文学・思想の一丁目一番地

ライプニッツ入門 哲学入門シリーズ41

ライプニッツ入門 哲学入門シリーズ41
ライプニッツ入門 哲学入門シリーズ41

第一章 ライプニッツってどんな人?

 ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツは、一六四六年に生まれ、一七一六年に亡くなったドイツの哲学者である。ただし「哲学者」とだけ呼ぶと、かなり大事なところを取りこぼしてしまう。彼は数学者であり、論理学者であり、法律家であり、外交官でもあった。微積分法をニュートンとは独立に考案し、二進法を研究し、実際に機械式計算機まで作っている。それでいて頭の中では「なぜ世界はこのようになっているのか」という、途方もなく大きな問題を考え続けていた。

 こうして並べると、何にでも手を出した万能人のように見える。しかしライプニッツの場合、仕事がバラバラだったわけではない。数学をしているときも、哲学をしているときも、論理を考えているときも、その奥には似た発想がある。「複雑に見えるものを、少数の原理によって整理できないか」「対立しているものを、どちらか一方を捨てずに統一できないか」という発想である。ライプニッツという人物を理解するには、まずこの巨大な統合癖を知っておくとよい。

 哲学史では、ライプニッツはデカルト、スピノザと並んで、大陸合理論を代表する哲学者に数えられる。しかし彼は、デカルトの弟子でも、スピノザの弟子でもない。むしろ他人の哲学を読んでは「そこまではいい。しかし、その結論では困る」と考える人物だった。デカルトの新しい科学や数学を評価しながら、物体をただの延長として考えることには満足しない。スピノザの巨大な体系には刺激を受けながら、世界のすべてが必然的に決まっているという方向には抵抗する。ロックの経験論にも学びながら、人間の精神が完全な白紙から始まるという考えには反対する。

 つまりライプニッツは、哲学史のあちこちから部品を拾ってきて、それを自分なりに組み直す人だった。しかも近代哲学だけを材料にしたわけではない。アリストテレスや中世スコラ哲学の考えも捨てなかった。当時は近代科学が急速に発展しており、古い哲学はもう役に立たないと考えられやすい時代だった。それでもライプニッツは「新しいものが正しいなら、古いものを全部燃やしてしまえ」とは考えなかった。古代や中世の哲学にも、まだ救えるものがあるはずだと考えたのである。

 ここにライプニッツらしい性格がよく表れている。二つの考えが対立したとき、普通ならどちらかを選ぶ。しかし彼は、両方を残せる第三の仕組みを探そうとする。個人の自由は守りたい。しかし世界には合理的な秩序もあってほしい。世界には多様な個体が存在してほしい。しかし全体としては統一されていてほしい。経験は重要である。しかし経験だけでは数学の必然性を説明できない。この「どっちも欲しい」という少々欲張りな姿勢が、やがてモナド、予定調和、可能世界といった独特な哲学を生んでいく。ライプニッツ哲学は「個体と全体」「自由と秩序」「多様性と統一」などを両方残しながら調和させる試みだ。

 数学者としてのライプニッツも、同じ方向を向いている。微積分は、変化を扱うための強力な道具である。ある量が少しずつ変化するとき、その変化をどう表現し、どう計算するか。ライプニッツはニュートンとは独立に微積分法を発展させ、一六八四年には微分法についての論文を公刊した。現在でも使われている微分や積分の記号には、ライプニッツの系統が残っている。数学の授業で何気なく目にする記号の背後に、三百年以上前のこの人物がいるわけである。

 さらに彼は、計算そのものを機械にやらせようとした。現代では電卓に数字を入れれば、すぐ答えが出る。しかし十七世紀にそれを考えれば、かなり奇妙な発想である。面倒な計算を人間が一つずつ行うのではなく、正しい仕組みを作れば、機械が代わりに処理できるのではないか。ここにも「複雑な作業を規則へ変換する」というライプニッツらしい考えが見える。

 そして、その発想は数学だけでは終わらなかった。ライプニッツは、人間の議論そのものまで計算に変えられないかと考えた。言葉が曖昧だから、人々はいつまでも争う。それなら概念を明確な記号に置き換え、正しい推論を計算できる仕組みを作ればよい。彼はこのような「普遍記号法」を構想した。哲学者同士が議論で行き詰まったとき「もっと大声で話そう」ではなく「計算してみよう」と言える世界を夢見ていたのである。現代のコンピュータや形式論理、人工知能を知っている私たちから見ると、妙に未来的なところがある。

 ただし、ライプニッツは未来から来たコンピュータ科学者だった、と単純化するのも危険である。彼は十七世紀の人間であり、その世界観には神が中心にいる。世界に秩序があるなら、その秩序を成立させる最終的な根拠は何なのか。なぜこの宇宙が存在し、別の宇宙ではないのか。なぜ善なる神がいるのに、悪や苦痛が存在するのか。彼にとって数学、論理、神学、形而上学は、現在のように完全に別々の専門分野ではなかった。それらは全部「この世界はどういう仕組みになっているのか」という一つの巨大な問いにつながっていた。

 そのためライプニッツの哲学を読むと、急に話が大きくなる。机の上のコップに理由を求めていたと思ったら、次の瞬間には宇宙が存在する理由を考えている。人間の心について考えていたと思ったら、世界を構成する究極的な実体の話になり、そこから神が無限の可能世界の中からどの世界を選んだのかという話へ進む。普通なら何冊もの本に分けたくなるテーマを、彼は一つの体系の中へ押し込もうとする。

 ところが面白いことに、これほど巨大な体系を考えた人物なのに「これ一冊を読めばライプニッツ哲学のすべてが分かる」という主著はない。『形而上学叙説』『人間知性新論』『モナドロジー』『弁神論』などの重要な著作があるものの、思想の多くは論文、草稿、書簡へ散らばっている。『形而上学叙説』や『モナドロジー』のような重要作品さえ、生前には公刊されなかった。後世の研究者は、あちこちに残された部品を集めながら「ライプニッツ哲学」という巨大な建物を復元してきたのである。

 これは彼の人生そのものとも関係している。ライプニッツは大学の書斎だけに閉じこもって哲学していた人物ではなく、宮廷に仕え、政治や外交に関わり、各地の学者と大量の手紙を交換した。科学アカデミーの設立にも関わり、歴史研究まで行っている。現代風に言えば、一人で研究者、官僚、外交官、数学者、技術者、思想家を兼業していたような人物である。だから彼の思想も、静かな書斎で最初から最後まで一冊にまとめられるより、仕事や論争や手紙の中で少しずつ成長していった。

 そのライプニッツを一言で表すなら「世界には、ちゃんと理由があるはずだ」と考え続けた人物、と言えるかもしれない。なぜリンゴが落ちるのか。なぜ人間には意識があるのか。なぜ私は私であり、別の人ではないのか。なぜ世界には法則があるのか。そして最後には「そもそも、なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」と問い始める。

 この姿勢には、少し恐ろしいところもある。「たまたまそうなった」で止まることを、ライプニッツはなかなか許してくれないからである。何かが存在するなら、なぜそれが存在するのか。別のあり方も可能だったなら、なぜこちらが現実になったのか。その問いを繰り返していくと、いつの間にか宇宙全体を説明しなければならなくなる。

 ライプニッツ哲学の奇妙さは、ここから始まる。モナドも、予定調和も、可能世界も、最前可能世界も、突然思いついた奇抜なアイデアではない。「世界には理由があるはずだ」という要求を、途中で諦めずに最後まで押し進めた結果として現れてくる。

 では、そもそも「理由がある」とはどういうことなのだろう。出来事には原因があるというだけなら、それほど珍しい話ではない。しかしライプニッツは、もっと大胆なことを考える。出来事だけでなく、世界そのものについても「なぜそうなのか」と問えるはずだ、と考えたのである。

 次章では、ライプニッツ哲学の巨大なエンジンである「充足理由律」から、その思考の奥へ入っていく。

続きはこちらから
ライプニッツ入門 哲学入門シリーズ41
ライプニッツ入門 哲学入門シリーズ41

哲学入門シリーズ一覧に戻る
うしPのページに戻る