文学・思想の一丁目一番地

バタイユ入門 哲学入門シリーズ38

第一章 バタイユってどんな人?

ジョルジュ・バタイユ(1897–1962)は、哲学者と呼ぶにはあまりに文学的で、作家と呼ぶにはあまりに理論的で、倫理家と呼ぶにはあまりに危険だった。彼はカテゴリーの境界で息をし、禁忌の縁を歩き、社会の秩序が見えないところで支えられている〈裂け目〉に、光ではなく熱を注いだ。ひとことで言えば、世界の中心にある「無駄」を肯定するために書き、考え、身を賭した思想家である。

出自は峻厳な学究。古文書学校で中世史を修め、国立図書館の司書として生計を立てた。紙魚と埃の世界で鍛えられたのは、資料の厳密さと同時に、制度の外側へ滑っていく感覚だ。彼は信仰の揺れも経験する。若き日の敬虔から離脱し、しかし無神論で安住することも拒絶して、「神なき神学(アテオロジー)」という逆説の足場に立った。理性と信仰の二者択一を断ち切り、〈極限の体験〉だけが開く通路を探す、というわけだ。

二〇年代末、彼は前衛雑誌を舞台にシュルレアリスムと緊張関係を結ぶ。高尚な精神主義にも、安直な革命ロマンにも背を向け、泥、排泄物、腐敗、昆虫、骨といった「低いもの」を執拗に見つめた。これがのちに「卑俗物質主義」と呼ばれる姿勢である。上へ超越しようとする精神のクセに、あえて下降で対抗し、崇高の仮面を剥ぎ取る。匿名の猥雑な小説『眼球譚』に見られる過激なエロティシズムは、単なる逸脱ではない。個体の殻を割り、死へと連続する領野に触れようとする、彼の認識論の実験室だった。

三〇年代後半、〈コレージュ・ド・ソシオロジー〉では、マルセル・モースの贈与論やデュルケーム派の聖俗分析を受け継ぎつつ、共同体を結び直す「聖」の力学を再考した。そこで彼は、祝祭や犠牲、笑い、戦争といった、合理性の外にある社会のエネルギーの循環に注目する。同時期の秘密結社〈アセファル(=頭なき者)〉は、理性の王冠を下ろし、主権の新しい形を模索する暗い儀式だった。中心に“頭”を戴かない共同体の想像力は、後の政治思想にも長い影を落とす。

戦争と敗北、占領、飢えの時代に、彼は〈内的体験〉を書きはじめる。そこでは哲学は教義ではなく、呼吸や震えや沈黙の記録になる。「非‐知」という語が象徴するのは、概念が役に立たなくなる地点でなお続く、知の身振りだ。恐怖、恍惚、羞恥、断念。彼が描くのは、透明な認識主体ではなく、極限でほどけ、また結び直される生の糸である。『有罪』『ニーチェについて』が重ねられ、「アテオロジー三部作」と呼ばれる思索の塊が出来上がる。

戦後、彼は最も誤解され、そして最も影響力を持つ書物『呪われた部分』に着手する。ここで提示されるのは、近代経済学の暗黙—生産、蓄積、投資という〈限定経済〉—を外側から包む、〈一般経済〉の視界だ。太陽は利潤を期待して燃えているわけではない。世界にはつねに過剰が生まれ、その処理—蕩尽—こそが制度を動かしている。祭礼、贈与、浪費、戦争、芸術。役立たなさの奔流が、むしろ人間の「主権」を立ち上げる。手段‐目的連鎖から一瞬でも自由であること、つまり「無駄にする」権利を行使できることが、生の尊厳の証だという逆説である。

この主権の思想は、倫理にも政治にも、そして文学にも割り込む。『エロティシズム』で示されるのは、性が生殖や快楽の効率化に還元できないという事実だ。エロスは禁令を侵犯することでしか現れない。そして侵犯は禁令を無効化するのではない。むしろ禁忌に抱きすくめられたまま、瞬間的に境界を越える。「越境」の運動こそが、人間を個体の殻から連続性へと開く。そのために恥と恐怖が必要であり、死の影が必要なのだ。バタイユにとって文学は、この越境のための最も精緻な装置である。『青空』『文学と悪』における作家論は、詩や小説がいかに“悪”と結託して聖なるものを点灯させるかの分析でもある。

こうして見ると、バタイユは三つの顔を持つ。第一に、経済の外部を見抜いた理論家。第二に、宗教と聖性を世俗に取り戻した社会思想家。第三に、言語の限界を押し広げる作家。この三つは決して分業ではない。彼はいつも、考えること、書くこと、そして生きることを同時に動かそうとした。だから彼のテクストは時に論文であり、時に日記であり、時に告解であり、時に猥褻小説になる。統一を欠いているのではない。むしろ、統一が暴力であることを示すために、形式そのものを賭けているのだ。

影響の広がりは言うまでもない。デリダ、フーコー、ブランショ、クリステヴァ、ナンシー、アガンベン……二十世紀後半の理論は、ほとんど無意識に彼の語彙—越境、非‐知、主権、蕩尽—を話してきた。だがそれは引用元の権威化ではなく、彼の挑発が社会の見え方を変えたからだ。役に立たないものが世界を支える。無駄が尊厳をつくる。禁忌が人間を人間にする。これらの逆説が、今もなお私たちの倫理、政治、そして芸術の足もとを照らしている。

入門として押さえるべき核は明瞭だ。世界は「余剰」を生む機械であり、その処理としての蕩尽が共同体を組み直す。個体はエロスと死の経験によって殻を裂かれ、一時的に連続性へ開かれる。言語はこの極限に触れるために、論証と沈黙、笑いと祈り、学問と猥褻を縫い合わせる必要がある。バタイユは、そうした縫い目そのものとして生き、書いた。だから彼を読むことは、思想を“知る”より前に、思想に“触れる”ことを学ぶ訓練になる。そこでは理解よりも賭けが、知識よりも体験が優先される。その優先順位の転倒こそが、二十世紀という時代における彼の一回性であり、今日的な切実さでもある。

続きはこちらから
バタイユ入門 哲学入門シリーズ38
バタイユ入門 哲学入門シリーズ38

哲学入門シリーズ一覧に戻る
うしPのページに戻る