アリストテレス入門 哲学入門シリーズ26
第一章 アリストテレスとはどういう人?
アリストテレス。この名前を聞いたことがない人は、おそらくいないだろう。しかし「彼が何をした人物なのか」と問われたとき、即座に答えられる人はそう多くない。彼は一言でいえば「あらゆる学問の祖」である。哲学はもちろん、自然学、倫理学、政治学、詩学、動物学、論理学──ほとんどすべての知的分野に触れ、それを整理し、名前を与え、体系化した人物である。人類が「学問とは何か」を考えるとき、アリストテレスの思考の影が今もつきまとう。それほどまでに彼の知は深く、広大だった。
だが、彼は空想にふける夢想家ではない。彼は、世界を観察し、分類し、論理的に説明しようとする探究者だった。「哲学者」というよりはむしろ「知の技術者」「分類と構造の達人」と言ったほうがふさわしいかもしれない。そんな彼の生涯から見ていこう。
アリストテレスは紀元前384年、マケドニア王国のスタゲイラという小さな町で生まれた。父ニコマコスはマケドニア王家の侍医であり、薬草や解剖に通じていたという。幼い頃から自然や生命への関心を育むには十分すぎる環境だったに違いない。17歳でアテナイへ赴いた彼は、あのプラトンが主宰するアカデメイアに入門する。そこでおよそ20年にわたり学問に明け暮れた。師プラトンの思想に深く学びながらも、やがて距離を置くようになる。プラトンの掲げる「イデア」のような抽象的存在よりも、この現実世界そのものの観察に価値を見出したのである。
プラトンの死後、アリストテレスはアカデメイアの後継者にはなれなかった。彼がアテナイ市民ではない異邦人であったことも一因だと言われる。その後、小アジアのアッソスやレスボス島へ移り、生物学的観察に没頭する。この時期に彼は動植物を分類し、観察し、記述するという、いかにもアリストテレスらしい仕事に没頭した。これが後の『動物誌』などに結実する。
やがて運命の転機が訪れる。マケドニア王フィリッポス2世の招きにより、13歳の王子アレクサンドロスの家庭教師として迎えられたのだ。アリストテレスは王子にギリシア文化、倫理、論理、自然について教育した。後に「アレクサンドロス大王」となる若者の知的土台には、アリストテレスの教えが確かにあった。しかし征服と戦争に突き進む王と、知の秩序を求める哲学者の関係は、しだいに冷えたものになっていったとも伝えられている。
紀元前335年、アリストテレスは再びアテナイに戻り、自らの学園「リュケイオン」を設立する。そこでは「歩きながら講義をする」という独自のスタイルが取られ、生徒たちと共に議論と探究に没頭した。このため、彼の学派は「逍遥学派(ペリパトス派)」とも呼ばれる。リュケイオンは単なる講義の場ではなく、動植物の標本を集め、図書館を整備し、知のあらゆる分野を網羅する総合的な研究機関となっていた。
アリストテレス自身も、そこで多くの著作をまとめていく。ただし、私たちが現在読むアリストテレスの著作の多くは、実際には講義のためのノートや弟子たちへの指導記録がもとになっている。『形而上学』『詩学』『ニコマコス倫理学』などは、いずれも体系化された著書というよりは、思考の断片を濃密に綴ったメモ群である。時に読みにくく、文体も平明ではないが、そこには彼の生の思考が封じ込められている。
アリストテレスの晩年は平穏とは言えなかった。紀元前323年、アレクサンドロス大王が急死すると、アテナイでは反マケドニア感情が高まり、アリストテレスもその標的となる。彼は告発を受け、「ソクラテスのようにアテナイに再び罪を犯させるわけにはいかない」と語って、都を離れた。彼がソクラテスの死を深く意識していたことがうかがえる。翌年、彼は故郷近くのカルキスで病死する。62歳であった。
アリストテレスの死後、彼の思想はしばらく忘れられた。だが中世イスラーム世界において再発見され、アラビア語に翻訳されると、その知の体系はヨーロッパに逆輸入される。キリスト教神学者トマス・アクィナスはアリストテレスを「哲学者」と呼び、理性と信仰の橋渡し役とした。その後も近代哲学が登場するまでは、アリストテレスの権威が「絶対」と言ってもよいほど強かった。
だが、アリストテレスの真価は権威ではない。私たちが「論理的に考える」「なぜそうなるのかを説明する」「世界を分類する」といったあらゆる知的営みにおいて、彼の影響は今なお生きている。世界を理屈で理解できるものとして扱う──その思想の出発点に立ったのが、アリストテレスだった。彼は単なる過去の哲学者ではなく、私たちが考える「知」のあり方そのものを形づくった人物なのである。