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バフチン入門 哲学入門シリーズ37
第一章 バフチンってどんな人?
ミハイル・ミハイロヴィチ・バフチンは、一八九五年に生まれ、一九七五年に亡くなったロシアの思想家である。文学理論家、言語哲学者、文化研究者など、紹介されるときの肩書きはいくつもある。しかし、バフチンが生涯を通じて考えていたことを一つに絞るなら「人間は一人だけで完成することができるのか」という問題だったと言ってよい。
たとえば、一人で部屋にいる人が「私は自由だ」とつぶやいたとする。一見すると、その言葉は本人だけのものに思える。ところが「自由」という言葉は、その人が発明したわけではない。政治家も使うし、哲学者も使う。広告にも出てくるし、学校の授業でも聞く。誰かから受け取った言葉を使って、自分の経験を表現しているのである。
しかも、その人が「私は自由だ」と言った瞬間、頭の中には誰かの反論が浮かぶかもしれない。「本当に自由なのか」「働かなければならないじゃないか」「法律には従っているだろう」といった声である。誰も目の前にいないのに、言葉の中には他人がいる。
この奇妙な事実を、バフチンは徹底して考えた。
私たちは普通、自分の考えを自分の言葉で話していると思っている。しかしバフチンから見ると、言葉はそれほど個人的なものではない。言葉は以前に誰かが使っていたものであり、いま誰かに向けて語られ、さらに誰かから返事が来ることを予想している。つまり言葉とは、一人の頭の中に閉じ込められた記号ではなく、人から人へ渡され続けるものなのである。
この考えは、のちに「対話主義」と呼ばれるバフチンの中心思想につながっていく。
ただし、ここでいう対話は、二人が仲良く話し合うことだけを意味しない。喧嘩も対話である。反論も、皮肉も、無視さえも、相手の言葉を意識している以上、対話の関係に入っている。「そんな話は聞きたくない」という発言も、すでに相手の発言への応答である。
バフチンにとって、人間は最初から他者との関係の中にいる。
この発想が最も有名な形で現れたのが、ドストエフスキーについての研究だった。バフチンは『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』などを読み、そこに普通の小説とは少し違う特徴を見つけた。
小説を書く作者は、ふつう登場人物より強い立場にいる。登場人物が何を考え、どこで失敗し、最後にどうなるのかを作者は知っている。そのため登場人物は、作者が伝えたい思想を説明するための道具にもなりうる。
たとえば作者が「金持ちは不幸だ」という結論を最初から持っていたとする。金持ちの登場人物を傲慢に描き、最後に孤独にしてしまえば、その人物は作者の主張を証明する材料になる。登場人物は話しているように見えて、実際には作者が腹話術をしているだけである。
しかしバフチンは、ドストエフスキーの人物たちは少し違うと考えた。
彼らは作者の都合よく黙ってくれない。
ある人物が神を否定すれば、別の人物が神を信じる。ある人物が犯罪を正当化すれば、別の人物がそれを否定する。しかも、どちらか一方が単純な悪役になっているわけではない。それぞれが自分なりの論理を持ち、本気で世界について語っている。
作者自身さえ、その人物の思想を簡単には片づけられない。
バフチンは、このような小説を音楽になぞらえて「ポリフォニー」と呼んだ。ポリフォニーとは多声性という意味である。一つの旋律だけが鳴るのではなく、複数の旋律がそれぞれ独立しながら、同時に鳴っている。
重要なのは、登場人物が多ければポリフォニーになるわけではないことである。百人登場しても、全員が作者と同じ意見を話していれば、一つの声しかない。反対に数人しか出てこなくても、それぞれが作者に回収できないほど強い思想を持っていれば、多声的な作品になりうる。
ここには、バフチンの人間観そのものが現れている。
人間について「この人はこういう人だ」と決めつけた瞬間、その人を一つの説明の中へ閉じ込めることになる。しかし本人には、まだ次の言葉があるかもしれない。次の日には考えが変わるかもしれない。昨日まで臆病だった人が、明日には勇敢な行動をするかもしれない。
だから人間には、最後の言葉を与えることができない。
この考えは「未完結性」と呼ばれる。人間は生きているかぎり完成せず、他者との関係によって変化し続ける。
バフチンのこうした思想は、いきなり小説研究から生まれたわけではない。若いころの彼は、行為、責任、自己と他者といった哲学的な問題を考えていた。
たとえば、自分自身を完全に見ることができるだろうか。
鏡を使わなければ、自分の顔さえ直接見ることはできない。自分が歩いている後ろ姿も見えない。しかし他人には見える。他人から見れば、自分は一つの身体を持ち、ある場所に立ち、ある表情をしている。
反対に、自分にも相手自身には見えない相手の姿が見える。
このズレを、バフチンは大切にした。私は他人にはなれないし、他人も私にはなれない。だからこそ、自分だけでは持てない視点を互いに与えることができる。
ここから考えると「他人なんて必要ない。自分のことは自分だけで分かる」という考えは、バフチンにとってかなり怪しいものになる。むしろ他者がいるからこそ、自分自身について新しい意味が生まれるのである。
バフチン自身の思想形成も、一人だけで行われたわけではなかった。彼の周囲には、ヴォローシノフ、メドヴェージェフ、カガンなどの知識人がおり、のちに「バフチン・サークル」と呼ばれる集まりを形成した。彼らは哲学、文学、言語、宗教、社会について議論し、互いに影響し合った。
このため、バフチン周辺の著作には少し厄介な問題も残っている。ヴォローシノフ名義で刊行された『マルクス主義と言語哲学』などについて、後世には「実はバフチンが書いたのではないか」という説が広まった。しかし、誰がどこまで書いたのかについて決定的な証拠はなく、現在では単純にバフチンの著作として扱わない方がよいと考えられている。
考えてみれば、この著者問題そのものが妙にバフチン的である。
一人の天才が密室で思想を作ったのではなく、複数の人間が話し合い、相手の考えを受け取り、言い換え、また返す。そのやり取りの中から思想が生まれている。誰の言葉なのかを完全に一人へ戻すことが難しい。
バフチンは後に、小説の中には社会に存在するさまざまな言葉が入り込んでいると考えるようになる。役人の言葉、学者の言葉、商人の言葉、若者の言葉、宗教の言葉。それぞれの言葉には、それぞれの立場と世界観が染み込んでいる。
さらにラブレーを研究し、祭りや笑い、身体、食事、排泄といった、一見すると哲学とは縁遠そうなものにも注目した。祭りでは偉い人が笑われ、身分関係が逆転し、普段は神聖とされるものまで冗談の対象になる。バフチンはそこに、固定された秩序を一度壊し、世界を別の角度から見る力を見つけた。
物語の時間と空間についても考えた。道、城、町、故郷といった場所は、単なる背景ではない。道があるから旅ができ、旅をするから知らない人と出会う。閉じ込められた部屋なら、逃げられないという条件そのものが物語を生む。バフチンは、この時間と空間の結びつきを「クロノトポス」と呼んだ。
こうして見ると、対話、ポリフォニー、カーニヴァル、クロノトポスという言葉は、ばらばらな文学用語に見えて、実は同じ問題につながっている。
世界を一つの声だけで説明できるのか。
人間を一つの定義だけで決められるのか。
社会の秩序は永遠なのか。
言葉の意味を一人で決められるのか。
バフチンは、そのたびに「そう簡単ではない」と答える。
誰かが何かを言えば、別の誰かが言い返す。権威ある言葉が現れれば、それを真似したり、笑ったり、意味を変えたりする人間が現れる。一つの思想が世界を説明しようとすれば、その外側から別の声が聞こえてくる。
バフチンの思想には、世界をきれいに完成させる気がない。
むしろ、完成させてしまうことを警戒している。
世界には他人がいる。他人には自分と違う考えがある。そして相手がまだ話している途中なら、こちらが勝手に「この人はこういう人間だ」と結論を出してしまうことはできない。
だからバフチンの世界では、最後の言葉はなかなかやってこない。
誰かが「これで結論だ」と言ったところへ、どこからか別の声が聞こえてくる。
「いや、まだ話は終わっていない」
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