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ユークリッド入門 哲学入門シリーズ133

第一章 ユークリッドってどんな人?

 ユークリッドは、古代ギリシア世界を代表する数学者として知られている。しかし、その生涯は意外なほど謎に包まれている。一般には紀元前三〇〇年ごろ、エジプトのアレクサンドリアで活動した人物だと考えられているが、いつ生まれ、どこで学び、どのような日々を送ったのかは、はっきりしない。ソクラテスやプラトンのように、弟子たちが語り継いだ印象的な逸話が豊富に残っているわけでもない。にもかかわらず、彼の名前は二千年以上にわたって消えなかった。これは一人の人間の個性が強烈だったからというより、彼が作った知のかたちが、あまりにも強力だったからである。

 ユークリッドの名を不朽にしたのは、『原論』という書物である。これは単なる数学の本ではない。点とは何か、線とは何か、どのような前提から出発し、どの順序で話を積み重ねれば、誰もが同じ結論にたどり着けるのか。その道筋を、きわめて厳密に示した本である。たとえば三角形の性質を語るとき、いきなり結論だけを出すのではない。まず定義を置き、公準を示し、そこから一歩ずつ証明を重ねていく。言い換えれば、『原論』は図形の本であると同時に、考えることそのものの本でもある。ユークリッドは、数学の答えを残しただけではなく、答えへ至る道の作り方を残したのである。

 ここで大事なのは、ユークリッドが無からすべてを発明したわけではないという点である。彼以前にも、ギリシア世界には多くの数学者がいた。ピタゴラス派は数と形の関係を考え、エウドクソスは比例論を洗練させ、テアイテトスは無理量や立体に関わる重要な問題を深めた。ユークリッドの偉さは、そうした先人たちの成果を集め、整理し、だれでもたどれる秩序の中に組み直したところにある。山のように積まれた知識を、そのまま並べるのではなく、一つの大きな建築物として組み立て直したのである。この意味でユークリッドは、孤独な天才というより、知を編成する偉大な設計者だったと言ったほうが近い。

 アレクサンドリアという都市も、ユークリッドを理解するうえで欠かせない。アレクサンドロス大王の死後、この都市はヘレニズム世界の大知識都市となった。そこには巨大な図書館があり、多くの学者が集まり、各地の知識が持ち込まれていた。いわば当時の世界でもっとも知的な熱気の濃い場所の一つである。その中でユークリッドは、数学を教え、研究し、知の体系化に取り組んだと考えられる。後代には、王が幾何学をもっと楽に学ぶ道はないかと尋ねたところ、ユークリッドが「幾何学に王道なし」と答えたという有名な逸話も伝えられた。事実かどうかは断定できないが、この話が長く語られたこと自体、彼が近道を許さない厳密な教師として想像されていたことを示している。

 この「王道なし」というイメージは、ユークリッドの本質をよく表している。たとえば、ある図形を見て「たぶんこうだろう」と思うことはできる。紙に描いた正方形の対角線を見れば、なんとなく左右対称に見えるし、三角形の内角を合わせれば一八〇度になりそうだと感じる。しかしユークリッドは、その「なんとなく」で止まらない。見た目ではなく、なぜそう言えるのかを問う。図を見た印象ではなく、前提から結論へ至る道を確立する。これは数学だけの態度ではない。人は日常でも、見た感じや雰囲気で判断しがちである。だがユークリッドは、感じることと知ることは違うのだと、静かに教えている。

 だからユークリッドは、哲学にとっても重要な人物になる。哲学もまた、何が正しいのか、何を前提にすべきか、どこまでを確実と言えるのかを問う学問だからである。プラトン以来、ギリシア世界では数学は単なる実用技術ではなく、理性を鍛える学問として高く評価された。ユークリッドの仕事は、その理想をもっとも見事なかたちで示した。事実、近代になるとスピノザは『エチカ』を幾何学的な順序で書こうとし、多くの思想家が、明晰な知識のモデルとして幾何学に憧れた。ユークリッドは哲学者ではないが、哲学が夢見た理性の形式を、もっとも鮮やかに実現した人物の一人だったのである。

 もっとも、現代の目で見ると、ユークリッドの世界は絶対ではない。彼の『原論』は長く完全な真理の書と思われてきたが、後には平行線をめぐる第五公準が大きな問題となり、十九世紀には非ユークリッド幾何学が生まれた。そこでは、ユークリッド的な空間だけが唯一の空間ではないことが明らかになる。だが、ここでユークリッドの価値が失われたわけではない。むしろ逆である。どこに前提があり、どこで体系が分かれるのかを、あれほどはっきり示したからこそ、後代の数学者たちは別の幾何学へ進むことができた。土台が強固だったからこそ、その土台を疑うこともできたのである。

 このことは、ユークリッドを単なる昔の教科書の著者として読むべきではないことを意味している。彼は、古代の知識を整理しただけの人ではない。ものごとを定義し、少数の前提を置き、そこから大きな世界を構築していくという方法そのものを、後代へ引き渡した人である。たとえば家を建てるとき、立派な屋根や美しい窓ばかり見ていても、基礎が曖昧なら建物は崩れる。ユークリッドは、知識にも同じことが言えると示した。まず基礎を定めること。次に、そこから崩れない順序で積み上げること。その思想は、数学を越えて、科学、論理学、哲学の深部にまで染み込んでいった。

 ユークリッドとは何者だったのか。伝記的には、謎の多い古代の数学者である。だが知の歴史の中では、真理を積み上げる形式を決定的に示した人物である。彼の顔は見えにくい。性格も、感情も、生活も、ほとんど分からない。しかし、彼が作った秩序は見える。一本の線、ひとつの三角形、ひとつの証明の中に、思いつきではなく、理性によって世界を把握しようとする意志が刻まれている。ユークリッドという名は、一人の人間の記念碑である以上に、考えるとはどういうことかを示した記念碑なのである。

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