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ラブレー入門 哲学入門シリーズ65

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第一章 ラブレーってどんな人?

 フランソワ・ラブレーという人物を一言で説明しようとすると、いきなり困る。作家であり、医師であり、人文主義者であり、古典学者でもあった。しかも若いころには修道士として生活している。現代なら、小説家をしながら医者として働き、古代ギリシア語の文献を研究し、宗教について考え、その合間に下品な冗談を大量に書いていた人物、ということになる。肩書きを並べれば並べるほど、何者なのか分からなくなる人である。

 ラブレーは、一四九四年頃にフランスで生まれ、一五五三年頃に亡くなったと考えられている。生年について「頃」と付くところからして、すでに少し謎めいている。当時は現代ほど個人の記録が整備されていなかったため、生年月日を正確に特定できる人物ばかりではない。ラブレーについても細部には不明な点が残っている。しかし、その作品についてはまったく地味ではない。代表作『ガルガンチュアとパンタグリュエル』には、巨大な人間が登場し、猛烈に食べ、酒を飲み、排泄し、戦争し、勉強し、議論しながら世界を動き回る。

 主人公のガルガンチュアと、その息子パンタグリュエルは巨人である。普通の英雄より少し大きいという程度ではない。彼らが食べれば大量の食料が消え、飲めば途方もない量の酒が必要になり、身体から出るものまで巨大になる。ラブレーは、そうした荒唐無稽な出来事を、これでもかというほど膨らませて書いた。

 これだけ聞けば、ラブレーとは昔の下品なコメディ作家だったのだろうと思うかもしれない。実際、下品なのは間違いない。屁、糞、尻、酒、食欲、性欲といった題材が遠慮なく登場する。しかし、ラブレーが思想史や文学史で重要なのは、単に五百年前の読者を笑わせたからではない。その巨大な悪ふざけの中に、人間とは何か、教育とは何か、自由とは何か、権威とは何かという問題が詰め込まれているからである。

 たとえば学校を考えてみよう。偉い先生が黒板の前に立ち、生徒が難しい文章を一字一句覚えている。生徒は朝から晩まで勉強し、大量の本を暗記した。ところが、いざ自分の頭で何かを考えろと言われると、何もできない。ラブレーは、こうした教育を笑った。勉強した量と、賢くなった量は同じではない。権威ある本の文章を覚えたからといって、世界について理解したことにはならないからである。

 この発想の背景には、ルネサンスの人文主義がある。ラブレーが生きた十六世紀のヨーロッパでは、古代ギリシアやローマの文献を改めて読み直し、人間の能力をもう一度見直そうとする運動が盛んになっていた。長いあいだ権威とされてきた説明を、そのまま受け入れるのではない。原典を読み、自分の目で自然を観察し、議論し、考える。ラブレーも、その流れの中にいた。

 だからラブレーにとって、人間は命令を聞くだけの存在ではない。学ぶことができる。身体を鍛えることができる。自然を観察できる。誰かの説を疑うこともできる。そして笑うこともできる。とりわけ最後の「笑う」という能力が、ラブレーでは非常に重要になる。

 権威というものは、真面目な顔をしていると強く見える。立派な服を着た王が壇上に立ち、難しい言葉で演説していれば、何となく偉そうに感じる。難解なラテン語を大量に並べる学者も、内容が分からなければ賢そうに見える。ところが、その王の隣に巨大なガルガンチュアを立たせてみる。王が必死になって領土や名誉を語っている横で、巨人が腹を鳴らして飯を食っている。すると、さっきまで絶対的に見えていた権威が、妙に小さく見えてくる。

 ラブレーは、正面から「権威を疑え」と説教するより、権威そのものを笑える姿に変えてしまう。ここに、ラブレー独特の思想の方法がある。

 その一方で、ラブレー自身は決して無学な道化ではなかった。むしろ逆である。彼はギリシア語やラテン語を学び、古代の文献を読み、医学を本格的に修めていた。一五三二年には、古代医学を代表するヒポクラテスやガレノスの医学文献を校訂して出版している。古い写本を比較し、どの語句が正しいのかを検討するような、非常に細かな学問の世界にもいた。

 ここがラブレーの面白いところである。

 巨大な人間に大量の小便をさせる人物と、古代医学の文章を一字ずつ検討する人物が、同じ人なのである。

 しかし、この二つはそれほど矛盾していない。古代の文章を正確に読み直そうとする態度も、権威ある学者を笑う態度も「自分で確かめろ」という点ではつながっている。昔からそう言われているから正しい、偉い先生が書いたから正しい、教会が教えているから正しい、というだけでは足りない。原典を読み、身体を観察し、世界を見て、自分で考える。その精神が、学問にも小説にも流れている。

 ラブレーが医師だったことも、作品を理解するうえで重要である。彼の小説には、人間の身体が異常なほどよく出てくる。食べる、飲む、消化する、排泄する、眠る、産む。哲学では精神や魂が高尚なものとして語られ、身体は低いものとして扱われることがある。しかし医師にとって、人間はまず身体を持った生き物でもある。腹が減れば食べなければならず、食べれば消化しなければならず、最後には排泄する。王様でも学者でも、この仕組みから逃げることはできない。

 身分の高い人も低い人も、腹は減る。

 この当たり前の事実を巨大化すると、ラブレーになる。

 さらにラブレーは、宗教とも複雑な関係を持っていた。修道生活を経験しながら、後には修道士や神学者、硬直した宗教制度を猛烈に風刺している。ただし、それだけでラブレーを反宗教の人物と考えると単純すぎる。彼はキリスト教そのものを捨てようとしたというより、形式や権威ばかりが膨らんだ宗教を批判し、もっと本来の信仰や学問へ戻ろうとした人文主義者として理解できる。

 ラブレーの時代は、ヨーロッパの知的世界が大きく揺れていた時代でもある。印刷技術によって本が広まり、古代の文献が読み直され、宗教改革が社会を揺さぶり、新しい知識が次々に流れ込んでいた。古い権威がまだ強く残っている一方で「本当にこれでいいのか」と問い始める人々も現れていた。ラブレーは、その境目に立っている。

 だから彼の作品には、古い世界と新しい世界が同居している。聖書の引用が出てきたと思えば下ネタになり、医学の知識が出てきたと思えば荒唐無稽な冒険が始まり、真面目な教育論を読んでいたはずなのに突然とんでもない冗談へ脱線する。読者が「これは真面目な話なのか」と考え始めた瞬間、ラブレーは足を払ってくる。

 そのため、ラブレーを読むときには「この人の思想を一言でまとめよう」と急がない方がいい。ラブレーは哲学体系を作ったわけではない。自由について一冊、教育について一冊、政治について一冊という具合に整理してくれてはいない。それらすべてが、物語、笑い、巨人、医学知識、宗教風刺、言葉遊びの中に混ざっている。

 むしろ、その混ざり方そのものがラブレーなのである。

 真面目なことを真面目な顔だけで語る必要はない。人間を考えるなら、精神だけでなく腹や尻も考えなければならない。学問を考えるなら、本を読むだけでなく、自分で世界を見なければならない。権威について考えるなら、ときには議論するより笑ってしまった方が、その正体がよく見える。

 ラブレーは、そうしたことを巨大な物語の中で試した。

 後の時代なら、哲学者が論文を書いて説明したかもしれない。しかしラブレーは、巨人に飯を食わせ、酒を飲ませ、戦争をさせ、勉強をさせ、最後には読者まで笑いの中へ巻き込んだ。

 その意味でラブレーを「笑う人文主義者」と呼ぶと分かりやすい。人間の知性を信じながら、人間の馬鹿さも知っている。学問を愛しながら、学者を笑う。宗教について真剣に考えながら、宗教家を風刺する。人間を高く評価しながら、人間が食べて排泄する動物であることも忘れない。

 人間は偉大である。

 そして、人間はかなり馬鹿でもある。

 この二つを同時に認めたところから、ラブレーの巨大な笑いは始まっている。

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