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カイヨワ入門 哲学入門シリーズ160
第一章 ロジェ・カイヨワってどんな人?
ロジェ・カイヨワという名前を聞いて、まず「遊びの分類をした人」と思い浮かべる人は多い。たしかにそれは間違いではない。競争、偶然、模倣、眩暈という四つの型で遊びを整理した仕事は、いまでもよく読まれている。けれども、それだけでカイヨワを説明すると、この人の面白さはかなり取りこぼされてしまう。カイヨワは、遊びだけを論じた人ではない。聖なるものと俗なるものを考え、祭りや禁忌を考え、神話や幻想を考え、さらに晩年には石や鉱物の模様にまで強く惹かれた。ふつうなら別々の棚にしまわれる主題を、一人で平然と横断していく。そこにまず、この人の独特さがある。
では、なぜそんなに主題が広がったのか。理由の一つは、カイヨワが知識を細かい専門の箱に閉じ込めるより、人間そのものの不思議さをつかもうとしたからだ。人は理性的な存在だ、と言うのは簡単である。だが実際には、人は祭りで熱狂し、勝負に夢中になり、運に身を任せ、仮面をかぶり、時には自分を見失うような感覚にすら惹かれる。秩序を作るくせに、その秩序を壊す瞬間にも魅了される。カイヨワは、そうした矛盾を見逃さなかった。人間を、昼の明るい理性だけで説明するのではなく、夜の側、熱狂の側、越境の側からも見ようとしたのである。
若い頃のカイヨワは、シュルレアリスムに接近した。シュルレアリスムは、夢、偶然、連想、無意識といったものを重視し、理性の支配だけでは届かない世界を掘り起こそうとした運動である。カイヨワがそこへ引き寄せられたのは自然なことだっただろう。ただし彼は、ただ幻想に酔うだけの人ではなかった。奇妙なものや不気味なものに惹かれながらも、それを冷静に観察し、社会や文化の中でどう働くのかを考えようとした。ここが重要である。たとえば夢を「不思議だ」で終わらせるのではなく、なぜ人はそうしたものに意味を感じるのかまで考えようとする。その姿勢が、後のカイヨワの仕事全体を支えている。
この姿勢は、聖なるものについて考えたとき、いっそうはっきりする。カイヨワにとって聖なるものとは、単に宗教の中にある何かではない。人が近づきたいのに、気軽には触れられないもの。強く惹かれるのに、同時に恐ろしくもあるもの。そうした両義的な力を帯びた領域である。祭りが盛り上がるのは、ただ楽しいからではない。ふだん禁じられているものが一時的に解かれ、秩序の境目が揺れるからである。たとえば、普段は静かな町が祭礼の日だけ別の顔を見せることがある。人の声が大きくなり、身体の動きも荒くなり、いつもならしない振る舞いが許される。その瞬間に社会は壊れそうでいて、逆に自分の輪郭を確かめてもいる。カイヨワは、そういう危うい均衡に強い関心を持った。
だからこの人は、遊びを論じるときも、単なる娯楽論にはならない。遊びは暇つぶしではなく、人間がどんな存在かを映し出す鏡になる。勝ち負けにこだわる遊びには、競争したい欲望が出る。くじや賭けには、運命へ身を投げたい気分が出る。ごっこ遊びや演技には、別の自分になりたい願いが出る。回転や急降下のような刺激には、自分の感覚をかき乱したい衝動が出る。こうして見ると、遊びは役に立たないどころか、人間の深い部分をむしろあらわにしている。子どもがただ走り回っているだけに見えても、そこには規則を作りたがる気持ちや、規則を破ってはしゃぎたがる気持ちがすでに混じっている。カイヨワは、その何気ない光景の中に、人間社会の縮図を見た。
さらに面白いのは、カイヨワが人間だけを見ていたわけではないことだ。彼は昆虫の擬態にも関心を持ち、後には石や鉱物の模様にも深く魅了された。なぜそんなものを見るのか、と不思議に思うかもしれない。だが、ここにも彼らしい一貫性がある。擬態とは、ある生き物が周囲に似ることで、自分の輪郭を曖昧にする現象である。石の模様は、人間が描いたわけでもないのに、絵のように見えることがある。つまりカイヨワは、人間が世界を意味づけるだけではなく、逆に世界の側が人間を引き寄せ、形づくってくる場面に注目していたのである。自分が世界を見ていると思っていたら、いつのまにか世界の模様に見返されている。そんな感覚を、彼は大切にした。
カイヨワは一つの専門に落ち着くタイプの思想家ではない。むしろ、境界に立ち続ける思想家である。理性と熱狂の境界、秩序と逸脱の境界、現実と幻想の境界、人間と自然の境界。彼はいつも、そのあわいに目を向けた。しかも、その語り方は抽象的すぎて空中戦になるわけでもない。祭り、遊び、仮面、昆虫、石といった、目に見える具体的なものから考え始めるので、読者は入口をつかみやすい。たとえば、ゲームセンターで対戦ゲームに熱くなる人、ソーシャルゲームのガチャに一喜一憂する人、コスプレや演技で別の人格を楽しむ人、絶叫マシンにわざわざ乗りたがる人。そうした光景を並べるだけでも、カイヨワが見ていた問題の多くは、いまなお生きているとわかる。
ロジェ・カイヨワとは「遊びの人」である前に、「人間はなぜ境界を作り、そして越えたがるのか」を考え続けた人である。秩序を愛しながら逸脱にも惹かれること、安定を求めながら眩暈にも魅せられること、現実を生きながら仮面や幻想を必要とすること。そうした人間の二重性を、彼はまっすぐ見ようとした。そのために、宗教も、社会も、遊びも、文学も、自然も、同じ地図の上に置いて考えたのである。カイヨワを読む面白さは、知識が増えることだけではない。自分たちがふだん当たり前と思っている行動の中に、じつは不気味で、華やかで、危うい力が潜んでいると気づかされるところにある。彼は、その気づきを与えてくれる思想家なのである。
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