うしPのサイト
文学・思想の一丁目一番地
ソシュール入門 哲学入門シリーズ116
第一章 ソシュールってどんな人?
フェルディナン・ド・ソシュールは、十九世紀の終わりから二十世紀の初めにかけて活躍したスイスの言語学者である。彼の名前は、哲学や人文学を学ぶ人にとってしばしば「構造主義の出発点」として登場する。しかし、ソシュール自身は哲学者というよりも、言語を科学的に理解しようとした研究者だった。彼が考えたことは一見すると単純である。「言語とは何か」という問いを、改めて真正面から考えようとしたのである。だがこの問いは、二十世紀の思想全体を揺るがすほど大きな影響を持つことになった。
ソシュールは一八五七年、スイスのジュネーヴに生まれた。彼の家族は学者の家系であり、自然科学や学問に囲まれた環境で育った。若いころから言語に強い興味を持ち、特にインド・ヨーロッパ語族の研究に熱中した。当時のヨーロッパでは、言語の研究は主に「歴史」を中心に行われていた。つまり、ある言語がどのように変化してきたのかを調べる学問である。例えばラテン語からフランス語やスペイン語がどのように生まれたのか、古い言語がどのように変化して現代の言語になったのか、そうした変化の過程を追う研究が主流だった。
若いソシュールはこの分野で驚くほど優れた才能を見せた。まだ二十歳そこそこで書いた研究は、言語学者たちの間で大きな注目を集めたと言われている。彼はパリでも研究を行い、当時の言語学界ではすでに有名な存在になっていた。しかし、ソシュールは次第にある疑問を抱くようになる。言語の歴史ばかり研究していて、本当に言語そのものを理解したことになるのだろうか、という疑問である。
例えば、日本語という言語を考えてみよう。「犬」という言葉がある。英語ではdog、フランス語ではchienと言う。ここで普通の言語学者は、これらの言葉がどのような歴史をたどって生まれたのかを研究する。しかしソシュールは、もっと根本的な疑問を抱いた。なぜ「犬」は犬なのだろうか。なぜその音がその意味を表しているのだろうか。なぜdogではなく「犬」なのか。なぜchienでもないのか。こうした問いは、これまでの言語学ではあまり真剣に考えられてこなかった問題だった。
ソシュールは、この問題を考えるためには、言語をまったく違う角度から見る必要があると考えた。言語とは単なる単語の集まりではない。言語とは一つの体系であり、ネットワークのように互いに関係しあっている構造だというのである。この発想は、当時としてはかなり新しいものだった。
たとえば、チェスのゲームを想像してみると分かりやすい。チェスの駒にはそれぞれ役割がある。キング、クイーン、ビショップ、ナイト、ルーク、ポーンなどの駒は、それぞれ違う動きをする。しかし、その意味は駒そのものにあるわけではない。チェスのルールの中で、他の駒との関係の中で意味が決まる。もしルールが変われば、同じ形の駒でも全く違う役割を持つことになるだろう。ソシュールは、言語もこれと似ていると考えた。言葉の意味は、単語そのものの中にあるのではなく、言語という体系の中で決まるのではないかというのである。
この考え方は、後に言語学だけでなく哲学や人文学にも大きな影響を与えることになる。しかしソシュール自身は、生前にほとんど本を出版しなかった。彼はジュネーヴ大学で講義を行っていたが、自分の理論を本としてまとめることはほとんどなかったのである。そのため、彼の思想は長いあいだ断片的にしか知られていなかった。
転機となったのは、ソシュールが亡くなった後である。一九一三年に彼が亡くなると、彼の弟子たちが講義ノートを集め、それを一冊の本にまとめた。それが『一般言語学講義』という本である。この本はソシュール自身が書いたものではなく、学生たちのノートをもとに編集されたものだった。しかし、その内容は非常に革新的であり、言語学の世界に大きな衝撃を与えた。
『一般言語学講義』の中でソシュールは、言語を「記号の体系」として理解する方法を提示した。言語はただの音ではなく、意味と結びついた記号であり、それらが互いに関係しあって一つの構造を作っているというのである。この考え方は、従来の言語学とはまったく違う視点だった。それまでの研究が「言語の歴史」を中心にしていたのに対し、ソシュールは「言語の構造」を見ることの重要性を強調したのである。
この視点は、やがて構造主義と呼ばれる思想へとつながっていく。二十世紀の思想には、文化や社会を「構造」として理解しようとする流れが生まれる。人間の神話や文化、心理や社会制度までもが、ある種の構造として分析できるのではないかという考え方である。その出発点の一つが、ソシュールの言語理論だった。
例えば、ある文化の神話を考えるとき、それぞれの物語は単独で存在しているように見える。しかし構造主義の研究者は、それらの神話が互いに関係し合い、一つの体系を作っていると考える。善と悪、自然と文化、男と女などの対立関係が、物語の中でどのように組み合わされているのかを分析するのである。このような発想の背後には、言語を体系として理解したソシュールの考え方がある。
つまりソシュールは、単に言語を研究しただけの学者ではなかった。彼は、人間の思考や文化を理解するための新しい方法を提示した人物でもある。言語を構造として見るという発想は、その後の哲学、文学研究、人類学、精神分析など多くの分野に影響を与えた。ロラン・バルト、レヴィ=ストロース、ラカン、デリダなど、二十世紀の重要な思想家たちは多かれ少なかれソシュールの影響を受けている。
こうして見ると、ソシュールは一見すると地味な言語学者のようでありながら、実際には現代思想の基礎を作った人物の一人だったと言えるだろう。彼が問いかけた「言語とは何か」という問題は、単なる言語の問題にとどまらず、人間が世界をどのように理解しているのかという根本的な問題へとつながっていくのである。