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ギュスターヴ・ル・ボン入門 哲学入門シリーズ132

第一章 ギュスターヴ・ル・ボンってどんな人?

 ギュスターヴ・ル・ボンは、一八四一年にフランスのノジャン=ル=ロトルーで生まれ、一九三一年にマルヌ=ラ=コケットで亡くなった思想家である。一般には『群衆心理』の著者として知られるが、出発点は医師であり、その後に人類学、考古学、社会心理学、文明論へと関心を広げていった。つまり彼は、最初から「群衆の専門家」として現れたのではなく、人間とは何か、社会は何で動くのか、文明はなぜ栄え、なぜ揺らぐのかを、長い時間をかけて考え続けた人だった。

 この人を理解するときに大事なのは、ル・ボンが一つの学問分野にきれいに収まる人物ではないという点である。パリで医学博士号を得たあと、ヨーロッパ、北アフリカ、アジアを旅し、観察したことを書き残し、やがて自然科学や人間集団の研究へと進んでいった。旅の経験がそのまま思想になったと言い切ることはできないが、書斎の中だけで社会を論じた人ではなく、各地の風俗や文明の違いを見ながら、人間集団のふるまいを比較しようとした人だとは言える。こうした経歴があるため、彼の本には、学者らしい体系化への欲望と、観察者らしい好奇心が同時ににじんでいる。

 ル・ボンが生きた時代は、フランス革命後の激動がまだ記憶に残り、産業化と都市化が進み、新聞や世論の力が急速に強くなっていく時代だった。昔のように王や貴族だけが政治を動かすのではなく、街頭に集まる人びと、選挙でまとまる有権者、熱狂する読者や観客が、社会を左右するようになっていた。ル・ボンは、まさにこの変化を前にして、近代社会は「群衆の時代」に入ったのだと感じていたらしい。だから彼の関心は、個人の美徳や理性だけでなく、集団になると人間がどう変わるのかへ向かった。そこに彼の思想の入口がある。

 彼の名を決定的に有名にしたのは、一八九五年の『群衆心理』である。この本でル・ボンは、群衆の中では個人の意識的な人格が沈み込み、かわりに集合的な心が前に出ると論じた。個々では慎重で理性的に見える人でも、集団の熱気の中では、衝動的になり、感情的になり、単純な言葉や強い印象に動かされやすくなる。たとえば普段は穏やかな人でも、怒号が飛び交う集会や、興奮した観客席の中では、ひとりでいる時とはまるで違う判断をしてしまうことがある。ル・ボンは、そうした変化を偶然ではなく、群衆に固有の心理法則として捉えようとした。

 ただし、ル・ボンを『群衆心理』だけで見ると、少し小さく見積もりすぎることになる。彼はその前年に『諸民族の進化の心理法則』を出しており、そこでは歴史を動かすのは純粋な知性よりも、感情や信念、長い時間をかけて形成された国民的、民族的な性格だと考えていた。制度や法律は表面を変えるが、人びとの深い習慣や感情の層は簡単には変わらない。彼が群衆を論じたのも、単発の事件に興味を持ったからではなく、文明や国家の土台には理性よりもっと深いものがある、と見ていたからである。群衆論は、彼の文明論の一部として読むと輪郭がはっきりする。

 このように見ると、ル・ボンはきわめて近代的な問題を、きわめて不安げな目で見た人だったと言える。彼は進歩という言葉を簡単には信じず、社会が大衆化するほど、理性的な議論よりも感情、印象、暗示が強くなるのではないかと考えた。そして真の進歩は、いつでも多数者からではなく、知的な少数者から始まるとみなした。ここには、民主主義への強い警戒と、エリートへの期待がある。ル・ボンは大衆社会を観察しただけでなく、その力を恐れ、その不安を理論の形にした思想家でもあった。

 もっとも、ル・ボンをそのまま肯定的に読むことはできない。彼は人種や民族に序列を設け、男女にも上下を見いだそうとし、現代の視点から見れば明らかに問題のある偏見を含んでいた。群衆を非理性的で知的に弱いものとして描く姿勢も、後の研究から見れば単純化が強すぎる。しかも彼は、自分の時代に広く流通していた進化論的な序列観を、かなり無批判に取り込んでいた。だからル・ボンは、鋭い観察者であると同時に、十九世紀末の限界を深く背負った人物でもある。この二面性を外してしまうと、入門としては危うい。

 それでもなお、ル・ボンの名が残り続けているのは、彼が近代社会の弱点を早い段階で言い当てたからだろう。人は集団の中で変わること、感情は理屈より速く広がること、強い言葉や単純な標語が人を動かすこと、そうした点のいくつかは今でも驚くほど生々しい。選挙演説でも、扇動的な動画でも、熱狂する市場でも、人は事実の積み上げだけで動くわけではない。ル・ボンはこの事実を、好意ではなく恐れから見つめた。だから彼は、希望の思想家というより、近代の危険を嗅ぎ取った警戒の思想家である。第一章でまず掴むべき人物像は、まさにそこにある。

 ギュスターヴ・ル・ボンとは、医師出身の教養人であり、旅する観察者であり、文明の盛衰を考える理論家であり、そして何より、大衆社会の到来に強い不安を抱いた思想家だった。『群衆心理』の著者という肩書きだけでは、この人の全体像は見えない。彼は、人間は理性的な存在だという近代の自画像に対して、いや、人間は集団になると別の顔を見せるのだと突きつけた。その問いかけは偏見を含みつつも、いまなお消えていない。ル・ボンとは、近代が自分自身を恐れ始めた時代に、その恐れを最もはっきり言葉にした人のひとりなのである。

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