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マルセル・モース入門 哲学入門シリーズ161

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第一章 マルセル・モースってどんな人?

 マルセル・モースは、一言でいえば、人と人とのあいだをつないでいる見えない力を考えた人である。肩書きとしては、フランスの社会学者であり人類学者ということになる。けれども彼の面白さは、専門名だけでは少しも伝わらない。モースが見ようとしたのは、人間がなぜ物を贈り、なぜ受け取り、なぜ返すのかという、ごく日常的でありながら、よく考えると不思議な問題だった。誕生日に贈り物をもらったとき、人はただ品物だけを受け取っているのではない。そこには好意、期待、関係、場合によっては圧力までが混じっている。モースは、そうした当たり前の場面の中に、社会そのものの仕組みが潜んでいると考えた。

 彼は一八七二年に生まれ、一九五〇年に亡くなった。十九世紀の終わりから二十世紀の半ばにかけて生きた人であり、その時代はヨーロッパが大きく変わっていく時代でもあった。近代国家が力を強め、資本主義が広がり、植民地支配が世界を覆い、学問の世界では人間社会を科学的に理解しようとする動きが強まっていた。人は自由な個人として生きるようになったと言われる一方で、共同体のつながりはゆらぎ、宗教の力も変わり、社会は何によってまとまっているのかという問いが切実になっていた。モースは、まさにその問いのただ中で考えた人である。

 モースを理解するうえで大事なのは、彼が突然ひとりで現れた孤独な天才ではないということである。彼の背後には、エミール・デュルケームという大きな存在があった。デュルケームは、社会は個人の集まりにすぎないのではなく、それ自体として力を持っていると考えた社会学者である。法律、宗教、慣習、道徳のようなものは、個人が好き勝手に作るのではなく、むしろ個人の外から人を形づくる。モースはこの見方を強く受け継いだ。だから彼は、人の行動を心理だけで説明しようとはしない。人が何かを贈るときも、そこにあるのは気分や親切心だけではなく、社会全体の規範や期待だと考える。

 ただし、モースはデュルケームの弟子として従順に同じことを繰り返した人ではない。彼はむしろ、デュルケームの考え方をもっと柔らかく、もっと具体的なかたちで広げていった。社会とは何かという大きな問いを、宗教儀礼、呪術、交換、贈与、身体の使い方のような具体的な場面に下ろして考えたのである。この点でモースは、理論家であると同時に、きわめて観察的な人でもあった。抽象的な言葉を並べるだけではなく、世界各地の習俗や資料を読み込み、人々が何をどうしているのかを手がかりにして、人間社会の深い法則をつかもうとした。

 その姿勢がもっともよく表れているのが、彼の代表作として知られる『贈与論』である。この本でモースは、贈り物とは単なる物の移動ではないと論じた。物を与えることには義務があり、受け取ることにも義務があり、さらに返すことにも義務がある。ここでいう義務とは、警察に捕まるような法律だけではない。断ったら空気が悪くなる、返さなければ気まずい、受け取った以上は何か返さないと落ち着かない、そういうかたちで働く力のことである。たとえば日本でも、お歳暮やお中元をもらったら、何もしないままでは気まずい。結婚祝いをもらえば、お返しを考える。香典をいただけば、香典返しが頭に浮かぶ。そこでは金額や品物だけでなく、人間関係の秩序が動いている。モースは、そうした感覚を一時の気持ちではなく、社会の構造としてとらえた。

 ここで見えてくるのは、モースが単に親切の大切さを語った人ではないということだ。むしろ彼は、善意に見える行為の中に、見えない拘束があることを示した人である。贈り物は人を喜ばせるが、同時に人を縛ることもある。もらった側は、自由に受け取ったつもりでも、すでに関係の中に入っている。だから贈与は、温かい行為であると同時に、力の行使でもある。たとえば豪華な贈り物を一方的に渡されたとき、受け取った側は嬉しいだけでは済まないことがある。自分もそれに見合うものを返さなければならないのではないか、借りを作ったのではないかと感じるからである。モースは、この微妙な感情の動きを、社会の本質に触れる出来事として見た。

 このように書くと、モースは経済の話だけをしているように見えるかもしれない。だが実際には、彼の関心はもっと広い。彼は宗教や呪術にも強い関心を持ち、人が見えないものとどう関わるかを考えた。また、身体の使い方についても重要な文章を書いている。歩き方、泳ぎ方、座り方、食べ方、礼の仕方のようなものは、ただ自然に出てくるのではなく、社会の中で身につけられる技法だというのである。たしかに、同じ人間でも、国や時代が違えば立ち方や挨拶の仕方は違う。スポーツのフォームも、軍隊の歩き方も、学校での座り方も、何となく自然に見えて、実は社会に教え込まれたものである。モースはこの点でも、人間は最初から独立した個人ではなく、社会の中で形づくられる存在だと考えていた。

 だからモースの思想は、哲学と無関係どころか、かなり深いところで哲学に触れている。人とは何か、自由とは何か、社会とは何か、人格とは何かという問いに、彼はいつも別の角度から入り込んでいく。ふつう哲学というと、意識や存在や真理のような大きな言葉を思い浮かべやすい。けれどもモースは、贈り物、挨拶、儀礼、身体の動きのような身近な場面から、人間存在の基本構造を考えた。これは非常に強い方法である。なぜなら人は、抽象的な言葉だけでは自分の生をつかみにくいが、日常の行為からなら、自分が何に縛られ、何に支えられているかを感じ取れるからだ。

 モースの魅力は、現代にもそのまま効いてくるところにある。たとえば、友人にちょっとした物をもらったとき、何か返さないと悪い気がする。SNSで誰かに助けてもらうと、今度は自分も反応しなければと思う。ファンコミュニティで投げ銭をするときも、そこには単純な消費以上の関係が生まれる。企業がノベルティを配るときも、政治家が何かを配るときも、ただ物が移動しているのではない。その背後では、好意、忠誠、期待、義理、名誉といったものが動いている。モースの視点を手に入れると、世界は少し違って見えてくる。人間社会は契約だけでは回っていないし、善意だけでも回っていない。その中間にある、見えにくい義務と関係の網が、人を動かしているのだと気づく。

 しかもモースは、古い社会をただ美化した人でもない。彼は近代社会を否定して未開社会に戻れと言ったのではない。そうではなく、近代人が自分を自由で独立した存在だと思い込みすぎていることに疑いを向けた。私たちは市場で商品を買うとき、自分の意思で合理的に選んでいる気分になる。だが実際には、贈り物の文化、世間の期待、礼儀の感覚、関係を壊したくない気持ちに大きく左右されている。自由だと思っている場所にも、社会は深く入り込んでいる。モースは、その事実を冷静に示したのである。ここに彼の思想の怖さと鋭さがある。

 マルセル・モースという人をひとことで言い表すなら、社会の見えない結び目を見抜いた人、ということになるだろう。人は食べ、働き、話し、贈り、返し、祈り、振る舞う。そのひとつひとつは小さな行為に見える。けれどもモースは、その小さな行為の中に、社会全体の姿が映っていると考えた。だから彼を読むことは、昔の学説を知ることでは終わらない。むしろ、いま自分がどんな関係の中で生きているのかを見直すことにつながる。物を渡しているつもりで、実は関係を渡している。好意を受け取ったつもりで、実は義務も受け取っている。モースは、そんな人間の不思議で厄介で、それでも面白い現実を考え抜いた人なのである。

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