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エディット・シュタイン入門 哲学入門シリーズ153

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第一章 シュタインってどんな人?

 エディット・シュタインは、一言でいえば「真理のために生き方ごと変えていった人」である。ドイツのユダヤ系家庭に生まれ、若いころは鋭い知性で学問の道を進み、のちにはフッサールのもとで現象学を学んだ。そして最後にはカトリックへ改宗し、修道女となり、ナチの迫害のなかで命を落とした。哲学者として見ても劇的な人生だが、彼女のすごさは出来事の派手さではなく、考えたことを人生の外に置かなかったところにある。

 ふつう、哲学者というと本の中で考えている人を想像しやすい。だがシュタインは、考えることと生きることの距離がとても近い。人間とは何か、他人を理解するとはどういうことか、共同体とは何によって成り立つのか。そうした問いを、教室の問題としてではなく、自分がどう生きるかに直結する問いとして受け止めた。だから彼女の文章には、ただ知的であるだけではない、切実さと緊張感がある。

 彼女は一八九一年、現在のポーランド領ヴロツワフにあたる町で生まれた。当時はドイツ帝国領で、都市文化と学問の空気が交わる場所だった。家庭はユダヤ教の伝統をもっていたが、若いシュタインは早い段階で信仰から距離を取り、自分を無神論者に近い立場だと考えるようになった。ここは大事な点である。のちに彼女は修道女になるが、最初から宗教的情熱の人だったのではない。むしろ一度は信仰から離れ、理性の力で世界を見ようとした人だった。

 その彼女が強く惹かれたのが、フッサールの現象学だった。現象学とは乱暴にいえば、思い込みや先入観をできるだけ取り払い、意識に現れているものを丁寧に見ようとする立場である。石はなぜ石として見えるのか、他人の悲しみはどうやって私に分かるのか、数や時間はどのように経験されるのか。そうした問いに対して、表面だけでなく経験そのものの構造を見ようとする。シュタインはこの方法に大きな可能性を見た。

 彼女の名を有名にした仕事の一つが、共感の研究である。共感というと、相手にやさしくすることや、気持ちを分かってあげることだと思われがちだ。だがシュタインが考えたのは、もっと根本的な問題だった。私は自分の痛みなら直接わかる。では、目の前の人が泣いているとき、その悲しみを私はどうやって「その人の悲しみ」として知るのか。たとえば友人が電話口で声を震わせていたとする。そのとき私は、相手の悲しみを自分の悲しみとして感じるわけではない。それでも、たしかにそこに相手の苦しみがあると受け取る。この不思議な経験を、シュタインは厳密に考えようとした。

 ここに、彼女の哲学者としての輪郭がよく出ている。シュタインは、ありふれた日常の経験を軽く流さない。人は他人の顔色を見て、「怒っているな」「困っているな」とふつうに判断する。しかし、その「ふつう」がどうして可能なのかを問うと、一気に哲学になる。彼女はそういう問いの立て方ができる人だった。そしてその問いは、単なる心理学にとどまらない。他者理解の問題は、人格、社会、教育、倫理、国家の問題へと広がっていくからである。

 シュタインは学者としても高い能力を示したが、時代は彼女にやさしくなかった。女性が大学で大きな地位を得るのは難しく、ユダヤ系であることも重い制約となった。彼女はフッサールの助手として重要な仕事を担ったが、実力に見合う形で道が開けたとは言いにくい。ここでも彼女は、ただ不遇な人として見るべきではない。障害があるから諦めるのではなく、限られた条件の中でなお思考を進めた。その姿勢が、のちの教育論や女性論にもつながっていく。

 やがて彼女の関心は、共感や人格の問題から、より大きな存在の問いへ向かっていく。さらに決定的だったのが、キリスト教との出会いである。とくにアビラのテレサの自伝を読んだ経験は有名で、シュタインはそこに単なる感動ではなく、自分が探していた真理への別の入口を見た。ここで大切なのは、彼女が理性を捨てて信仰へ逃げたのではないということだ。むしろ理性で真剣に探した人が、その探究の延長で宗教へ進んだ。だから彼女の改宗は、突然の気まぐれではなく、長い問いの一つの帰結として理解するほうがよい。

 その後の彼女は、カトリック思想、とくにトマス・アクィナスにも向かい、人間の有限性や永遠なるものとの関係を考えるようになる。さらにカルメル会に入り、十字架のテレサ・ベネディクタという名を受けた。ここまで来ると、若いころの現象学者と修道女のあいだには、大きな断絶があるようにも見える。だが実際には、一つの線でつながっている。見かけの変化は大きくても、「人間とは何か」「真理とは何か」という問いは変わっていない。方法と言葉が変わっても、問いの熱はずっと続いている。

 そしてシュタインの人生は、二十世紀ヨーロッパの悲劇と切り離せない。ユダヤ系であった彼女は、改宗していてもナチの迫害から逃れられず、一九四二年にアウシュヴィッツで殺害された。この事実は重いが、彼女をただ悲劇の象徴として読むだけでは足りない。重要なのは、暴力の時代にあっても、人間の尊厳や真理への志向を考え続けた点である。世界が壊れていくとき、人は他者を理解できるのか。共同体は連帯の場なのか、それとも排除の装置になるのか。シュタインの問いは、むしろそこから現在に向かってくる。

 シュタインは、「聖人になった哲学者」とだけ言うと小さくなってしまうし、「共感を論じた現象学者」とだけ言っても足りない。彼女は、人間を理解することから出発し、その理解を人格、共同体、国家、教育、信仰、存在へと広げていった思想家である。しかもその全部を、自分の人生で引き受けた。たとえば他人の苦しみを理解するとは何か、という問い一つを取っても、そこには心理学だけでなく、政治や宗教や倫理までつながる道がある。シュタインは、その道が本当に続いていることを、一生かけて示した人だったのである。

 シュタインを知ることは、一人の特別な人物の伝記を知ることではない。むしろ、人間がどこまで真剣に考えうるかを知ることに近い。私たちは日々、他人をわかったつもりになり、社会に属しているつもりになり、自分が何者かも何となく決めてしまう。シュタインは、そうした「つもり」を許さない。ほんとうに他人を理解しているのか、ほんとうに共同体を生きているのか、ほんとうに真理を求めているのか。そう問い返してくる。だから彼女は、過去の偉人ではなく、今なお会話の中で使われるべき哲学者なのである。

 次の章では、そんなシュタインが、なぜ数ある問題の中でも「共感」を重要な入口に選んだのかを見ていく。他者を理解するとはどういうことか。この問いにきちんと答えられないなら、人間論も倫理も社会論も、どこかで足場を失う。シュタインはそのことを、誰より早く、しかも深く見ていた。

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