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ポランニー入門 哲学入門シリーズ149

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第一章 ポランニーってどんな人?

 マイケル・ポランニーは、一言でいえば、科学の現場を知り抜いたうえで、知るとはどういうことかを根本から考え直した人である。もともとは哲学者ではなく、物理化学の第一線で仕事をした研究者だった。実験し、論文を書き、学問の世界で評価されるという道を実際に歩いたあとで、彼はしだいに、科学そのものを支えている見えない土台へ目を向けるようになった。彼の思想には、机の上で概念だけをいじっている人には出しにくい、生々しい手ざわりがある。

 ポランニーは一八九一年にブダペストで生まれた。はじめは医学を学び、その後に化学へ進み、やがて物理化学の研究者として名を上げていく。二十世紀前半のヨーロッパは、科学が急速に発展した時代であると同時に、政治が激しく揺れた時代でもあった。ポランニーはそのただ中を生きた。研究者として成功しながら、社会の不安定さや、国家が知のあり方にまで手を伸ばしてくる危うさを身近に見たことが、のちの彼の思想に深く食い込んでいく。

 ここで大事なのは、彼が最初から思想家として出発したのではないということである。彼はまず、科学という営みの内部にいた。たとえば実験をするとき、研究者は教科書に書かれた手順だけで動いているわけではない。試薬の色のわずかな変化、装置の癖、うまくいく手つきと失敗する手つきの違いを、身体で覚えながら進んでいく。新人には同じ説明をしても、熟練した研究者には見えるものが違う。ポランニーは、こうした現場の事実をよく知っていた。そして、この事実は近代の知識観ではうまく説明しきれないのではないかと感じるようになる。

 多くの人は、知識とは言葉にできるものだと考えがちである。定義できて、整理できて、他人へそのまま渡せるものが知識だと思いやすい。だがポランニーは、実際にはそうではないと見た。人は説明できること以上のことを知っている。自転車の乗り方がその典型である。重心をどう取るかを文章で完全に教えるのは難しいが、一度身についた人はちゃんと乗れる。顔見知りの友人を遠くから見分けるときも、私たちは特徴を一つ一つ数えているのではない。それでも分かる。この、言い切れないのに分かっているという領域に、彼は強い関心を持った。

 こうして彼は、知ることの中心には、教科書の文にはなりきらない何かがあると考えるようになった。後にそれは暗黙知と呼ばれる。だが、ここで重要なのは、彼が単に神秘的な話をしているのではないという点である。言葉にしにくいからといって、いい加減な勘を持ち上げているのではない。むしろ逆で、科学のように厳密だと思われている世界でさえ、最後は訓練、判断、熟達、信頼に支えられていると彼は言いたかったのである。つまり、知識の土台には、論理だけではすくい取れない実践の層がある。

 この見方は、科学に対する考え方も変える。もし科学が、誰でも同じ手順を踏めば自動的に真理へ届く機械のようなものなら、研究者の個性や共同体の文化は本質ではないことになる。しかしポランニーはそう考えなかった。科学者は、何が重要な問題かを見きわめ、どの仮説に賭けるべきかを判断し、失敗の中から手がかりを拾い上げる。そのときには、知的な情熱や、美しい説明を求める感覚さえ働いている。知ることは、ただ外から事実を受け取ることではなく、世界へ責任をもって関わることでもある。この発想が、彼のいう個人的知識へつながっていく。

 またポランニーは、科学が自由でなければならない理由も深く考えた。国家や権力が、研究はこれを目指せ、この結論は認める、この問題は扱うなと命じ始めれば、科学は外見だけ立派でも中身を失う。なぜなら発見は予定表どおりには起きず、何が重要かは事前に完全には分からないからである。町を歩くときも、地図だけでは足りない。実際の坂道、風の向き、人の流れを見ながら進むしかない。科学もそれに似ている。自由な探究の空間があってこそ、研究者は互いに批判し合いながら、本当に新しいものへ近づいていけると彼は考えた。

 こうして見ると、ポランニーは単なる暗黙知の思想家ではない。科学者であり、認識論者であり、自由な社会の擁護者でもあった。しかもその三つは、別々に並んでいるのではない。知識は人間の熟達と責任に支えられている。だからこそ、それを育てる共同体には自由が要る。逆に、知識を無人称の命題の集まりだと思い込むと、教育も研究も、ただの手順管理へとやせ細ってしまう。ポランニーはこの危険を、時代のかなり早い段階で見抜いていた。

 彼の思想が今も読まれるのは、そのためである。現代は、マニュアル化、数値化、標準化がどんどん進む社会である。何でも言語化し、共有し、再現できる形にしようとする。その努力自体は大切だが、それだけでは人間の知を説明しきれない。優れた教師が教室の空気を読み取る感覚、職人が道具のわずかな違和感に気づく感覚、編集者が文章の微妙な濁りを嗅ぎ分ける感覚は、きれいな表にしてもそのままは残らない。ポランニーは、その残りかすではなく、その部分こそが知の核心だと考えた。

 ポランニーを読むことは、単に一人の哲学者の学説を知ることではない。自分が何かを学ぶとき、なぜ説明だけでは足りないのかを理解することでもある。なぜ熟練者の一言が重いのか、なぜ自由な議論が知を育てるのか、なぜ人は言葉にならない確信を手がかりに前へ進むのかを考えることでもある。彼は、知識を冷たい情報の山としてではなく、生きた人間が世界へ身を乗り出しながらつかむものとして描いた。その意味でポランニーは、知るとは何かを、もう一度人間の手に取り戻した思想家だったのである。

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