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カッシーラー入門 哲学入門シリーズ144
第一章 カッシーラーってどんな人
エルンスト・カッシーラーは、一言でいえば、人間がどうやって世界を意味のあるものとして生きているのかを、大きな視野で考えた哲学者である。しかも彼は、ただ頭の中で抽象的な議論を積み上げた人ではなかった。科学、神話、言語、芸術、歴史、政治といった、一見するとばらばらに見える領域を、人間という存在の働きとしてまとめて理解しようとした。ふつう哲学者というと、世界の本当の姿とは何か、知識とは何か、善とは何か、といった問いを一つずつ掘り下げる印象がある。だがカッシーラーは、それらを分けて考えるよりも、人間がどのように世界を形づくっているかという全体像をつかもうとした。そこに彼の大きさがある。
カッシーラーは一八七四年、ドイツ帝国のブレスラウに生まれた。この町は現在のポーランド、ヴロツワフとなっている。十九世紀の終わりから二十世紀前半にかけてのヨーロッパは、科学が大きく発展し、産業社会が広がり、思想も政治も激しく揺れ動いていた。古い宗教的な世界観は力を弱める一方で、科学は驚くほどの勢いで人間の理解を広げていった。しかしその一方で、合理性が進んだはずの近代社会は、戦争や独裁や民族主義の狂気も生み出した。カッシーラーは、そうした時代のただ中で、人間とは何かを問い直したのである。
若い頃のカッシーラーは、いわゆる新カント派と呼ばれる哲学の流れの中で学んだ。とくにマールブルク学派と呼ばれるグループに属し、ヘルマン・コーエンやパウル・ナトルプのもとで哲学を深めた。ここで大事なのは、彼が最初から神話や芸術ばかり語っていたわけではないということだ。むしろ出発点はかなり厳密で、科学や認識の問題に強い関心を持っていた。どうして人間は数学や自然科学のような知識を作り出せるのか。世界を知るとはどういうことなのか。こうした問いから彼の哲学は始まっている。
この出発点を知ると、カッシーラーの後の仕事がよく見えてくる。彼は、世界の中に最初から意味がきれいに並んでいて、人間はそれを受け取るだけだとは考えなかった。人間は、自分の働きによって世界を整理し、理解し、形にしている。たとえば、夜空を見上げたとき、そこにはただ光の点が散っているだけかもしれない。だが人間はそこに星座を見いだし、神話を結びつけ、天文学の法則を発見し、詩の題材にもする。同じ空を前にしていても、神話的に見ることも、科学的に見ることも、芸術的に見ることもできる。カッシーラーは、この違いを単なる気分の違いとしてではなく、人間の精神が世界を形づくる仕方の違いとして考えた。
彼の人生は、学問の世界だけで閉じたものではなかった。大学で教え、多くの著作を残し、ドイツ知識人社会の中で確かな地位を築きながらも、二十世紀の政治的な暴力から逃れることはできなかった。ユダヤ系であったカッシーラーは、ナチズムの台頭によってドイツを去らざるをえなくなる。彼はイギリス、スウェーデン、さらにアメリカへと移り住み、亡命知識人として生涯の後半を過ごした。これは彼にとって単なる住所の変更ではなかった。理性や文化を重んじる近代が、なぜあれほど簡単に神話的な政治に飲み込まれてしまうのか。その問いは、彼にとって実感を伴うものとなった。
この点で、カッシーラーは穏やかな学者というだけではない。彼は理性の哲学者であると同時に、理性が敗北しうる現実を知っていた人でもある。人間は論理的な存在であり、文化を築き上げる存在である。しかし同時に、神話や象徴や感情に深く動かされる存在でもある。ここを見誤ると、人間を正しく理解できない。だから彼は、科学だけを特別扱いするのではなく、神話や宗教や芸術や政治にまで視野を広げた。人間は理性的動物である、とだけ言っていては足りない。人間は象徴を作り、それによって世界を生きる存在なのだ。後に彼が人間を「象徴的動物」と呼ぶようになるのも、この延長線上にある。
カッシーラーの思想は、一見すると難しそうに見える。実際、彼の主著は簡単な本ではない。しかし、彼が見ていたもの自体は、私たちの日常からそれほど遠くない。たとえば、お金を考えてみれば分かりやすい。一万円札は、紙そのものに巨大な価値があるわけではない。それでも人は、その紙を通して食べ物を買い、家賃を払い、労働の対価を受け取る。そこには社会全体で共有された意味がある。紙切れが貨幣として働くのは、人間が象徴を通して世界を作っているからだ。同じように、国旗、法律、肩書き、物語、宗教儀礼、地図、数式、言葉そのものも、人間がただ自然の中で生きるだけではなく、意味の網の中で生きていることを示している。カッシーラーは、こうした象徴の力を、文化全体の根本原理として捉えようとした。
彼の仕事の大きな特徴は、どれか一つの分野を絶対視しないことにある。神話を語るからといって反科学ではないし、科学を重んじるからといって芸術や宗教を低く見るわけでもない。カッシーラーは、人間精神のさまざまな働きが、それぞれ独自の仕方で世界を形づくっていると考えた。神話は神話なりに、言語は言語なりに、科学は科学なりに、現実を理解する形式を持っている。ここには、人間文化に対する深い敬意がある。人間は単に生き延びるために道具を使うだけの存在ではない。意味を与え、形を作り、世界を表現し、共有し、継承していく存在である。カッシーラーはそのことを、哲学の言葉で壮大に描こうとした。
また、彼は哲学史の中でも独特の位置にいる。カントの後継者でありながら、単なる学説史の人物ではない。文化哲学者でありながら、感覚的な文明批評家でもない。科学哲学にも通じているが、科学の内部だけに閉じこもらない。しかも、同時代にはハイデガーのような強烈な存在感を持つ哲学者もいたため、後世ではやや目立たなく見えることもあった。しかし近年では、言語、記号、文化、メディア、政治神話を考えるうえで、カッシーラーの重要性があらためて見直されている。人間が世界をそのまま受け取るのではなく、象徴を通して生きているという見方は、現代でも十分に力を持っているからである。
たとえば、同じ出来事でも、ニュースの見出しが変わるだけで印象は大きく変わる。「抗議活動」と呼ぶのか、「暴動」と呼ぶのかで、人々の受け取り方は違ってくる。ここでは事実だけでなく、言葉による世界の切り分けが働いている。さらに、それが繰り返されれば、社会全体の認識まで動いていく。カッシーラーはSNSの時代を知らないが、象徴が人間の現実を作るという彼の考え方は、現代の情報社会にもそのまま通じる。人間は、ただ物を見ているのではない。いつも意味づけられた世界の中で物を見ているのである。
カッシーラーは「人間とは何か」を文化全体から考えた哲学者だと言える。自然の中に生きる生物としての人間ではなく、神話を語り、言葉を使い、科学を作り、芸術を生み、政治に巻き込まれ、歴史を記憶し、象徴の中で生きる存在としての人間。彼が見つめていたのは、その複雑で豊かな姿だった。しかも彼は、それを絶望としてではなく、人間の創造力として受け止めようとした。人間は混乱しやすく、神話に流され、時には自分で作った象徴に縛られる。だが同時に、より自由で豊かな世界を作る力も持っている。カッシーラーの哲学には、その両方を見る冷静さと希望がある。
カッシーラーは、単なる「昔の哲学者」ではない。科学が進んでも社会が不安定で、情報があふれても真実が見えにくく、合理性を語る時代に神話的な熱狂が何度も顔を出す現代において、むしろますます読まれるべき思想家だと言ってよい。人間は何によって人間なのか。その問いに対して、理性だけでも本能だけでもなく、象徴を通して世界を生きる存在だと答えたこと。そこに、カッシーラーという哲学者の大きな魅力がある。
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