アドラー入門 哲学入門シリーズ19
第一章 アドラーってどんな人?
アルフレッド・アドラーは、「心の病気を治す人」というより、「生き方のクセを読み解いて、もう一度選び直せるようにする人」だ。彼が面白いのは、人間を“内側の機械”として分解しないところにある。怒り、不安、やる気のなさ、自己嫌悪、他人への嫉妬。そういう感情や行動を、単なる症状として切り離すのではなく、「その人がこの世界で生き延びるために採用してきた戦略」として丸ごと眺める。だからアドラーの文章を読むと、診断名よりも先に「あなたは、何を守ろうとしている?」という問いが立ち上がってくる。
アドラーは1870年、当時のオーストリア=ハンガリー帝国のウィーン近郊に生まれ、医師になった。若い頃、労働者が多い地域で開業したとも伝えられ、貧困や差別や教育の格差が、身体だけでなく心のあり方にも直結している現場を見ていた。そこで彼は、苦しみを「個人の内面だけの問題」に閉じ込める見方に違和感を持つ。人は社会の中で生きる存在であり、孤立した瞬間に心は弱る。逆に、つながりの中で役割を持てた瞬間に回復が始まる。アドラーがのちに「共同体感覚」を核心に据えるのは、机上の哲学ではなく、こうした現場感覚が土台にあるからだ。
幼いころは病弱だったと言われ、体の弱さや劣等感に早くから触れていたらしい。ここで重要なのは、彼が劣等感を“欠陥の証拠”ではなく、“成長を起動するスイッチ”として捉えたことだ。人は、弱さや足りなさを感じたとき、二つの方向へ進む。ひとつは「どうせ無理だ」と縮こまる方向。もうひとつは「ならば工夫して届くようにしよう」と伸びる方向。アドラーは後者を人間の基本的な運動として捉え、そこに希望を置いた。ここが、彼を哲学入門にふさわしい思想家にしている。人間を過去の原因に縛り付けず、未来へ向かう存在として扱うからだ。
彼は20世紀初頭のウィーンで、精神分析の潮流の中心にいた。フロイトの集まりに参加し、初期には重要なメンバーでもあった。しかしやがて、フロイトが重視した性的欲動や過去の出来事による因果関係だけでは、人間の全体像がつかめないと考えるようになる。アドラーが強調したのは「目的」だった。人は、何かが起きたからそうなった、だけではなく、「そうすることで何かを得ている」からそうしている。これを目的論という。ここで誤解しないでほしいのは、目的論が「本人がいつも自覚している目的」だけを指すわけではない点だ。むしろ多くの場合、目的は無意識的で、習慣のように働く。
たとえば、学校に行こうとするとお腹が痛くなる子がいる。原因論だけで見れば「ストレスが原因で腹痛になった」となる。でもアドラー流に見ると、「腹痛という形をとることで学校を休める」「休むことで失敗や評価から逃れられる」「逃れられることで、自分の価値が壊れる痛みを回避できる」という“機能”が見えてくる。これは子どもを責めるための見方ではない。むしろ逆で、「その子は、その子なりに生き延びようとしている。ならば、もっと安全で、もっと建設的な手段を一緒に探せる」と言うための見方だ。アドラーは、人間を悪者にしない。戦略を変えれば人生は変わる、と言う。
大人でも同じことが起きる。たとえば締め切りや試験が近づくと、なぜか部屋の片づけが止まらなくなる人がいる。原因論は「集中力がない」「怠けている」で終わるが、目的論で見れば「本気で挑んで失敗するのが怖いから、挑まない理由を作っている」「“やってないから負けただけ”という逃げ道を確保している」と読める。ここで大切なのは、自己嫌悪で叩き潰すことではなく、「怖さを抱えたままでも進める別の手段」を見つけることだ。アドラーは、人生を変える鍵を“反省”ではなく“次の一手”に置く。
アドラーの学派は「個人心理学」と呼ばれる。ここでの“個人”は、孤立した個人主義の個人ではない。indivisible、つまり「分割できない全体」という意味合いが強い。人は頭だけ、感情だけ、過去だけ、家族関係だけ、のように切り分けると見誤る。ある人の怒りは、同時にその人の不安でもあり、誇りでもあり、対人関係の取り方でもある。彼は人間を、一本の筋の通った物語として読もうとした。だからアドラーの面白さは、「あなたはどういう物語で生きている?」という問いに集約される。
その物語を支えているのが「ライフスタイル」だ。ライフスタイルとは、服装の趣味の話ではない。世界をどう見て、自分をどう位置づけ、どんなやり方で課題を切り抜けるか、という生き方の型である。人は子どもの頃から、失敗の痛みや、家庭の空気や、他者との距離感の中で、「この世界ではこう振る舞うと安全だ」という癖を作る。その癖は役に立つときもあるが、環境が変わると足かせにもなる。アドラーはそこを“直すべき欠陥”と呼ばない。“一度は役に立った工夫”と呼び直す。ここにも、勇気づけの態度がある。
彼が臨床家として特に力を入れたのは、子どもと教育の領域だった。ウィーンで子どもの相談所(ガイダンスのようなもの)を開き、親や教師と一緒に、問題行動の背景にある目的を読み解こうとしたと言われる。叱る、罰する、恥をかかせる。そうした方法は短期的には効くように見えるが、長期的には「見つからないようにやる」「やらない理由を作る」「相手を敵にする」といった別の戦略を育ててしまう。アドラーが目指したのは、子どもが共同体の一員として「ここにいていい」と感じられる関係であり、そのうえで「貢献できる自分」を作っていく道だった。
ここで出てくるのが、アドラーの中心概念である「共同体感覚」だ。人は孤立して強くなるのではなく、つながりの中で強くなる。所属感と貢献感がそろったとき、人は落ち着き、挑戦できる。逆に言えば、極端な承認欲求や支配欲、過剰な競争心は、共同体の中での居場所が不安定なときに肥大化しやすい。たとえば職場でやたらと相手を論破したがる人がいる。原因論で見れば「性格が悪い」で終わってしまう。しかし目的論で見れば、「論破して上に立つことで、価値を確保しようとしている」「対等な関係だと、見捨てられる不安が出るから、上下を作って安心する」という読みができる。もちろん断定はできないが、こういう見立てが可能になるだけで、対応の選択肢が増える。相手を倒すゲームから、関係を作るゲームへ切り替えられるのだ。
アドラー自身は、ヨーロッパの激動の時代を生き、のちにアメリカでも講義を行い、講演旅行中に急逝した。だが彼の思想がいまも残るのは、彼が「人生は固定されない」という立場を、きれいごとではなく技術として提示したからだ。過去は変えられない。しかし、過去に与えた意味は変えられる。意味が変われば、目的が変わる。目的が変われば、手段が変わる。手段が変われば、日々の感情の使い方が変わり、他者との距離が変わり、人生の景色が変わる。アドラーとは、そういう“変化の連鎖”を信じた人である。
この本では、アドラーを「優しい言葉で慰める思想」としてではなく、「自分の足で立ち直るための思想」として扱っていく。アドラーがくれたのは、根性論ではない。あなたの人生のハンドルを、もう一度あなたの手に戻すための見取り図だ。まずは彼がどんな人だったのか、その輪郭をつかんだ。次の章からは、彼の道具箱をひとつずつ開けていこう。