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サルトル入門 哲学入門シリーズ33

サルトル入門 哲学入門シリーズ33
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第一章 サルトルってどんな人?

 ジャン=ポール・サルトルは、一九〇五年にフランスで生まれ、一九八〇年に亡くなった哲学者である。しかし「哲学者」とだけ紹介すると、かなり大事な部分が抜け落ちる。小説を書き、戯曲を書き、文学評論を書き、新聞や雑誌で政治について発言し、デモにも参加した。大学の研究室に腰を据えて、専門家だけを相手に哲学をしていた人物ではない。二十世紀のフランスで「知識人」という言葉を聞いたとき、多くの人が思い浮かべる姿そのものを作った人物の一人だった。

 サルトルの思想を一言でまとめようとすると「人間には、あらかじめ決められた生き方がない」というところから始まる。人は生まれた時点で「あなたはこういう人間として生きなさい」という説明書を渡されない。職業も、人生の目的も、どんな人間になるべきかも決まっていない。そう聞くと、自由で気楽な話のように思える。しかしサルトルにとって、この自由はかなり重い。

 たとえば包丁なら、事情は簡単である。包丁は物を切るために作られる。その目的が先にあり、目的に合わせて刃の形や柄の長さが決められる。作る前から「これは何のための物か」が分かっている。ところが人間については、そうはいかない。サルトルは、人間の用途を書いた宇宙の説明書など存在しないと考えた。

 会社員として生きるために生まれた人はいない。作家になるために生まれた人もいない。結婚するため、親になるため、金持ちになるため、善人になるために製造されたわけでもない。まず人間としてこの世界に現れ、その後で何を選び、何を行うかによって、少しずつ「その人」が出来上がっていく。

 この考えが、サルトルの有名な「実存は本質に先立つ」という言葉につながる。詳しい意味は次章で扱うが、ひとまず「人間には完成済みの自分がない」と考えておけばいい。

 ここからサルトルは、かなり容赦のない結論へ進んだ。自分が何者なのかを決めてくれる設計図がない以上、人間は自分で選ばなければならない。そして、選んだ行為について責任を負うことになる。

 だからサルトルは、人間を「自由の刑に処されている」と表現した。

 普通なら、自由はご褒美である。好きな所へ行ける。好きな仕事を選べる。好きな本を読める。ところがサルトルの自由には、妙な怖さがある。正解を保証してくれるものがないからである。

 大学を辞めるべきか。会社に残るべきか。結婚するべきか。小説を書くべきか。政治について発言するべきか。黙っているべきか。どれを選んでも「宇宙の正解表」と照合することはできない。それでも選択はしなければならない。

 しかも、何も選ばないという逃げ道まで怪しい。決断を先延ばしにすれば「決断しないこと」を選んだことになる。投票へ行かなければ「投票しない」という形で政治的状況に関わる。嫌な仕事を十年間続けながら「仕方なく働いている」と言っても、その仕事を続けるという行為は毎日積み重なっている。

 サルトルの哲学が胃に悪いのは、このあたりである。

 だが人間は、そんな重たい自由を四六時中見つめてはいられない。そこで「私はこういう性格だから仕方がない」「会社員なんだから仕方がない」「みんなそうしている」「親に言われたから」と考え、自分を固定された物のように扱おうとする。

 サルトルは、こうした態度を「自己欺瞞」として考えた。

 『存在と無』には、有名なカフェの給仕が登場する。彼は動作も話し方も、いかにも給仕らしく振る舞っている。それ自体が悪いわけではない。問題は「私は給仕という存在そのものだ」とでもいうように、社会的な役割と自分を完全に重ねようとするところにある。

 机は机であることをやめられない。包丁は包丁であることをやめようとは考えない。しかし給仕は仕事を辞めることができる。明日、別の職業に就く可能性もある。人間を「給仕という物」にしてしまえば、その不安定な可能性を見なくてもよくなる。

 サルトルが奇妙なのは、人間を励ましているようでいて、あまり慰めてくれないところである。

 「あなたには無限の可能性があります」と優しく言うわけではない。「可能性がある以上、それをどうするかという問題から逃げられない」と迫ってくる。

 自分では本当は小説家だと思っている人がいるとする。しかし、一冊も書いていない。構想はある。才能もあると思っている。いつか必ず書くつもりでいる。

 サルトルなら、頭の中に眠っている「本当の作家」をあまり信用しない。実際に書いたか、書かなかったかを見る。百冊書いた人なら、その百冊を書くという行為によって、自分を作家として作っている。

 人間の正体は、心の奥深くに隠された宝石のようなものではない。何を選び、何をしてきたかという行為の中に現れる。サルトルは、そんな方向へ人間を見ようとした。

 もう一つ、サルトルを有名にした問題が「他人」である。

 自分がどんな人間なのかを自分で作るとしても、この世界には自分一人しかいないわけではない。他人もこちらを見ている。そして他人はこちらを「優しい人」「嫌な人」「成功者」「敗者」「変わった人」と勝手に理解する。

 自分では自由な主体として生きているつもりでも、他人の目の中では一個の対象になる。

 この問題を極端な形で表現したのが、戯曲『出口なし』に登場する「地獄とは他人である」という有名な言葉である。この言葉だけを読むと「人付き合いは最悪だから一人で暮らせ」という話に見える。しかしサルトルが考えている問題は、もう少し厄介だ。

 自分は、自分についての最終決定権を完全には持てない。

 どれほど「私はこういう人間だ」と思っていても、他人は別の自分を見る。その像をこちらから完全に消すことはできない。自分自身を自由に作ろうとする力と、他人から固定される力がぶつかる。恋愛、羞恥、嫉妬、支配、承認といった人間関係の問題が、ここから出てくる。

 サルトルは哲学だけを書いた人でもない。小説『嘔吐』では、世界が理由もなく存在しているという感覚を文学として描いた。主人公ロカンタンは、公園で木の根を見ているうちに、物がただそこに存在していることへ圧倒される。

 世界には、最初から人間向けの意味が貼られているわけではない。

 木が存在する理由も、自分が生きている理由も、あらかじめ保証されてはいない。

 ここで「それなら人生は無意味だ」と終われば、サルトルは単純な悲観主義者になる。しかし彼は、そこで止まらなかった。意味が最初から存在しないのであれば、人間が行為によって意味を作るしかない。

 人生の目的は、どこかに埋まっていて発掘されるのを待っているものではない。何をするかによって、後から形ができる。

 第二次世界大戦を経験した後、サルトルの関心は個人の自由だけでは収まらなくなった。貧困、階級、戦争、植民地主義、国家、革命といった社会の問題へ広がっていく。

 ここで重大な疑問が生まれる。

 人間が自由なら、なぜこれほど多くの人間が社会によって縛られているのか。

 貧困の中で生まれた人と、裕福な家庭で生まれた人を「どちらも自由なのだから好きに選べばいい」で済ませることはできない。サルトル自身も、次第に歴史や社会的条件の重さを強く考えるようになる。そしてマルクス主義と向き合いながら『弁証法的理性批判』を書くことになる。

 ここまで来ると、若いころの「一人の人間はどう自由なのか」という問いは「自由な人間たちが、なぜ自分たちで作った社会によって不自由になるのか」という巨大な問いへ変わっている。

 文学についても、同じ姿勢を取った。サルトルは「アンガージュマン」という考えで知られる。作家は社会から切り離された場所で、純粋な作品だけを作っているわけではない。何を書くか、何を書かないか、どんな世界を読者へ見せるか。それ自体が社会の中の行為になる。

 サルトル自身も政治的問題について盛んに発言した。アルジェリア戦争、ベトナム戦争、フランスの五月革命など、当時の大きな問題に関わった。

 そして一九六四年、サルトルはノーベル文学賞に選ばれた。

 ところが彼は、それを辞退した。

 世界でもっとも有名な文学賞の一つを「いりません」と断ったのである。以前から公的な栄誉を受けない姿勢を取っており、作家が制度によって権威化されることも警戒していた。

 この出来事は、妙にサルトルらしい。

 人間を肩書きへ固定することを疑い続けた男が、最後には「ノーベル賞作家」という巨大な肩書きまで拒否したのである。

 もちろん、サルトルの生き方が彼自身の哲学を完全に実現していたわけではない。政治的判断への批判も多い。ボーヴォワールとの関係を含め、私生活にもさまざまな議論がある。思想家本人が、自分の思想の模範解答になる必要もないだろう。

 むしろサルトルの面白さは、簡単な模範解答を残さなかったことにある。

 人間には設計図がない。世界にも、最初から人生の意味が書き込まれているわけではない。それでも人間は生きて、選び、行動し、その結果として自分自身を作ってしまう。

 だからサルトルの哲学は「本当の自分を見つけよう」という哲学ではない。

 自分を探している今この瞬間にも、何かを選んでいる。その選択が、少しずつ自分を作っている。

 自由とは、何でも好きにできることではない。

 自由から完全には逃げられないことである。

 サルトルは、その厄介な事実を一生かけて考え続けた哲学者だった。

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