うしPのサイト

文学・思想の一丁目一番地

イアン・ハッキング入門 哲学入門シリーズ138

第一章 ハッキングってどんな人?

 ハッキングという名前を見たとき、まず戸惑う人は多いはずだ。ハッキングと聞くと、どうしてもコンピュータに侵入する人や、ネットの裏側をうろつく怪しい技術者を想像してしまう。だが、ここでいうハッキングはそういう意味ではない。イアン・ハッキングは、二十世紀後半から二十一世紀にかけて活躍した哲学者であり、しかもただの哲学者ではない。科学の考え方、確率という発想、精神医学の分類、そして人間がどうやって「こういう人」と名づけられていくのかを、執念深く考えた人である。

 この人の面白さは、最初からいわゆる「人生とは何か」といった大きな問いだけを、雲の上で考えていたわけではないところにある。数学や物理にも強く、科学が現場で何をしているのかに、強い関心を持っていた。だから彼の文章には、抽象的な議論だけではなく、実験装置、統計、病名、制度、記録といった、妙に手ざわりのある言葉がよく出てくる。哲学者なのに、机の上だけで世界を語っていない。ここがまず、イアン・ハッキングの第一印象として大事なところだ。

 ふつう哲学者というと、概念を磨き上げる人とか、理屈を積み重ねる人という印象がある。もちろんハッキングもそういう力を持っていた。だが彼は、理論だけを見て満足する人ではなかった。たとえば科学について考えるときも、科学理論が正しいかどうかだけではなく、科学者たちが何をいじり、何を作り、何を操作しているのかを見る。世界を説明するだけではなく、世界に手を突っ込んで何かを起こす。その瞬間に、科学の本当の顔が出るのではないか。ハッキングはそう考えた。

 この発想は、彼の有名な議論によく表れている。たとえば電子は本当に存在するのか、という問いがある。これは科学哲学では昔から大きなテーマだった。電子なんて肉眼では見えないし、理論の中で語られるだけの便利な道具ではないのか、と疑うこともできる。だがハッキングは、もし電子を使って別のものに働きかけられるなら、ただの作り話とは言いにくいだろうと考えた。見えないとしても、装置の中でそれを使い、別の現象を起こせるなら、それはかなり「いる」と言っていい。彼は世界を、ただ眺める対象ではなく、介入できる相手として見ていたのである。

 ここだけ聞くと、ハッキングは科学を信じる現実派の哲学者に見えるかもしれない。実際、その面はある。だが彼は単純な科学礼賛の人ではなかった。むしろ彼がすごいのは、科学が本当のものを扱っているという感覚と、科学そのものが歴史の産物だという感覚を、両方とも手放さなかったところにある。世界にはこちらの都合とは無関係なものがある。だが、それをどう切り分け、どう数え、どう名づけるかは、時代によって変わる。ハッキングはこの二つを、無理に片方へ寄せずに考え続けた。

 だから彼の本を読んでいると、自然科学の話をしていたはずなのに、いつの間にか統計や国家や病院の話になっていることがある。これは脱線ではない。彼にとって、確率や統計は単なる計算の道具ではなかった。近代社会が人間を大きな集団として見つめ、数で把握し、標準や異常を決めていく仕組みそのものだった。たとえば、ある時代から人々は、自殺率や犯罪率や発病率のような数字をあたりまえのように眺めるようになる。数字は冷たい。しかし、その冷たさによって、人間の見え方はごっそり変わる。ハッキングはそこを見逃さなかった。

 ここで彼は、ただ統計の歴史を語るだけでは終わらない。数字が人間をどう見えるようにしたか、そしてその見え方が人間の生き方をどう変えたかまで考える。たとえば、昔ならただ「変わった人」としか言われなかった人が、ある時代には特定の分類名を与えられることがある。分類名がつくと、医者も家族も学校も、その人をその名で見るようになる。すると本人もまた、その名を通して自分を理解し始める。分類は単なるラベルではない。分類は、人間に跳ね返ってくる。ハッキングの重要な着想はここにある。

 彼はこれを、人間を作り上げる作用として考えた。もちろん無から人間を発明するわけではない。だが「こういう種類の人がいる」と社会が言い始めると、その種類に入れられた人々のふるまいが変わり、周囲の対応も変わり、結果としてその種類そのものが形を変えていく。これは石や電子の分類にはあまり起きない。石は、石と呼ばれても傷つかないし、反発もしない。だが人間は違う。名づけられ、診断され、矯正され、理解されることで、自分を変えてしまう。ハッキングは、このやっかいで生々しい領域に深く降りていった。

 だから彼の関心は、精神医学にも向かった。多重人格のような症例が、ある時代には非常に注目され、別の時代にはほとんど姿を消すのはなぜか。ある病名が広まると、その病名に沿った経験が増えていくように見えるのはなぜか。これは単純に、本当にあるか、ないかだけでは片づかない。病気は作り話だと言えば雑すぎるし、逆に病名は自然そのものの写しだと言えば、それも現実を取りこぼす。ハッキングは、その中間のぬかるみを歩いた。ここに彼の強さがある。

 こうして見ると、ハッキングは一つの専門だけに閉じこもった哲学者ではない。科学哲学者であり、歴史家のようでもあり、社会学者の隣人でもあり、精神医学の観察者でもある。だが何でも屋というわけでもない。ばらばらに見えるテーマをつないでいる一本の糸がある。それは、人間は世界をそのまま見ているのではなく、ある仕方で切り分け、名づけ、数え、扱うことによって世界を知っている、という感覚である。そしてその知り方は、世界だけでなく、知る人間自身も変えてしまう。ハッキングはずっと、その循環を見ていた。

 この人の文章や発想には、奇妙な清潔さがある。断定しすぎない。しかし、曖昧に逃げもしない。社会的に作られているという言い方が流行れば、では何がどう作られているのかと問い直す。科学が真理を語ると言われれば、どんな実践によってそう言えるのかと問い直す。病名が与えられれば、その分類が人間にどう作用するのかを問う。どの場面でも、彼は言葉の勢いに乗らない。いったん立ち止まり、そこにある仕組みをじっと見る。その姿勢は、派手ではないが、かなり強い。

 イアン・ハッキングをひとことで言うなら、世界そのものと、世界を語る方法のあいだを、しぶとく往復した哲学者である。世界は人間の言葉だけでできているわけではない。だが人間は、言葉や分類や数字なしに世界を生きることもできない。この両方を同時に見ようとするのは、簡単なことではない。片方だけを見たほうが楽だからだ。全部社会の産物だと言ってしまえば、話は早い。逆に、世界はそのままそこにあると言い切っても、これまたすっきりする。ハッキングは、そのすっきりを疑った。

 だからこそ彼は、いま読んでも古びにくい。現代の社会は、分類と統計と診断とデータに満ちている。検索履歴、購買傾向、性格診断、発達特性、リスク評価。人はつねに何かの型にはめられ、その型を通して理解される。しかも不思議なことに、人は型にはめられるだけでなく、その型に自分から近づいていくことすらある。こうした時代に、分類は人間をどう変えるのか、数字は人間をどう見えるようにするのかを考えたハッキングは、とても現在的な哲学者に見える。

 もちろん彼は、いわゆるスター哲学者のような華やかな名前ではないかもしれない。ニーチェやサルトルのように、人生論の名言で広く知られているわけでもない。だが、いま自分たちがどんな網の目の中で暮らしているのかを知りたいなら、かなり頼りになる案内人である。見えない電子から、見えすぎる統計まで。病院の診断名から、社会の常識まで。ハッキングはそれらを別々の話としてではなく、世界を知り、世界に介入し、そのなかで人間が自分自身を作り変えていく一つの流れとして見た。

 イアン・ハッキングは、難しい専門家というより、見慣れた世界の裏側を静かにめくってみせる人だと言ったほうがいいのかもしれない。数字はただの数字ではない。分類はただの整理ではない。科学はただの説明ではない。そして人間は、名前をつけられる前と後とで、同じままではいられない。そんな当たり前でいて不気味な事実を、彼は丁寧に掘り出した。その意味でハッキングは、派手な革命家ではない。だが、ものの見え方そのものを少しずらしてしまう哲学者なのである。

続きはこちらから
イアン・ハッキング入門 哲学入門シリーズ138
イアン・ハッキング入門 哲学入門シリーズ138

哲学入門シリーズ一覧に戻る
うしPのページに戻る