を呼ぶ部分もある。その両方を含めて、ローティは「考えることそのものの雰囲気」を変えた哲学者だった。ここから先、その変化の中身を少しずつ見ていこう。

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