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ゼノン入門 哲学入門シリーズ134

第一章 ゼノンってどんな人?

 ゼノンは、古代ギリシアの哲学者である。生きた時代は紀元前五世紀ごろとされ、南イタリアのエレアという都市に属していた。このため、ふつうは「エレアのゼノン」と呼ばれる。哲学史では、奇妙な逆説を作った人物として有名だ。アキレスは亀に追いつけない、飛んでいる矢は本当は止まっている、そんな話を聞くと、何か人を煙に巻く遊びのようにも見える。だが、ゼノンは単なるへそ曲がりではない。彼は、世界をどう考えれば矛盾なく理解できるのかを、きわめて真剣に問いつめた思想家だった。

 ゼノンを理解するうえで大切なのは、彼を一人だけで切り離して見ないことだ。彼はエレア派と呼ばれる思想の流れに属しており、その中心にはパルメニデスがいた。パルメニデスは、あるものはある、ないものはない、という強い言い方で知られている。この考えは一見すると当たり前に見えるが、そこから先が激しい。もし本当にそうなら、ものが生まれることも消えることも、どこかから別の場所へ移ることも、簡単には認められなくなる。なぜなら、変化や移動を考えるときには、いまあるものがなかった状態や、いまここにあるものがあそこにない状態を想定しなければならないからである。ゼノンは、この師の立場を守るために、常識の側を逆に追いつめる議論を作った。

 そのため、ゼノンは自分ひとりの独創だけで立っているというより、師の思想を防衛するための鋭い刃として登場する。たとえば、多くの人は世界にはたくさんの物があり、人は歩き、馬は走り、船は進むと思っている。ゼノンは、その常識を正面から否定するのではなく、むしろ相手の考えをいったん受け入れる。では、本当に運動があるとしよう。本当に多くのものがあるとしよう。そうすると、そこから不思議な矛盾が出てこないか。彼はそう問いかける。この進め方が、ゼノンの怖さであり面白さでもある。結論を押しつけるのではなく、相手が当然だと思っていた前提の中から、破綻を引きずり出してしまうからだ。

 この方法のせいで、ゼノンは後の時代に弁証法の先駆者として語られることがある。弁証法というと難しく見えるが、ここでは相手の主張をよく見つめ、その主張が自分で自分を壊してしまうところまで導く技法、と考えてよい。たとえば、誰かが「道のりは有限だから、歩けば必ず着く」と言ったとする。ゼノンはそこに割って入り、道のりが有限でも、途中まで、さらにその途中まで、と分けていけば、通過すべき点は無限にあるではないか、と言う。無限にある段階を、本当に終えられるのか。こうして彼は、ふだん何も疑わずに使っている「歩く」「着く」という言葉の中に、じつは深い問題が潜んでいることを示す。

 ここで大事なのは、ゼノンが現実を知らなかったわけではないということだ。彼だって人が歩くのを見ていたし、矢が飛ぶのも知っていたはずである。それでもなお、理屈で考えるとおかしくなると言った。つまり彼の仕事は、目に見える事実を否定することではなく、事実を説明するために私たちが使っている概念を疑うことだった。空間とは何か。時間とは何か。一つのものと多くのものの違いは何か。連続しているとはどういうことか。こうした問いは、ふつうに生活しているときにはあまり表に出てこない。だが、いったん立ち止まって考えはじめると、足元が急に怪しくなる。ゼノンは、その足元の揺れを最初に大きく見せた人の一人だった。

 ゼノンの生涯については、実は分からないことが多い。古代の哲学者の中でも、とくに資料が少ない部類に入る。生年も没年もはっきりせず、どんな本をどの形で残したのかも断片的にしか分からない。ただ、プラトンの対話篇には、ゼノンがパルメニデスとともにアテナイを訪れたという印象的な場面が描かれている。そこでのゼノンは、ただ不思議な問題を言い立てる変人ではない。若いソクラテスとも向き合える、洗練された議論の人として現れる。もちろん、プラトンの作品はそのまま歴史記録ではない。だが少なくとも後代の人々は、ゼノンをそれだけ重要な人物として見ていたのである。

 また、ゼノンには政治的な人物としての伝説もついて回る。暴君に抵抗し、拷問を受けても屈しなかったという話が伝えられているのだ。細部は伝説めいており、どこまで事実かは慎重に見なければならない。だが、この種の逸話が生まれたこと自体は興味深い。人々はゼノンを、机の上の理屈だけをこねる人としてではなく、信念のために危険を引き受ける人物としても記憶したかったのだろう。そう考えると、彼の逆説もまた、ただの知的遊戯ではなく、世界の見え方を根本から変えようとする強い意志の表れに見えてくる。

 ゼノンの名を有名にしたのは、やはり逆説である。だが、その逆説を「変なクイズ」として受け取ると、ゼノンの本当の姿は見えなくなる。たとえばアキレスと亀の話は、足の速いアキレスが先に進んだ亀を追い抜けないというものだ。ふつうに考えれば、そんなことはない。だがゼノンは、アキレスが亀のいた地点に着くころには、亀は少し先へ進んでいる、と言う。では次にその地点へ行く。すると亀はまた少し先へいる。こうして追いつくための段階はどこまでも増えていく。ここで問われているのは、足の速さそのものではない。有限の距離を無限に分けて考えるとはどういうことか、という点なのである。つまりゼノンは、運動を見ているようでいて、じつは思考の条件を見ている。

 この意味で、ゼノンは数学者のようでもあり、論理学者のようでもあり、もちろん哲学者でもある。数学者のようだというのは、彼が図や線分や分割に敏感だからである。論理学者のようだというのは、相手の前提から結論を導く厳しさがあるからだ。そして哲学者だというのは、それらすべてを通じて、存在とは何かという最も深い問いに向かっているからである。ひとつの人物の中に、数学、論理、存在論が重なっている。だからゼノンは、古代の一思想家でありながら、現代の読者にとってもなお新鮮に映る。

 ゼノンの魅力は、答えをくれるところではなく、当たり前の地面を抜いてしまうところにある。歩けるはずの道が、急に無限の問題へ変わる。飛んでいるはずの矢が、瞬間ごとには止まっているように見える。たくさんあるはずの物が、本当にたくさんあると言ってよいのか怪しくなる。こうした感覚は、哲学の入口としてとても強い。なぜなら哲学とは、遠い世界の珍説を集めることではなく、自分が当然と思っていたことを、もう一度考えなおす営みだからである。ゼノンはまさに、その入口に立っている。

 だから第一章で押さえるべきゼノン像は、逆説を連発した変人というものではない。パルメニデスの近くで育ち、エレア派の立場を守ろうとし、常識の内側に潜む矛盾をあばいた思想家。それがゼノンである。彼の生涯は霧の中にある。だがその霧の奥から投げられた問いは、二千年以上たった今も消えていない。人は本当に動いているのか。世界は本当に多でできているのか。見えているものと、考えた結果は、どちらを信じるべきなのか。ゼノンという人は、こうした問いを通じて、哲学そのものの緊張を最も鮮やかに示した人物の一人なのである。

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