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ルネ・ジラール入門 哲学入門シリーズ159

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第一章 ルネ・ジラールってどんな人?

 ルネ・ジラールは、人間が何を欲し、なぜ争い、どうして集団で誰かを悪者にしてしまうのかを、一つの大きな線で考え抜いた思想家である。哲学者として紹介されることも多いが、出発点はむしろ文学研究にあった。小説を読み、人間の心の動きを追い、その先で宗教や神話や社会の暴力へ踏み込んでいった人だと言ったほうが、彼の輪郭には近い。専門の看板を次々に掛け替えた人というより、一つの問いを追い続けた結果として、文学、思想、宗教、人類学の境界をまたいでしまった人だったのである。

 ジラールは一九二三年、フランスのアヴィニョンに生まれた。アヴィニョンといえば、中世の教皇庁でも知られる土地であり、歴史の厚みを感じさせる町である。そうした場所に生まれたこと自体が、ただちに彼の思想を決めたわけではない。だが、彼が早い段階から歴史や文化に親しみ、のちに人間社会の深い構造へ目を向けていったことを思えば、まったく無関係とも言い切れない。若いころの彼は、最初から宗教思想家として出発したのではなく、歴史や文学に関心をもつ学生であり、のちにアメリカへ渡って研究生活を送る中で、独自の着想を育てていった。

 ここで大事なのは、ジラールが最初から大理論を作ろうとしていたわけではない点である。彼はまず、小説の人物たちがどうしてああも奇妙に欲望し、執着し、嫉妬し、相手に振り回されるのかを見つめていた。たとえば恋愛小説では、ある人物がただ相手を愛しているように見えて、実は別の誰かがその相手に価値を与えていることがある。自分で自分の恋を選んだつもりでも、その恋はすでに他人の視線を通して組み立てられている。ジラールは、こういう現象を単なる心理の癖としてではなく、人間の欲望そのものの仕組みとして捉えようとした。ここに彼の鋭さがある。

 人は普通、自分の欲望は自分の内側から自然に湧き上がると思っている。自分が欲しいから欲しい、自分が好きだから好きだ、と考えるわけだ。だがジラールは、その自明さを疑った。人はしばしば、他人が欲しがっているものを欲しがる。他人が高く評価しているものを、自分も価値あるものとして見る。人気の店に行列ができると、急にその店が特別な場所に見えるのもそうだし、クラスで人気のある人物が急に魅力的に見えるのもそうだ。ある本が名著だと言われると、まだ中身をよく知らなくても手に取ってみたくなる。こうした現象はありふれているが、ジラールはそこに人間の核心が隠れていると考えた。

 この着想が面白いのは、欲望を単独の心の中に閉じ込めないところにある。欲望は自分と対象だけで完結するのではなく、そのあいだに第三者が入り込む。自分が欲しいと思うその前に、誰かがその対象に光を当てている。誰かが欲しがり、誰かが価値を認め、誰かが羨望のまなざしを向けているからこそ、自分の欲望も動き出す。ジラールは、この構図を通して、人間を孤立した個人としてではなく、つねに他人との関係の中で揺れ動く存在として見ようとした。近代社会は個人の自由を強く語るが、彼はその自由の背後に、見えにくい模倣の網が広がっていると見ていたのである。

 しかも、他人を真似ることそれ自体が悪いわけではない。子どもが言葉を覚えるのも模倣だし、技術を身につけるのも模倣だし、尊敬する人の姿勢を学ぶのも模倣である。問題は、その模倣が欲望の領域に入り込み、相手と自分を張り合わせてしまうときだ。憧れていたはずの相手が、いつのまにか自分の邪魔をする存在に見えてくる。手本だった人が、競争相手になる。遠くから見ているうちは英雄だった人が、同じ場で争う位置に来た瞬間に、腹立たしい相手へ変わる。ジラールは、このねじれを人間関係の例外ではなく、むしろ典型だと考えた。友人同士、兄弟同士、同業者同士が、似ているからこそ激しくぶつかるのはそのためだ。

 ここまで来ると、ジラールが単に欲望を語る人ではなく、争いを語る人であることも見えてくる。彼にとって、欲望は最初から平和なものではない。人が同じものを求め、互いを手本にし、相手の視線を通して自分を見始めると、そこに対抗関係が生まれる。しかも厄介なのは、争う者同士が互いを真似し、どんどん似ていくことだ。敵対している二人は、正反対のようでいて、実は同じような言葉を使い、同じような怒り方をし、同じように相手を責める。SNSで口論している人たちが、途中から見分けにくいほど似た調子になっていくのは、その小さな実例だと言える。ジラールは、こうした対立の増幅を、単なる性格の悪さではなく、模倣の構造から説明しようとした。

 彼の思考がさらに大きくなるのは、ここから集団の問題へ進むからである。個人同士の対抗関係が広がり、共同体の中で暴力が連鎖すると、社会は不安定になる。そのとき人々は、ばらばらに争い続ける代わりに、一人か少数の誰かへ敵意を集中させることがある。すると不思議なことに、共同体は一時的な落ち着きを取り戻す。みんなが同じ相手を責めることで、内部の分裂が消えたように見えるからだ。ジラールは、この仕組みをスケープゴートの構造として考えた。つまり彼は、嫉妬や競争の分析から出発して、やがていじめ、迫害、供犠、宗教の成立にまで視野を広げていったのである。

 この展開だけを見ると、ずいぶん大きく飛んだように見えるかもしれない。だがジラールの中では、話はちゃんとつながっている。人が他人を真似して欲望する。すると近い相手ほど邪魔に見え、争いが激しくなる。争いが広がると共同体は危機に陥る。そこで共同体は一人の犠牲者を生み、その犠牲によって秩序を回復する。この一連の流れが、彼の思想の骨格である。だからジラールは、文学者が人間の欲望を見抜いていたことと、古い宗教が暴力を管理していたことを、別々の話とは見なさなかった。どちらも同じ人間の仕組みの別の表れだと考えたのである。

 ジラールの本を読むと、ときどき息苦しさを感じる。なぜなら彼は、人間の理想化された姿をあまり信じていないからだ。人は自由で自発的な個人だ、と近代は語りたがる。自分らしさを大切にしろ、とも言う。だがジラールは、その自分らしさの奥に、他人の真似が深く入り込んでいるのではないかと問いかける。しかもその模倣は、協調より先に対立へ向かうことがある。これは耳に痛い。自分の選択、自分の価値観、自分の夢だと思っていたものが、実は誰かを経由していたのかもしれないからだ。だが逆に言えば、だからこそ彼の思想は強い。きれいごとを言わず、人がどこでつまずき、どこで壊れ、どこで他人を傷つけるのかを真正面から見ようとするからである。

 それでもジラールは、ただ人間を暗く描いて終わる思想家ではない。彼が聖書やキリスト教に強い意味を見たのも、犠牲にされる側の無実がそこでは徐々に明るみに出るからだった。神話の多くは、共同体の側に立って犠牲者を悪者として語る。だが聖書には、迫害される者、追われる者、殺される者の側が見えてくるという。ここには、暴力の仕組みを暴き、それを正当化しない方向への希望がある。ジラールは暴力の思想家であると同時に、暴力の見えにくさを剥ぎ取り、その仕組みを言葉にしようとした思想家でもあった。

 ルネ・ジラールとは結局、何をした人なのか。一言でいえば、人間は自分で欲しているつもりで、実は他人を通して欲していること、人間集団は自分で秩序を作っているつもりで、実は犠牲者を作ることでまとまってきたこと、この二つを鋭く結びつけて示した人である。恋愛の嫉妬から宗教の成立まで、教室のいじめから歴史上の迫害まで、一見ばらばらの現象を一本の線で読めるようにした点で、彼はきわめて独創的だった。ジラールを読むとは、新しい知識を一つ増やすことではない。人間関係そのものの見え方を、少し不穏なかたちで変えられてしまうことなのである。

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