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ギュンター・アンデルス入門 哲学入門シリーズ158
第一章 ギュンター・アンデルスってどんな人?
ギュンター・アンデルスは、二十世紀の壊れ方を、誰よりもしつこく見つめた思想家である。彼は一九〇二年七月十二日、当時ドイツ領だったブレスラウに、ギュンター・ジークムント・シュテルンとして生まれた。のちに使う「アンデルス」は、本名ではなく筆名で、ドイツ語で「別様の」「違った」という響きをもつ。しかもその名は、ただ奇抜な看板ではなかった。彼はほんとうに、群れの中に溶けこむより、世界を少し斜めから見てしまう人だったのである。若いころから、ふつうに生きることと、真面目に考えることのあいだに、どこかずれがある。そのずれを抱えたまま、彼は技術、戦争、核兵器、テレビ、大量消費社会へと目を向け、人間は自分が作ったものに追い越されつつあるのではないか、と問い続けた。後年の代表作『時代おくれの人間』は、その問いに与えられた巨大な答えだった。
アンデルスの出発点には、すでに独特な環境があった。父ウィリアム・シュテルンと母クララ・シュテルンは、どちらも心理学者で、子どもの成長をきわめて細かく記録することで知られていた。幼いギュンターは、ふつうの意味で「ただ育つ」のではなく、観察され、書き留められ、言葉として保存されながら育ったのである。この事情は、のちのアンデルスにとって偶然ではなかった。人間は何を感じ、何を言い、どうやって世界を経験するのか。そうした問いが、彼にとって最初から生活のすぐそばにあったからだ。第一次世界大戦のころには、ユダヤ人であることゆえの疎外も経験した。自分が集団の中に完全には属していないという感覚は、彼の内部でかなり早い時期から育っていたらしい。アンデルスの思想が、のちに「人間は世界にぴたりとはまる存在ではない」という方向へ進んでいくのは、この幼い違和感と無関係ではないだろう。
学問の道に進んだ彼は、ハンブルク、フライブルク、ベルリン、ミュンヘンなどを渡り歩きながら学び、エトムント・フッサールやマルティン・ハイデガーの講義にも触れた。一九二四年、二十二歳でフッサールのもとに博士論文を提出し、学問的にはきわめて優秀な出発を切っている。しかも彼は、ただ師の言葉をありがたがる弟子ではなかった。フッサールに学びつつ、ハイデガーの強い魅力にも引かれつつ、なお自分の問いを手放さなかった。若きアンデルスが考えていたのは、人間とはどんな存在か、というかなり大きな問題である。人間は完成された生き物ではなく、世界に対してどこか距離を取りうる存在なのではないか。そうした見方は、後年の技術批判の土台になる。ハイデガーの周辺でハンナ・アーレントと出会い、一九二九年に結婚したことも有名だが、大切なのは有名人同士の結婚という点ではない。二人とも、崩れつつあるヨーロッパの中で、人間と世界の関係をどう考えるかに賭けていた、ということのほうである。
しかし、彼の人生を決定的に変えたのは、大学の議論より歴史の暴力だった。ナチスが権力を握った一九三三年、アンデルスはドイツを離れてパリへ逃れる。亡命は、思想家にとって単なる住所変更ではない。世界のほうが、自分を追い出してくる経験である。パリでは反ファシズム小説『モルッシアのカタコンベ』を書き上げたが、学界に安定した居場所を得ることはできなかった。さらに一九三六年にはアメリカへ渡り、亡命生活は続く。ここで重要なのは、アンデルスが亡命先で華やかな知識人生活を送ったわけではないことである。彼はハリウッドの小道具や衣装の倉庫で働き、家庭教師をし、ロサンゼルスの工場の流れ作業にも入った。彼自身、工場で働かなければ『時代おくれの人間』は書けなかっただろうと振り返っている。思想は机の上だけで生まれたのではなく、部品のように扱われる労働の現場で、人間が装置に合わせて縮んでいく感覚からも生まれたのである。
この人をただの「亡命哲学者」と呼ぶだけでは足りない。アンデルスは、世界がどう壊れたかを、自分の皮膚で受け取りながら考えた人だった。たとえば工場では、一人の人間が全体の意味を知らないまま、ただ工程の一部だけを受け持つ。テレビの前では、世界の出来事が手元に届いているようで、じつは触れることも変えることもできない。戦争では、命令と装置の中に入った人間が、自分が何をしているのかを最後まで感じないまま、巨大な破壊に加担してしまう。アンデルスがのちに何度も書く「人間は自分の行為に対して小さすぎる」という感覚は、こうした具体的な経験の中から育ってきた。彼の文章に抽象論だけではない切迫感があるのは、そのためである。たんに「技術は危険だ」と言っているのではなく、技術に触れる人間の感覚そのものが、すでに変形していると見ていたのだ。
アンデルスにとって最大の衝撃は、一九四五年八月六日の広島原爆投下だった。彼はその日をアメリカ亡命中に迎え、この出来事に深く打たれた。後年、自分は長いあいだその衝撃から言葉を失っていたと回想している。ここで彼の思索は大きく向きを変える。もともと彼は、人間が世界にうまくなじまない存在だという、哲学的人間学の問いを考えていた。だが原爆以後、その問いはもっと恐ろしい形へ変わった。人間は世界になじめないだけではない。自分の手で、人間のいない世界を作ってしまうかもしれない。これが、戦後アンデルスの中心に据えられた問題だった。核兵器はただ強力な兵器なのではない。人間が、自分の能力の結果を想像する力を失ったまま、地球規模の破局を実行できてしまうという事実そのものが、彼にとって事件だったのである。だから彼は、核を軍事の話としてではなく、人間そのものの尺度が壊れた証拠として論じた。
一九五〇年にヨーロッパへ戻り、ウィーンに落ち着いたアンデルスは、放送の仕事や翻訳で生計を立てながら書き続けた。そして一九五六年、『時代おくれの人間』第一巻を刊行する。この本で彼は、核爆弾とテレビという、一見すると別々の対象を同じ時代診断の中に置いた。なぜそんな組み合わせになるのか。それはどちらも、人間が自分の作ったものに圧倒され、しかもその圧倒をうまく感じ取れなくなっている事態を示しているからである。核爆弾は、人間の破壊能力が想像力を追い越した事例であり、テレビは、世界が家に配達されることで現実への参加が薄れていく事例だった。どちらにも共通するのは、作る力と感じる力のあいだに裂け目が生じることだ。アンデルスの有名な発想である「プロメテウス的羞恥」も、ここで理解しやすくなる。人間は、自分が作った機械の正確さや性能の前で、むしろ自分の不完全さを恥じるようになるのである。
ギュンター・アンデルスは、単なる悲観主義者ではない。もちろん彼の文章には、暗い調子がある。だがそれは、気分として暗いのではなく、見えてしまったものが重かったからだ。人間は進歩によって強くなったはずなのに、その進歩が大きくなるほど、自分の行為に責任を持ちにくくなっている。便利さが増すほど、世界との本当の接触は薄くなっている。能力が高まるほど、想像力と良心は置き去りにされている。アンデルスは、この逆説を考え抜いた人である。だから彼はいま読んでも古びない。スマホ、AI、監視技術、遠隔戦争、環境破壊といった現代の問題もまた、人間が自分の作ったものの規模に追いつけないという点で、アンデルスの問いに接続しているからだ。ギュンター・アンデルスとは、世界が便利になっていくほど、人間のほうは何を失っていくのかを問うた思想家であり、その問いを核の時代から現在まで突きつけ続ける、危険なまでに先の見えていた人なのである。
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