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クリプキ入門 哲学入門シリーズ112

第1章 クリプキってどんな人?

ソール・A・クリプキという名前は、二十世紀後半の分析哲学において、少し不思議な響きをもっている。派手なマニフェストを掲げて学派を作ったわけでも、膨大な著作を積み上げて体系を完成させたわけでもない。それなのに、論理学者・言語哲学者・形而上学者のあいだで、彼の仕事は「この地点以後、景色が変わった」と言われるほどの転回点として語られる。クリプキは、哲学がときどき忘れたふりをする素朴な問い――名前はどうやって世界のものを指すのか、必然とは何か、同じであるとはどういうことか――を、厳密さと大胆さの両方で取り戻した人物だった。

生年は一九四〇年。若いころから「天才少年」として逸話が残るタイプで、十代のうちに様相論理について独創的な結果を出し、論理学の専門家たちの注目を集めた。ここで言う様相論理とは、「必然」「可能」といった語を、ただの詩的表現や心理描写としてではなく、推論の規則をもつ論理として扱う試みである。ふつうの論理が「PならばQ」「PかつQ」といった形を扱うのに対して、様相論理は「必然的にP」「可能的にP」といった層を加える。こう書くと小難しいが、日常の思考はこれに満ちている。「たまたまそうだった」のか「そうでなければならない」のかを区別しながら、人は世界を理解している。クリプキはその直感を、数学のように扱える形へと整備し、しかも哲学の中心へ戻してしまった。

彼の名を最初に広めたのは、いわゆる「クリプキ意味論」と呼ばれる枠組みだ。様相論理が長く抱えていた問題は、記号の操作としては整って見えても、それが何を意味しているのかが見えにくいことだった。「必然」や「可能」を入れた途端、論理は便利になるが、便利さの根拠が曖昧になりやすい。クリプキはここで、世界を一つだけ前提するのではなく、ありえたかもしれない複数の状況を並べ、そこを行き来する関係を考えるという発想を導入する。後に「可能世界」と呼ばれるこの見取り図は、異世界を実在させる空想ではなく、言明がどの条件で成り立つかを整理するための道具だ。道具が整うと、様相論理は単なる技巧ではなく、意味と結びついた理論になる。彼の仕事が画期的なのは、抽象的な論理と、人間が言葉で世界を語るという営みを、一つの設計図の上で接続した点にある。

しかし、一般の哲学読者にとってクリプキを決定的にしたのは、論文の山ではなく、講義から生まれた一冊の本だろう。のちに『名指しと必然性』としてまとめられる講義は、一九七〇年前後に行われた。ここで彼は、固有名の意味についての素朴な見方を、真正面から揺さぶった。たとえば「アリストテレス」という名前は、「プラトンの弟子でアレクサンドロスの師である人物」という説明の束として理解できるのではないか。そう考えると、名前はある記述を短く言い換えただけだ、と言えそうになる。だがクリプキは、そう単純にはいかないと言う。もしその人物が弟子でも師でもなかったら、私たちは「アリストテレス」という名で別の誰かを指すことになるのだろうか。直感的には、そうではない。名前は、いくつかの性質の束を介して対象に届くのではなく、対象そのものを固定して指し続ける働きをもつ。ここから「固定指示子」という有名な概念が出てくる。

この一撃が重要なのは、言語の理論がそのまま世界の姿へ踏み込んでいくからだ。名前が対象を固定して指すのだとすると、「同じものを指している」ことの条件が変わる。そしてその条件が変わると、必然と偶然の境界もまた変わる。クリプキは、経験によって知るのに必然的であるというタイプの真理がありうると主張した。たとえば「水はH₂Oである」という同一性がそれだ。水であるための本質がH₂Oであるなら、その同一性は偶然ではない。しかし、そのことを人類が知ったのは化学の経験的探究によってである。つまり「必然的だが後天的に知られる」真理が出現する。逆に、ある種の定義や指示の仕方によって「先験的に知れるが偶然的である」真理も生まれる。こうした区別は、カント以来の図式に静かな爆薬を仕込む。知り方の区別と、成り立ち方の区別を分けて考えよ、というわけだ。

クリプキの人物像をさらに面白くしているのは、彼がいわゆる「形而上学の復権」に一役買った点である。二十世紀前半の分析哲学は、しばしば形而上学を胡散臭いものとして退けた。世界の本質や必然的構造を語るより、言語の用法や検証可能性を重視する潮流が強かった。しかしクリプキは、論理と言語の分析を徹底することで、むしろ本質や必然性について語る道を開いた。個体の同一性、起源の必然性、自然種の本質といったテーマが、単なる思弁ではなく、論理的に扱いうる問いとして蘇る。彼は形而上学者になろうとして論理を使ったのではない。論理と言語を真面目に扱った結果、形而上学が逃げ場を失って戻ってきた、と言った方が近い。

もう一つ、クリプキを語るなら外せないのが、ウィトゲンシュタイン解釈をめぐる議論である。規則に従うとは何か、意味とは何かという問いに対して、懐疑論的なパラドックスを提示し、それに対する「解決」を論じたこの仕事は、賛否を呼びつつも、意味の問題を共同体や実践へ結びつける議論として影響を残した。ここでも彼は、単に「解釈は自由だ」と言うのではない。私たちが言葉を使い、他者と歩調を合わせ、誤りと訂正を繰り返す、その生活の地面を掘り当てる。論理の高層ビルと、日常の土の匂いが、同じ地下水脈でつながっていることを示すのが彼の持ち味だった。

さらに言えば、彼の議論の進め方は、当時の「厳密さ=形式化」というイメージを少し裏切る。もちろん形式的な結果は一級だが、彼が決定的な場面で頼りにするのは、奇抜な思考実験ではなく、誰もが共有しているはずの言語直感である。「この場合、ほんとうにその人のことを指していると言えるか」「もし違っていたら、私たちは訂正するのか、それとも別のものを指すのか」。その問いは素朴で、ほとんど会話のように進む。にもかかわらず、問いを一つ置き換えるだけで、従来の理論が動けなくなるように仕向ける。直感を甘やかすのではなく、直感を試験台に乗せ、耐えられる形へと理論を鍛える。その態度が、哲学者だけでなく、言語学や認知科学、さらには計算機科学の一部にまで波及したのは偶然ではない。

こうして見ると、クリプキは「論理学の天才」と「哲学の転回点」を同時に体現している。だが、その力の本質は、難解な記号を操る技巧だけではない。彼の文章や講義には、妙に率直なところがある。ありふれた例を丁寧にいじり、読者が当然だと思っていた直感をずらし、ずれた先で世界の輪郭を描き直す。その過程で、哲学がしばしば恐れてきた問い――必然性、本質、同一性――が、もう一度、問いとして呼吸を始める。クリプキとは、分析哲学が「言語の整理」にとどまらず、「世界について何が言えるか」へ踏み込むための扉を開けた人であり、その扉の蝶番を、論理という硬い素材で作り直した人なのである。いまクリプキを「入門」として読む意味は、彼の結論を暗記することより、問いの置き方を学ぶことにある。名前と必然性から始めて、世界の骨格に触れる。その跳躍こそが、彼の残した技法だ。

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