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ギルバート・ライル入門 哲学入門シリーズ121

第一章 ギルバート・ライルってどんな人?

 ギルバート・ライルは、二十世紀のイギリス哲学を語るとき、どうしても外せない名前のひとつである。けれども、哲学者としての知名度のわりに、一般向けの本では少しとっつきにくい人物として扱われがちでもある。ニーチェやサルトルのように強い生き方のイメージが先に立つわけでもない。デカルトやカントのように、教科書でまず名前を覚えるタイプでもない。そのかわりライルは、哲学の中で長く当然のように使われてきた考え方に対して、そこにそもそも勘違いがあるのではないか、と冷静に刃を入れた人だった。

 ライルは一九〇〇年に生まれ、一九七六年に亡くなった。活動の中心はイギリスのオックスフォードである。オックスフォードは、ただ古い大学町というだけではない。二十世紀の分析哲学が厚みを持って育った場所でもあり、言葉の意味や概念の使い方を細かく吟味する哲学の空気が濃かった。ライルはその空気のただ中にいて、議論の最前線を歩いた。彼は大学で教え、学術雑誌を編集し、同時代の哲学者たちに強い影響を与えた。つまり一冊の本を書いて終わった人ではなく、時代の哲学の交通整理を引き受けた人でもあった。

 ライルの名前を有名にした本は、一九四九年に出た『心の概念』である。この本で彼は、人間の心を身体の中に宿る別の実体のように考える見方を批判した。その批判は、ただ勢いよく否定しただけではない。相手の考え方がどこで魅力的に見え、どこで間違いに滑り込んでいるのかを、言葉の使い方のレベルから解きほぐしていく。ここにライルの哲学者としての癖がよく出ている。大きな結論を叫ぶより、まず言葉の置き方を疑う。問題に飛びつくより、その問題の立て方にねじれがないかを点検する。そういう哲学者だった。

 ライルを理解するうえで大切なのは、彼が「心なんて存在しない」と乱暴に言った人ではない、ということである。そういうふうに読まれることはあるが、それでは浅い。彼が疑ったのは、心を「机」や「石」のようなものとして扱う癖だった。人が怒る、信じる、期待する、理解する、決心するといったとき、そこに本当に見えない物体のようなものを想定しなければならないのか。ライルはそう問うた。心を語る言葉は、何か隠れた中身の名前ではなく、人のふるまい、能力、傾向、状況へのかかわり方を表しているのではないか。彼はこの方向から、心の哲学を組み替えようとした。

 ライルの有名な言葉に「機械の中の幽霊」がある。これは、人間の身体を機械のようなものとみなし、その中にさらに心という幽霊のような実体が住んでいて身体を操っている、と考える図式を皮肉った表現である。なぜこの比喩が強いのかといえば、私たちがふだん案外この図式で物事を考えてしまうからだ。たとえば、ある人が急に黙りこんだとする。すると、外から見える身体とは別に、その人の「本当の中身」が奥で何かをしているような気がしてくる。もちろん、そう感じること自体は自然だ。だがライルは、そこからすぐに「見えない何か」を実体化してしまうと、かえって混乱が増えると考えた。

 彼の哲学を象徴するもうひとつの言葉が「カテゴリー錯誤」である。これは、種類の違うものを同じ並びで扱ってしまう誤りのことだ。たとえば、ある人が大学を見学し、図書館や講義室や寮や食堂を見たあとで、「それで大学そのものはどこにあるのですか」と聞いたとする。この人は、図書館や講義室と同じ種類のものとして「大学」を探している。けれども大学とは、そうした建物の横にもう一つ置かれている追加の建物ではない。この勘違いがカテゴリー錯誤である。ライルによれば、心を身体と並ぶ別のものとして探してしまうのも、これに似た誤りだった。

 ここでライルという人の面白さが出てくる。彼は、哲学の難問に対して超越的な答えを持ってくるのではなく、「その問い方で本当に合っているのか」と立ち止まらせる。多くの人は、哲学とは深遠な答えを与える学問だと思いがちである。だがライルは、答えの前に問いの整理がいると言う。むしろ、問いの作り方を間違えると、どれほど立派な答えも全部ずれてしまう。彼の仕事は、派手な建築というより、地盤の狂いを見つける仕事に近い。

 ライルの文章は、哲学者の中では比較的たとえが多く、皮肉もある。乾いたユーモアをまじえながら、相手の考え方の妙なところを浮かび上がらせる。だから一見すると常識的に見えるが、読んでいくと足元の見取り図が少しずつ変わっていく。自分が当たり前だと思っていた区別や説明が、実はずいぶん怪しかったと分かってくる。そういう読み味がある。

 また、ライルは知識について考えた哲学者としても重要である。人は何かを「知っている」とはどういうことなのか。この問いに対して彼は、単に言葉で説明できることだけが知識ではないと考えた。自転車の乗り方を知っている人は、その仕組みを本で説明できなくても、ちゃんと曲がり、止まり、転ばずに走れる。この「できること」は、単なる暗記とは違う。ライルは、こうした実践的な知を重視した。哲学者というと頭の中だけで生きているように見えるが、ライルはむしろ、知性が行為の中でどう働くかに敏感だった。

 この点でも、彼は現代に近い。人工知能の時代になると、ますます「知っている」と「できる」の関係が問題になる。膨大な情報を出せるものは、本当に理解しているのか。上手に振る舞えるものは、何を知っているのか。こうした問いを考えるとき、ライルの議論は急に古びなくなる。むしろ、心や知性を物のように捉えたくなる私たちの癖が、今でもそのまま続いていることに気づかされる。

 とはいえ、ライルは万能の哲学者ではない。感覚や意識や内面経験について、彼の説明は少しそっけないと思われることもある。後の哲学者たちは、ライルの議論を受け継ぎながらも、その限界を指摘してきた。だがそれでも、議論の出発点を大きく変えた功績は揺るがない。心とは見えないものの倉庫なのか。それとも、人の生きたふるまいの中で理解すべきものなのか。この問いを新しい形で立て直したところに、ライルの強さがある。

 ライルを読む意味は、単に昔の学説を知ることではない。私たち自身が、どのような言葉の使い方の癖に支配されているかを知ることでもある。心、知識、理解、意図、感情。こうした言葉は、あまりにも身近だからこそ、かえって雑に扱ってしまう。ライルは、その雑さの中に哲学の混乱の源を見た。そう考えると彼は、抽象的な議論の人でありながら、同時にかなり実務的な哲学者でもある。問題を増やすより減らす。霧を濃くするより晴らす。その仕事に徹した人だった。

 ギルバート・ライルとは、心について語るときの地図を描き直した哲学者である。目に見えないものを大げさに祀り上げるのではなく、私たちが実際にどんな場面でどんな言葉を使い、どんな区別をしているのかを確かめながら、哲学の迷路を整理していった。その作業は地味に見える。だが、地図が狂えば旅全体が狂う。ライルはそのことをよく知っていた。だから彼の哲学は、静かだが、足場そのものに触れてくる。そこに今なお読む価値がある。

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