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マードック入門 哲学入門シリーズ139

第一章 マードックってどんな人?

 アイリス・マードックは、二十世紀イギリスを代表する思想家であり、小説家でもあった。哲学者でありながら、学問の言葉だけに閉じこもらなかった人である。逆に、小説家でありながら、物語だけを書いて満足した人でもない。人はどうすれば現実を正しく見られるのか。他人を勝手な思い込みではなく、ほんとうに他人として見ることはできるのか。善く生きるとは、いったい何を意味するのか。そうした問いを、哲学でも小説でも追いかけ続けた人物だった。

 彼女は一九一九年にアイルランドのダブリンで生まれ、その後は主にイギリスで育った。学んだ場はオックスフォードであり、のちには哲学を教える側にもまわった。だが、ただ大学に属して論文を書く研究者という印象では、どうしても足りない。マードックの本質は、学問の制度の中にいながら、その外にある人間の複雑さを見失わなかったところにある。人間は理屈だけでできていない。意志だけで動くわけでもない。欲望、虚栄、執着、嫉妬、夢想、自己正当化。そうした濁りを抱えたまま、それでも善に近づこうとする存在だと、彼女は考えていた。

 この人を理解するうえで大切なのは、哲学者か小説家か、どちらか一つに決めないことである。多くの作家は物語を書く人として読まれ、多くの哲学者は概念を組み立てる人として読まれる。けれどもマードックは、その二つを分けるよりも、むしろ行き来した。哲学では、人間の心がどう歪み、どうすれば少しだけでも現実へ向き直れるかを考えた。小説では、その歪みが日常の場面でどう現れるかを描いた。思想が骨組みで、物語が肉づきという感じではない。両方とも同じ問いに向かう、別々の道だったのである。

 たとえば、ある母親が息子の結婚相手をあまり好きではないとする。その女性のことを、軽薄だ、教養がない、品がないと感じている。最初は、その評価が正しいと思い込んでいる。だが時間がたつうちに、ほんとうに問題なのは相手ではなく、自分の中にある偏見かもしれないと気づきはじめる。相手をもっと落ち着いて見れば、若いだけでなく率直でもあり、無神経に見えたところには緊張も混じっていた、と見え方が変わってくる。この種の変化を、マードックはただの気分転換とは考えない。道徳の中心にある出来事として見た。善い行為の前に、善く見ることがある。ここに、彼女の思想の入口がある。

 この考え方は、当時の哲学の流れの中ではかなり独特だった。二十世紀のイギリス哲学には、言葉の使い方を明晰にし、行為や選択を分析する流れが強かった。もちろんそれ自体には力がある。けれどもマードックは、それだけでは人間の道徳生活をつかみきれないと感じた。なぜなら、人は選択の瞬間だけで生きているのではないからである。何を見るか、何を見落とすか、どんな空想を育てるか、誰に対して心の中で侮りを向けるか。そうした内面の連続が、行為より先に人を形づくる。彼女はそこを見た。

 そのため、マードックの哲学には「注意」という言葉が強く響く。注意とは、ただ集中することではない。自分の願望や不満で曇った視線を、少しずつ対象のほうへ向けなおすことだ。自分が見たいものを見るのでなく、そこにあるものを見ること。これは簡単そうに見えて、実はむずかしい。人は自分を中心にして世界を組み立てがちだからである。相手が少し冷たいと、すぐに嫌われていると考える。返事が遅いと、軽んじられていると感じる。自分の恐れや願いが、現実そのものを上書きしてしまう。マードックは、その上書きの力をよく知っていた。

 だから彼女は、人間をあまり楽観しない。人は自分で思うほど自由でも、透明でも、善良でもない。心の中には、つねに自己中心的な物語が生まれる。しかもその物語は、とてももっともらしい形をしている。自分は正しい、傷ついている、自分だけは事情がある、あの人は浅い、あの人は鈍い。こうした声は自然に湧いてくる。マードックは、その自然さを危険だと見た。悪が特別に大げさな姿で来るとは限らない。たいていは、自分にとって都合のよい見方として現れるからである。

 ここで彼女は、善という考えを持ち出す。善とは、目の前に置いて計量できる物ではない。だが、だからといって空虚な看板でもない。人間が自分の狭い欲望から離れようとするとき、向かう先として必要なもの。それが善である。言いかえれば、善は「なんでも好きに決めてよい」という世界に対する抵抗の中心だ。マードックは、道徳を単なる個人の好みや選択にしてしまうことを嫌った。自分より大きいものへ向かう感覚がなければ、人は自分の気分を正義だと思い込みやすいからである。

 このあたりで、マードックがなぜ小説を書いたのかも見えてくる。論文だけでは、人間の心のねじれ方を十分に示せない。ある人物が自分を愛していると信じていたのに、実は相手を見ていたのではなく、自分の夢を相手に貼りつけていただけだった。善意のつもりの行動が、実は支配欲だった。誠実そうな言葉の下に、見栄や残酷さが潜んでいた。こうした複雑さは、物語の中でこそ生きる。だからマードックの小説には、しばしば知的で魅力的だが、同時に思い込みの強い人物が出てくる。彼らは悪党というより、自分の内面に捕まっている人間である。

 しかも彼女の小説は、説教くさくない。ここが重要である。哲学者が小説を書くと、登場人物が思想の人形になることがある。だがマードックは、そこをなるべく避けた。登場人物たちは、作者の正しさを証明するためだけには動かない。むしろ、作者自身の考えすら揺らすほど、生きものとして動く。その意味でマードックは、人間を信じていたというより、人間の複雑さを信じていたと言ったほうがよい。きれいに割り切れないことを、彼女はよく知っていたのである。

 若い頃のマードックは実存主義、とくにサルトルにも強い関心を持っていた。人間は自由であり、選びとる存在だという考えは、戦後の時代には大きな力を持っていた。だが彼女は、しだいにそこから距離をとる。なぜなら、人間はそんなにすっきり選べる存在ではないからだ。選択の前に、すでに心は偏っている。自由の前に、習慣や幻想がある。だから大事なのは、強い意志で一気に飛ぶことよりも、ものの見方を少しずつ正すことになる。マードックは、英雄的な決断よりも、静かな修正のほうに道徳の核心を見た。

 その静かな修正は、ときに芸術や自然によって助けられる。美しいものに見入るとき、人は一瞬だけ自分を忘れることがある。夕方の空を見たときでもよいし、よく書かれた小説に引きこまれたときでもよい。その瞬間、人は自分の不満や焦りを少し脇へ置く。マードックは、そこに倫理的な意味を見た。美は道徳の代用品ではない。だが、自分中心の殻をゆるめるきっかけにはなりうる。これは、哲学を乾いた議論にしない彼女らしい見方である。

 マードックとは、人間を甘く見ない思想家だった。そして同時に、人間を見捨てない作家でもあった。人は自分の幻想に閉じこもる。だが、だから終わりではない。注意しなおすことはできる。見方を変えることはできる。少しだけ他人を正しく見ることもできる。そうした希望を、彼女は大声で叫ばない。静かに、しかし執拗に書き続けた。その静けさこそが、マードックの強さだった。次の章からは、その強さがどのような時代背景の中で生まれ、どんな哲学的立場として形をとったのかを見ていくことになる。

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