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A・J・エイヤー入門 哲学入門シリーズ101
第一章 エイヤーってどんなひと?
A・J・エイヤーという名前を初めて聞いた人でも、彼の代表的な主張を知れば、たぶん一発でキャラが掴める。「その文章、意味ある?」――これが彼の口癖みたいなものだ。哲学者なのに、哲学の文章を読んで「それ、無意味だよね」と切り捨てにかかる。普通なら炎上案件だが、エイヤーはそれを大真面目に、しかも論理の道具を使ってやってのける。
エイヤーは二十世紀イギリスの分析哲学を代表する存在で、若くしてスターになった。二十代で書いた『言語・真理・論理』という本が、彼の名刺になる。読み味は驚くほど鋭く、勢いがある。哲学の大問題――神、魂、道徳、形而上学――そういう“深そうに見える話”を俎上に載せて、「それって経験で確かめられるの? 確かめられないなら、何を言っているの?」と次々に検査していく。哲学に対する敬意というより、むしろ検問官のような態度だ。
ただし、彼は単なる破壊者ではない。破壊の基準を持っている。エイヤーの狙いは、哲学を科学みたいにしたい、という願いに近い。もちろん哲学がそのまま実験科学になるわけじゃない。けれど少なくとも、何を言っているのか判定できない言葉遊びを減らしたい。議論が空中戦になって、互いに別のことを叫び合う地獄を終わらせたい。彼の攻撃性には、そういう“議論を成立させたい”という合理主義が芯として通っている。
エイヤーがこの立場に出会う決定打になったのが、若い頃に触れた「ウィーン学団」だ。二十世紀前半、ヨーロッパでは論理学と科学を武器に「哲学を再建しよう」とする動きがあり、彼はその中心にいた人たちの空気を吸いに行く。そこで仕入れてきた発想を、イギリスの言葉で、しかも一般読者にも届く文章にして打ち出した。それが『言語・真理・論理』だった。輸入品をただ並べたのではなく、エイヤー自身のテンポで、エイヤー自身の戦闘スタイルでまとめ直したからこそ“事件”になった。
この若さでの成功は、彼を哲学界の表舞台に引きずり出した。エイヤーは学者肌の仙人タイプではない。議論が好きで、知的な喧嘩も辞さない。敵を作ることも多いが、同時に、読者を獲得する力があった。哲学というと、遠回しで、敬語で、煙に巻く世界を想像しがちだ。しかしエイヤーは違う。文章が明快で、結論がはっきりしていて、読んでいるうちに頭の霧が晴れる感覚がある。彼の本がいまでも入門書として強い理由はここにある。
エイヤーの思想をひと言でまとめるなら、「意味のテスト」だ。ある文が“意味を持つ”ためには、どういう条件が必要なのか。彼はそれを、経験的に確かめられるかどうか、という基準で切っていく。ここで重要なのは、彼が単に「科学が偉い」と言いたいだけではない点だ。むしろ彼の関心は、「確かめる手続きが存在するか」にある。確かめる道筋が少しでも見えるなら、その文は議論できる。逆に、どう転んでも確かめられないなら、その文は“真でも偽でもない”。真偽がないものを議論しているなら、それは議論のふりをした何か別のものだ――彼はそう判定する。
この判定基準は、宗教や形而上学に突き刺さる。「神は存在する」「魂は不滅だ」「世界の本質は○○だ」みたいな主張は、たしかに壮大で、心を揺さぶる。しかしエイヤーは冷徹に尋ねる。「それを確かめるとしたら、何を観察すればいい? どんな経験があれば、その主張は正しいと言える?」もし答えが出せないなら、その主張は“情報”としては成り立っていない。意味深な音の連なりにすぎない。エイヤーが哲学史の巨人たちに平然と斬り込むのは、この一点を譲らないからだ。
彼のすごいところは、倫理の領域にも同じ刃を向けたことだ。「善い」「悪い」「正しい」「間違っている」――こういう言葉は、日常では当たり前のように使われる。でも、それは事実を報告しているのか。それとも別の働きをしているのか。エイヤーはここでも検査をする。そして彼は、倫理文は自然科学みたいな事実命題ではなく、感情や態度の表明に近いのではないか、と言う。つまり「殺人は悪い」は「殺人は嫌だ、やめろ」という、叫びや命令に似た性格を持つ。冷たいようでいて、むしろ人間をよく見ている発想だ。倫理の議論が噛み合わない理由が、そこから見えてくる。
ただ、このやり方には当然、反発も起きる。あまりに切り捨てが過激だからだ。「確かめられない話は全部無意味」なら、数学や論理学はどうなるのか。歴史や心理の一般化はどうなるのか。さらには、その“検証できるかどうか”という基準そのものは、どうやって検証するのか。エイヤーは哲学界の中心に立ちながら、同時に、永遠に反論され続ける標的にもなった。
それでも、エイヤーという人物を入門で扱う価値は落ちない。むしろ現代のほうが価値が増している。ネットでは、断言と雰囲気と勢いだけで言葉が飛び交い、「それ結局なに?」が置き去りになりがちだ。エイヤーの思考法は、そういう言説に対して強烈なフィルターになる。意味のテストをかける。確かめ方があるかを問う。議論の土俵を整える。これは単なる哲学史ではなく、知的な護身術としても効く。
そして最後に、誤解されがちな点を一つ。エイヤーは「人間の価値」まで否定したわけではない。彼が壊したかったのは、価値や感情そのものではなく、それを“事実みたいに偽装する言葉の使い方”だった。泣きたい人が泣くのは構わない。祈る人が祈るのも構わない。ただ、それを「世界の説明」として語るなら、その説明はどんなテストに耐えるのか、を問う。彼は冷酷なニヒリストというより、言葉に厳しい現実主義者だった。
エイヤーを読むと、哲学が急にスポーツみたいに見えてくる。ルールを確認し、反則を取り締まり、言い逃れを許さない。美しい文章の霧を切り裂いて、何が言えていて、何が言えていないかを仕分ける。その切れ味は、好き嫌いを超えて、一度は体験する価値がある。ここから先の章では、エイヤーが持ち込んだ“意味の検査装置”が、具体的にどれほど世界を変えてしまうのかを、順番に見ていこう。