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ハイデガー入門 哲学入門シリーズ20

第一章 ハイデガーってどんな人?

ハイデガーは、いわゆる「難解な哲学者」の代表格として名前が挙がる人物だ。けれど、彼が投げた問いは、実は日常の足元に刺さっている。私たちは毎日、ものを使い、人と話し、時間に追われ、将来を心配し、ときに不安に飲まれる。そのすべてを生きている最中に、ほとんど考えないことがある。「そもそも、存在って何だろう?」という問いだ。ハイデガーは、この“考えないまま通り過ぎてしまう問い”を、無理やりこちらに向けさせるような哲学者だった。

マルティン・ハイデガーは1889年、ドイツ南西部の小さな町メスキルヒに生まれた。若いころは神学にも強く惹かれ、カトリックの世界のなかで教育を受けたが、やがて哲学へと軸足を移していく。のちに彼はフライブルク大学やマールブルク大学で教え、1927年に代表作『存在と時間』を刊行する。この本は、出版当時から「何を言っているか分からないのに重要だ」と評され、現象学、実存思想、解釈学など、二十世紀の思想全体に大きく影響を与えた。

ただ、ここで注意しておきたい。ハイデガーの本が難しいのは、わざと読者を困らせたいからではない。彼にとって、哲学が扱うべきものは、すでに言葉になっている“知識”ではなかった。むしろ、言葉にしようとした途端に、すり抜けてしまうものだ。たとえば「時間」と聞けば、時計やカレンダーを思い浮かべる。しかし、実際に私たちが生きている時間は、数字だけではない。締め切りが近いときの一日は短く、待ち合わせの五分は異様に長い。未来が不安なとき、明日が重くのしかかる。逆に、夢中になっているときは時間を忘れる。こうした体験は、時計の針では測れないのに、確かに私たちの生を支配している。ハイデガーは、その“測れないのに支配しているもの”に言葉を与えようとした。その結果、言葉がどうしても新しくなり、読みにくくなってしまった、という面がある。

ハイデガーが問いの中心に置いたのは「存在」だが、これは「この世にある物体」みたいな意味ではない。机がある、猫がいる、雲が浮かんでいる、そういう「ある」ことの背後に潜んでいる、「あるとはどういうことか」という次元の話だ。私たちは、目の前の“あるもの”についてはよく知っている。スマホの機能や、料理の手順や、人間関係のコツ。けれど「ある」ということ自体については、ほとんど考えない。考えないというより、考えようがないように感じる。ハイデガーは、その“考えようがない”という感覚こそが、哲学が眠り込んでしまった証拠だと言う。そして、眠りから起こすために、まず「存在を問うのにふさわしい存在」を取り上げる。つまり、人間自身だ。

ここでハイデガーが使う言葉が「現存在(ダーザイン)」である。ふつうに「人間」と言ってもよさそうなのに、彼はわざわざ変な言葉を選ぶ。理由は、「人間」を“動物の一種”や“理性的主体”として説明する枠組みをいったん外したいからだ。現存在とは、ひとことで言えば「自分の存在が問題になってしまう存在」である。たとえば猫は、猫として生きているが、基本的には「私は猫であることをどう生きるべきか」などと悩まない。ところが人間は、平気で悩む。「このままでいいのか」「自分は何者なのか」「何をして生きるのか」。そして悩みながら、答えが出ないまま今日を過ごす。ハイデガーは、この奇妙な生き方のなかに、存在を問う入口があると見た。

現存在の特徴は、最初から世界のなかに投げ込まれていることだ。私たちは生まれる場所も時代も選べない。気づいたら日本語を話していて、気づいたら家族や学校や社会があって、そこから逃げたり適応したりしながら生きている。これを彼は「被投性」と呼ぶ。けれど同時に、人間はただ投げ込まれて終わりではない。未来に向かって自分を作ろうとする。たとえば、今日は疲れているのに、明日のために早く寝ようとする。あるいは、将来が不安だからこそ、資格を取ろうとしたり、引っ越しを考えたりする。こうした「まだそうなっていないものへ向かう力」を彼は「企投」と言う。投げ込まれているのに、投げ出されてはいない。この二重性が、人間を独特の存在にする。

さらにハイデガーが鋭いのは、私たちが世界に関わるとき、まず頭の中で理屈を組み立ててから動いているわけではない、と見抜いた点だ。たとえば、朝起きてコップに水を注ぐ場面を想像してほしい。私たちは「これは透明な液体で、H₂Oで、重力に従って流れて……」などと考えない。コップはすでに“飲むためのもの”としてそこにあり、水は“喉の渇きを癒すもの”として手に取られる。つまり世界は、最初から「意味のある環境」として立ち現れている。ハイデガーはこの状態を「世界内存在」と言い、人間を“世界から切り離された観察者”ではなく、“意味の網の目の中で動いてしまっている存在”として描いた。

この見方は、抽象的なようでいて、日常の経験に触れると急に分かりやすくなる。たとえばスマホが壊れたときだ。ふだん私たちはスマホそのものを見ていない。連絡する、調べる、暇を潰す、そういう目的のなかで“手に馴染んだ道具”として使っている。ところが壊れた瞬間、スマホは「ただの物体」として目の前に現れる。「なぜ動かない?」「修理?買い替え?」「データは?」と慌てる。このとき私たちは初めて、スマホを“物”として意識する。ハイデガーは、ふだんの世界は道具の連関として滑らかに動いているが、破綻すると「物としての現れ方」が顔を出す、と考えた。こうした観察は、単なる日常描写ではなく、「人間はまず世界を意味として生きている」という主張を支える材料になる。

では、なぜ彼はそこまでして「存在」を問うのか。彼の診断によれば、西洋哲学は長いあいだ“存在者”ばかりを扱ってきた。つまり、何があるか、どう分類できるか、どう認識できるか、という方向に進み、肝心の「あるとはどういうことか」を置き去りにしてきた。その結果、世界は説明できても、生きることそのものの輪郭が見えにくくなった。私たちが「忙しい」「不安だ」「空虚だ」と感じるとき、単に生活が大変だからというだけではなく、世界が“ただの対象の集合”になり、意味が薄くなっている場合がある。ハイデガーは、その根にあるものを「存在忘却」と呼び、そこから哲学を立て直そうとした。

ただし、ハイデガーの人生には、哲学以外の側面もある。1930年代、彼はドイツの政治状況のなかでナチ党に入党し、大学の総長を務めた時期があった。この問題は、彼の哲学をどう読むかに影を落としている。ここでは結論を急がない。大事なのは、彼の思想が二十世紀の知の中心に置かれた一方で、倫理や政治との関係をめぐって今も議論の対象であり続けている、という事実だ。入門としては、まず哲学の骨格をつかみ、そのうえで論争点を冷静に位置づけるのがよい。先に骨格がないと、評価も批判も感情に流れやすいからだ。

この本では、ハイデガーを「難解な巨人」として遠くから眺めるのではなく、あなたの生活の近くへ引き寄せて読む。スマホが壊れたときに世界の見え方が変わるように、不安や焦りが襲ったときに時間の感触が変わるように、私たちはすでにハイデガー的な場所に立っている。彼の言葉はときに硬いが、指しているものは驚くほど身近だ。次の章では、いよいよ彼の問いの中心である「なぜ存在を問うのか」を、もう一段深く掘り下げていく。ここまでで覚えておくべきことは一つでいい。ハイデガーは、世界を説明するために哲学をしたのではない。私たちが世界のなかで“生きてしまっている”その仕方を、根っこから照らし直すために哲学をしたのだ。

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