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和辻哲郎入門 哲学入門シリーズ58

第一章 和辻哲郎ってどんな人?

和辻哲郎(わつじ てつろう)は、日本で「倫理学」を書き直そうとした哲学者です。ただし、ここでいう倫理は、よくある道徳のマナー集でも、善人になるための心得でもありません。和辻が問うたのは、もっと根っこのところ――そもそも人間とは何で、私たちはどういう仕方で生きている存在なのか、という問いでした。その答えを、彼は「個人」だけからは出せないと考えます。人間は一人で完結しているのではなく、誰かとの関係、社会の慣習、歴史、言葉、家族、共同体といった“あいだ”の網の目の中で、はじめて人間として立ち上がる。和辻の思想は、この一点に強い芯があります。

彼の有名な言い回しに「人間は『人』と『間』から成る」という発想があります。これは語呂合わせの遊びではなく、彼にとっては哲学の中心です。私たちは「私」という一人称で生きていますが、その私の輪郭は、実は他者との関係を抜きにしては形成されません。言葉を覚えるのも、価値観を持つのも、怒りや恥を知るのも、いつだって誰かがいる世界の中です。ところが近代以降の思想は、個人を強く、自由を尊び、主体を確立する方向へ進みました。それ自体は大切な成果です。しかし一方で、個人だけを出発点にしてしまうと、人間が現実に生きている「関係の重み」や「共同性の力学」がこぼれ落ちてしまう。和辻は、その落とし物を拾い直すようにして、人間を“関係そのもの”として捉え直しました。

この関係の捉え直しは、和辻の倫理学の骨格になります。彼にとって倫理とは、個人の内面にある善意の問題ではなく、人間が「他者と共にある」ことの秩序であり、そこに生じる葛藤の形式です。たとえば、自由に生きたい私と、家族や社会の期待に応えたい私がぶつかるとき、単にどちらが正しいかという判定だけでは終わりません。そもそも私が自由を望むのも、期待に引き裂かれるのも、共同性という現実の中で生きているからです。和辻は、こうした日常の引き裂かれを、哲学の最前線に持ち込みました。倫理を高尚な説教から引きずり下ろし、私たちの生の構造として組み直した、と言っていい。

和辻哲郎を特徴づけるもう一つの柱が、『風土』で展開される視点です。風土とは、単なる天気や地理ではなく、気候、地形、生活様式、身体の感じ方、文化のかたちが絡み合った「人間の生の場」を指します。人は抽象的な主体として空中に浮かんで生きているのではなく、寒さや湿気にさらされ、食べ物や住まいの制約を受け、移動の仕方や働き方に影響されながら世界を感じ取っています。つまり人間理解には、関係(あいだがら)だけでなく、環境という条件も含めて考えねばならない。和辻はこの点で、近代的な「心の哲学」や「意識中心の哲学」から大きく踏み出し、身体と場所を伴った人間像を描こうとしました。現代でいえば、文化人類学や社会学、環境思想とも接点を作れる視野を、早い時期に持っていたとも言えます。

こうしてみると、和辻は「人間を、関係と場所から捉える人」だとまとめられます。ただし、この思想には緊張もあります。関係を重く見るほど、共同体や国家といった“全体”が強い力を持ちやすいからです。実際、和辻は戦時期の日本で、国家や共同性をめぐる言説に関わり、後世から厳しく問われる部分を残しました。ここを避けてしまうと、和辻はただの「いいことを言う哲学者」になってしまい、読み物としても思想としても薄くなります。逆に、ここだけをもって全否定してしまうと、彼の問い――個人主義の盲点、関係の現実、風土と文化の連関――から学べるものまで一緒に捨ててしまう。和辻を読むとは、この緊張を抱えたまま、どこまで引き受け、どこで距離を取り、何を現在に持ち帰るかを考えることでもあります。

和辻哲郎が今も参照され続ける理由は、私たちが生きる世界が、思った以上に「個人だけでは説明できない」からです。家族、地域、職場、ネットの空気、世間の視線、歴史の記憶、そして土地や気候の感覚。自由でありたいのに、関係から逃げきれない。関係が欲しいのに、近づくほど息苦しくなる。そうした矛盾は、弱さの証拠ではなく、人間という存在の条件です。和辻は、その条件を、きれいごとではなく理論として描こうとした。だからこそ、読み進めるほどに、自分の生活の輪郭が少しずつ言葉になっていきます。この本では、まずその地図を手に入れるところから始めたいと思います。

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