サルトル入門 哲学入門シリーズ33
第一章 サルトルってどんな人?
ジャン=ポール・サルトル(Jean-Paul Sartre, 1905–1980)は、20世紀フランスを代表する哲学者であり、小説家、劇作家、そして政治的活動家でもありました。その影響は哲学の領域にとどまらず、文学や演劇、さらには社会運動にまで広がっています。サルトルの名前を聞くと、多くの人は「実存主義」という言葉を思い浮かべるでしょう。けれども、彼の人生をたどってみると、それは単なる哲学上の立場を超え、「生き方そのもの」を指し示す標語のように響きます。
サルトルは1905年、パリで生まれました。幼くして父を亡くし、母方の祖父母の家で育ちます。この祖父は教師で、家には本があふれていました。少年サルトルは早くから文学に親しみ、特に冒険小説や哲学書に夢中になったといわれます。背が低く、左目の視力を失っていた彼は、スポーツや身体的な活動よりも、読書と思索に没頭するタイプでした。のちに彼はこの外見的な特徴や孤立感を、自己形成の重要な要素として語っています。
大学進学後、パリの高等師範学校(エコール・ノルマル・シュペリウール)に入学し、そこで彼の人生を大きく変える出会いが訪れます。そう、シモーヌ・ド・ボーヴォワールとの出会いです。彼女もまた哲学者であり作家であり、フェミニズム思想の先駆者となる人物です。二人は結婚という制度を選ばず、「契約結婚」のような独自の関係を築きます。お互いに「必然の愛」としての関係を保ちながらも、それぞれに「偶然の愛」を経験するという、この少し奇妙で自由な形は、のちに多くの議論を呼びました。
1930年代、サルトルはフランス各地で高校教師として哲学を教えながら、自分の思想を練り上げていきます。この時期に生まれたのが、初期の代表作小説『嘔吐』です。ここでは、日常生活の中で突如訪れる不条理な感覚、人間存在の不安や虚しさが鮮烈に描かれています。この小説は文学的な成功を収めると同時に、彼が後に体系化する「実存主義」の感覚的な入口となりました。
第二次世界大戦がサルトルの人生を大きく変えます。1939年に徴兵されたサルトルは捕虜となり、ドイツの収容所に一年間ほど拘束されます。その間に彼は仲間たちと読書会を開き、戯曲を書き、思想を深めていきました。解放後、占領下のパリに戻った彼は、ドイツのナチス政権に抵抗する文化人ネットワークに参加します。この経験は、彼の哲学における「自由と責任」というテーマを一層強くしました。サルトルにとって自由とは単なる選択肢の多さではなく、状況がどれほど制限されていようとも、自らの行動に責任を持つという厳しい命題だったのです。
戦後、サルトルは哲学書『存在と無』を発表します。これは膨大なページ数と難解な議論で知られる大著で、「実存は本質に先立つ」という彼の立場を本格的に展開したものです。この一文はやがて実存主義のスローガンとして世界中に広まります。人間はまず世界に投げ出され、その後で自らの意味や目的をつくる——この考えは、多くの若者にとって息苦しい社会秩序や伝統から解放されるための哲学的武器となりました。
サルトルはまた、戦後のフランスにおいて最も影響力のある知識人の一人でした。雑誌『レ・タン・モダン(現代)」を創刊し、文学・哲学・政治を横断する論陣を張ります。彼は共産党と距離をとりつつも、植民地独立運動や労働者の闘争を支持し、しばしば街頭デモにも姿を現しました。晩年に至るまで「アンガジュマン(政治的関与)」の姿勢を貫いたのです。これも彼の哲学の延長線上にあり、思想は机上の空論ではなく、現実の社会を変えるために用いるべきだと考えていました。
しかし、彼の人生は決して英雄譚のように美化できるものではありません。政治的立場の変化、ソ連や毛沢東主義への一時的な共感、カミュとの決裂など、評価の分かれる行動も多々あります。とりわけカミュとの関係悪化は、実存主義の思想的分裂として有名です。カミュが暴力革命に懐疑的だったのに対し、サルトルは時にそれを肯定する立場をとったためです。
晩年、サルトルは失明に近い視力障害や健康問題に苦しみますが、発言の場を失うことはありませんでした。インタビューや講演、雑誌記事を通じて、若い世代とも積極的に交流しました。1980年にパリで亡くなったとき、葬儀には約5万人が集まり、彼の社会的影響力の大きさを物語りました。
こうして振り返ると、サルトルは哲学者というより「生き方の実験者」だったと言えるでしょう。自由を掲げ、責任を引き受け、時には誤りながらも自分の立場を貫く。彼の思想は難解に見えるかもしれませんが、その根底には「人間は何者にも決められていない」という単純で力強い信念があります。それは今もなお、多くの人にとって、自分の人生を引き受ける勇気を与える言葉なのです。