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クワイン入門 哲学入門シリーズ111

第一章 クワインってどんな人?

ウィラード・ヴァン・オーマン・クワインは、二十世紀の分析哲学の流れを、静かに、しかし決定的に曲げた哲学者だ。派手な思想家というより、論理学者としての精密さを武器に、当時「当然」とされていた境界線をいくつも引き剥がし、哲学が拠って立つ足場そのものを組み替えてしまったタイプである。彼の名前が頻繁に登場するのは、ある学派の中だけの流行ではなく、「意味とは何か」「知識は何に支えられているか」「何が存在すると言えるのか」という根本問題に、別の地図を与えたからだ。

クワインが活躍した時代背景は重要だ。二十世紀前半から中盤にかけて、哲学の世界では「言語を明晰にし、論理で整理し、経験によって検証できる形に落とし込めば、無駄な形而上学は霧散する」という期待が強かった。いわゆる論理実証主義やそれに連なる経験主義の気分である。哲学は科学の手前で足場を固め、言葉の混乱を解きほぐし、確かな知識の構造を点検する。そういう役割が、かなり魅力的に見えていた。クワイン自身も論理に深く通じ、数学的な厳密さを愛し、哲学を“雰囲気”で語る態度には冷淡だった。だからこそ、彼が後にその期待の中核を崩していくのは、内側からの裏切りというより、内側にいた者が到達した結論に近い。

クワインの人物像を一言で言うなら「哲学を説明の道具として鍛え直した人」だろう。彼にとって哲学は、世界を理解するための巨大な理論体系と連続している。哲学が科学の外側で“上から”裁定を下すのではなく、科学と同じ地面に立ち、同じ資料を見て、同じ言語を使いながら、より一般的な見取り図を与える。これが彼の自然主義の気分であり、彼の議論の多くはこの姿勢に支えられている。哲学を特別な純粋領域として隔離せず、むしろ科学の営みの延長として置く。すると、「哲学だけの特権的な確実性」みたいなものは最初から期待できない。代わりに、より堅牢な整合性や説明力を求めることになる。

ここでクワインが有名になる入口が見えてくる。彼は、長い間頼りにされてきた区別を疑った。たとえば「分析的/総合的」という区別だ。ざっくり言えば、分析的真理とは「言葉の意味だけで真だと分かるもの」、総合的真理とは「経験によって確かめるもの」とされる。前者は論理や定義の領域、後者は事実の領域、というわけだ。もしこの区別が明確なら、哲学や数学や論理は“意味の領域”として安全な場所に置けるし、経験科学は“事実の領域”として検証のルールを与えられる。哲学の整理術が成立する。しかしクワインは、この区別を支える「同義性(同じ意味)」という概念そのものが、結局は曖昧な輪の中を回っているのではないか、と問い詰めた。定義で同義性を説明すると、その定義がまた同義性を前提してしまう。彼の批判は、相手の弱点を突くというより、相手が立っている床板を一枚ずつ抜いていくような感じがある。

さらに彼が押し出すのは、知識や信念は一つずつ孤立して検証されるのではなく、全体として世界に向き合っている、という考え方だ。のちに「信念の網」と呼ばれるイメージで語られるが、要点はこうだ。ある一文が経験と衝突したとき、捨てるべきなのはその一文とは限らない。周辺の仮定を調整してもよいし、測定の誤りを疑ってもよいし、もっと深い理論部分を改めることもある。経験は、理論の一点にまっすぐ刺さる針ではなく、網全体を揺らす風に近い。だから「この文は意味だけで真」「この文は経験だけで確かめる」といった切り分けは、実際の知の運用からすると無理が出る。クワインの批判は、哲学が自分だけの清潔な区画を持とうとする欲望を冷やす。その代わり、知識の実態に即した、より現実的な図式へと押し戻す。

クワインは同時に、存在論の語り方も変えた。「何が存在するのか」という問いは、昔から形而上学の中心だが、彼はそれを霊感や直観ではなく、理論の形式から取り出そうとした。理論が量化を通して何を要求しているか、つまり「この理論を真だと言うなら、どんなものの存在を引き受けねばならないか」を問う。これが存在論的コミットメントの発想で、哲学的な存在論を、科学や論理の言語と接続する道を開く。存在は“見えるかどうか”ではなく、“理論が要求しているかどうか”で語れる。ここにも、哲学を科学の延長線上で鍛え直すクワインの癖が出ている。

そしてもう一つ、彼の名を決定的にしたテーマが「翻訳の不確定性」だ。私たちは他者の言葉を理解し、辞書を作り、意味を固定できると思いがちだが、クワインは、観察できる事実だけから“唯一の正しい翻訳”を決めることはできない、と主張する。行動や状況から合理的に整合する翻訳の仕方が複数あり得て、そのどれを採用するかは、追加の選好や理論的な都合に依存してしまう。ここでも彼は「意味」を、内側に隠れた確定的な実体として扱う誘惑に抵抗する。意味は、共同体の中での運用、観察可能な反応、理論全体の構造の中で捉え直される。言語は透明な窓ではなく、理論の一部であり、世界への接触の仕方そのものだという感覚が立ち上がってくる。

こうして見ると、クワインは破壊者に見えるかもしれない。分析/総合を疑い、意味の確定を疑い、哲学の特権を疑う。しかし、彼が壊したかったのは哲学そのものではない。むしろ彼は、哲学が現実の知の営みと繋がり続けるための“作り替え”を狙っていた。清潔で閉じた体系よりも、多少泥臭くても、実際に説明し、予測し、修正されうる体系のほうが強い。その強さを、哲学の側にも持ち込みたかったのだろう。クワイン入門を読むということは、哲学を「特別な裁判官」から「同じ現場で働く設計者」へと役割変更する経験でもある。次章からは、彼が挑んだ相手――論理実証主義や経験主義の夢――がどんなものだったのかを押さえ、その上で、クワインがどこに楔を打ち込んだのかを、ゆっくり具体的に見ていこう。

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