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ピーター・ウィルモット入門 哲学入門シリーズ157

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第一章 ピーター・ウィルモットってどんな人?

 ピーター・ウィルモットという名前は、哲学者の一覧を眺めていても、カントやニーチェのようにすぐ目に飛び込んでくる名前ではない。けれども、人は誰と結びついて生きているのか、よい社会は何を守るべきなのか、政策は人間の暮らしをどこまで理解できるのか、そうした問いを本気で考えようとすると、この人の仕事は急に重みを持ってくる。ウィルモットは、抽象的な概念を空中で組み立てるより、家族や親族、近所づきあい、住宅、移転、日常の助け合いといった、地面に近い事柄から社会を考えた人だった。

 肩書きだけを見れば、ウィルモットは狭い意味での哲学者というより、社会調査者であり、家族や共同体を研究した人だと言ったほうが正確だろう。だが、そのことはむしろ本書にとって好都合である。なぜなら、哲学は必ずしも大学の哲学科の中だけで行われるものではないからだ。人間とは何か、個人と社会はどう結びつくのか、自由とは孤立のことなのか、それとも支え合いの中でこそ成り立つのか。こうした問いを、現実の暮らしに触れながら考え抜いた人は、たとえ看板に「哲学者」と書かれていなくても、十分に哲学的な仕事をしている。ウィルモットはまさにそういう人だった。

 彼の名前がとくに知られるのは、ロンドン東部の労働者街区や、そこから移転した人びとの暮らしを調べた仕事によってである。ここで大事なのは、彼が単に「貧しい地域の生活」を記録したのではないということだ。彼が見ようとしたのは、家そのものではなく、家と家のあいだにある関係だった。親と子、姉妹、親類、隣人、顔見知り、ちょっとした用事を頼める相手、子どもを少し見ていてくれる人、病気のときに気にかけてくれる人。こうした関係は、法律の条文には載らないし、役所の書類にもきれいには収まらない。だが、人が実際に生きていくときには、そういうものが決定的に重要になる。ウィルモットは、その見えにくい網を見ようとした。

 ここで少し想像してみるとわかりやすい。ある家族が、古くて狭いけれど長年住んだ町から、新しくて清潔な団地へ移るとする。部屋は広くなり、設備もよくなり、表向きには生活が改善したように見える。だが、その引っ越しによって、歩いて五分のところに住んでいた母親や、夕方になると顔を出していた姉妹や、困ったときにちょっと頼れる近所の人たちが遠くなるとしたらどうだろう。数字だけ見れば前進でも、暮らしの感覚としては後退かもしれない。ウィルモットが注目したのは、まさにこのズレだった。政策は住居を数えられるが、支え合いは数えにくい。その数えにくいものこそ、生活の土台ではないか。彼の問いはそこにあった。

 だからウィルモットを理解するうえで、まず捨てたほうがいいのは、「家族」という言葉からすぐに核家族だけを思い浮かべる癖である。彼にとって家族は、同じ屋根の下で暮らす夫婦と子どもだけでは終わらない。近くに住む親、しょっちゅう行き来するきょうだい、実際に助け合っている親類まで含めて、家族は一つの生きた網として存在していた。言いかえれば、彼が見ていたのは、制度としての家族よりも、機能としての家族だった。紙の上でどう定義されているかより、誰が誰を支えているかのほうが大事だったのである。この視点は、現代の読者にもかなり強く響く。たとえば、子育てや介護の負担が「家庭の問題」として語られるとき、その家庭の範囲をどこまで見るのかによって、見える景色はまるで変わってしまうからだ。

 ウィルモットの魅力は、共同体をただ美しく飾らなかった点にもある。近所づきあいが濃い社会には、安心だけでなく息苦しさもある。助けてもらえる代わりに、見られてもいる。自由でいられる代わりに、放っておかれもする。現代では、個人の自由やプライバシーが大事だとよく言われるが、それがいつも幸福を意味するわけではない。逆に、昔ながらのつながりがある社会も、無条件に理想郷ではない。ウィルモットの仕事を読む面白さは、この単純な二択を崩してくれるところにある。つながりは善でもあり、負担でもある。自立は誇らしいが、孤立と紙一重でもある。社会を考えるとは、この両方を一緒に見ようとすることなのだと、彼の仕事は静かに教えてくれる。

 ここで見落としてはならないのは、ウィルモットが現場を大事にしたという点である。大きな理論だけで社会を説明しようとすると、人の暮らしはしばしば抽象化されすぎてしまう。たとえば「都市化が進んだ」「福祉国家が拡大した」「近代化で家族は変化した」といった言い方は、確かに正しい部分を持つ。だが、その変化が一人ひとりの生活にどう触れたのか、夕食の時間に何が変わったのか、子どもを預ける相手がどう変わったのか、病気のとき誰が来てくれるのか、そうしたことまでは、それだけでは見えてこない。ウィルモットは、大きな時代の変化を、具体的な暮らしの単位にまで降ろして考えた。だから彼の仕事は、社会学の本であると同時に、生活の哲学の本でもある。

 しかも彼は、難しい専門語を振り回して読者を選別するタイプではなかった。むしろ、現実の問題を、現実の言葉で、広い読者に届くように書こうとした人である。この点も重要だ。社会について本当に考える人は、専門家だけで閉じた世界に満足しない。政策に関わる人、町に住む人、家族を持つ人、自分の老後や子どもの将来を考える人、そういう人たちにも伝わる形で書こうとする。ウィルモットの仕事には、その公共性があった。読んだ人が「これは昔のロンドンの話だ」で終わらず、「これは今の自分たちの話でもある」と思えるような書き方ができたのである。

 もっとも、ウィルモットを持ち上げるだけでは十分ではない。彼の仕事は高く評価される一方で、共同体をややよく見すぎているのではないか、調査の読み方に偏りはなかったのか、という批判も受けてきた。これは弱点であると同時に、彼を読む価値でもある。強い本には、必ず反論が生まれる。もし誰からも批判されないなら、その本はたいてい、何も賭けていない。ウィルモットは、人間のつながりには政策より大事なものがある、とかなり本気で言った。その本気があったからこそ、後の研究者たちは彼に賛成したり、反対したり、修正したりしながら議論を続けたのである。

 この意味で、ピーター・ウィルモットは、一つの答えを与える人というより、何度も立ち返るべき問いを残した人だと言える。人は一人で生きられるのか。近くに住むことには、どんな意味があるのか。豊かさとは設備のことなのか、それとも関係の厚みのことなのか。行政が善意で行う政策は、なぜときどき生活を壊してしまうのか。こうした問いは、戦後イギリスだけのものではない。少子高齢化、単身世帯の増加、介護の負担、ワンオペ育児、地域の衰退、郊外化、再開発、孤独の問題。現代の日本で語られる多くの話題は、形を変えただけで、ウィルモットの問いにまだつながっている。

 だから、ピーター・ウィルモットってどんな人か、と聞かれたら、こう答えるのがよいだろう。家族や近所づきあいを通して、人間がどんな関係の中で生きているのかを考えた人。住宅や政策の問題を通して、社会が何を見落としやすいのかを暴いた人。個人の自由と共同体の支え合い、そのどちらも単純化せずに考えようとした人。そして、社会を語るとは結局、暮らしの細部をどう見るかということなのだと示した人。目立つ名前ではないかもしれない。だが、いったんこの人の視点を知ると、家族、町、引っ越し、孤独、福祉、政策といった話題が、以前とは少し違って見えてくるはずである。

 ウィルモットは、壮大な体系を打ち立てた思想家ではない。けれども、人が生きるために本当に必要なものは何かを、生活の手ざわりの中から問うた。その問いは、静かだが強い。大きな理論が時代を説明してくれることはあっても、誰が子どもを見てくれるのか、誰に弱音を吐けるのか、困ったとき誰の家のドアを叩けるのか、そうしたことまで引き受けてはくれない。ウィルモットは、その沈黙してしまいがちな領域に光を当てた。だからこの人を読むことは、昔の社会調査を知ること以上の意味を持つ。人間の暮らしは、見えやすい制度だけでなく、見えにくい関係によって支えられている。その当たり前でいて忘れられやすい事実を、もう一度考え直すことになるからである。

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