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ホイジンガ入門 哲学入門シリーズ165

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第一章 ホイジンガってどんな人?

 ヨハン・ホイジンガは、一言でいえば「文化そのものの呼吸」を見ようとした人だった。国王がいつ即位したか、どの戦争に勝ったか、そういう出来事だけでは時代は見えない。人々が何を美しいと思い、何を恐れ、どんな儀礼に心を動かされ、どんな遊びや競争に夢中になったのか。そうした目に見えにくいものまで含めて、はじめて時代の顔が見える。ホイジンガは、そう考えた歴史家であり、文化史家だった。

 歴史家というと、年号や事件をきちんと並べる人を思い浮かべやすい。しかしホイジンガの書き方は、それだけではなかった。彼は、昔の人々の心の温度をつかもうとした。たとえば後期中世のヨーロッパを考えるときも、単に政治の変化や経済の発展だけを見るのではない。祭りのきらびやかさ、宗教儀礼の重たさ、騎士道への憧れ、死への強い意識、残酷さと美しさが同時に存在する空気まで描こうとした。そこに、ホイジンガの独特さがある。

 この人を有名にした本のひとつが『中世の秋』である。題名だけ見ると、中世が終わっていく寂しさを語った本のように見える。実際、その感覚は間違っていない。ただしホイジンガは、衰えていく時代を灰色に描いたのではない。むしろ、終わりに近づく時代ほど、感情や形式が濃くなり、色彩が強くなり、象徴が重たくなることを見ていた。秋は春よりも静かだが、色は深い。彼はそういう深まりとして、中世の末期を見ていたのである。

 ここで大事なのは、ホイジンガが「昔はよかった」と単純に言う人ではないことだ。彼は懐古趣味で歴史を書いたのではないし、進歩だけを信じる人でもなかった。進歩には進歩の力がある。だが人間の世界は、合理化されたからそれでよいとは限らない。便利になっても、文化の厚みがやせることがある。制度が整っても、人間の生の手触りが消えることがある。ホイジンガは、そうした違和感にかなり敏感だった。

 その感覚が、のちの『ホモ・ルーデンス』へつながっていく。この本でホイジンガは、人間を「考える人」だけでなく「遊ぶ人」として見直した。ここでいう遊びは、暇つぶしのことではない。祭り、儀礼、競争、詩、法廷のやりとり、名誉をかけた勝負、そうしたものの中にも遊びの構造があると考えたのである。たとえば相撲や将棋を思い浮かべると分かりやすい。どちらも生活に絶対必要な行為ではないが、そこにはルールがあり、形式があり、勝敗があり、独特の緊張がある。そして、その空間に入った人は日常と少し違う顔になる。ホイジンガは、そういう場が文化の核心にあると見た。

 だからホイジンガは、ただの中世研究者でもないし、ただの遊び論の人でもない。もっと大きくいえば、「文化はどうやって成立するのか」を考えた思想家に近い。人間は、食べて働いて生きるだけではない。意味をつくり、形をつくり、象徴を共有し、特別な場を設け、そこにルールを与える。祭りの日にふだんと違う服を着るのも、卒業式で静かに起立するのも、スポーツで開始の合図を待つのも、すべては文化が自分の形をつくる動きだといえる。ホイジンガは、その形の生まれ方を見ていた。

 ここで面白いのは、ホイジンガが「形式」をそれほど軽く見なかったことだ。形式というと、堅苦しいだけのもの、心のこもらない決まりのように思われることが多い。だが彼にとって形式は、文化の容れ物だった。たとえば葬儀では、悲しみそのものは自然に湧く感情だが、どのように沈黙し、どのように弔い、どのような言葉を交わすかには形式がある。その形式があるからこそ、個人の感情は共同体の経験になる。形式は冷たい殻ではなく、ときに人間の感情を支える骨組みでもある。ホイジンガは、その二面性をよく知っていた。

 もちろん、形式は固まりすぎれば人を息苦しくもする。騎士道が生きた倫理であるうちは人を励ますが、見せかけだけのポーズになれば空虚になる。儀礼が共同体を結ぶうちは意味があるが、ただの反射的な動作になれば力を失う。ホイジンガが鋭いのは、文化の美しさだけでなく、文化が硬直していく瞬間にも目を向けたことだ。彼は、文化の花が咲くところと、しおれはじめるところを同じ目で見ようとした。そのため、彼の文章には賛美だけでも断罪だけでもない、独特の陰影がある。

 この陰影の深さは、ホイジンガ自身が人間を単純化しなかったことから来ている。人間は理性的な動物である、という説明はたしかに正しい。しかし、それだけでは足りない。人は見栄を張り、競い合い、仮面をつけ、芝居をし、聖なるものを演出し、意味のある舞台を欲しがる。子どもが「ここから先はお城だ」と言って地面に線を引くと、その瞬間、ただの床が特別な空間に変わる。大人も本当はそれとよく似たことをしている。法廷、競技場、議会、学校の入学式、会社の会議室、どれも境界を引き、役割を与え、一定のルールのもとで別の世界を立ち上げる。ホイジンガは、そのことを見抜いていた。

 だからこの人を理解するには、まず「遊びの人」というラベルを少し疑ったほうがいい。もちろんその呼び方は間違いではない。しかし、ホイジンガにとって遊びは、軽さの話ではなく、文化の根本の話だった。しかも彼は、文化が生き生きするときにも、くたびれていくときにも、そこに遊びや形式や象徴の働きを見ていた。つまり彼は、歴史の表面ではなく、その奥にある人間の身ぶりを読もうとした人なのである。

 ホイジンガという人物をひとことで表すなら、「時代の事件」よりも「時代の気分」をつかんだ人、という言い方がかなり近い。そしてもう一歩進めれば、「文化の本体は、役に立つことだけではできていない」と語った人でもある。人は意味のないように見える儀礼や、役に立たないように見える遊びや、回り道に見える象徴を通して、社会をつくってきた。ホイジンガは、その不思議さを真正面から考えた。だから彼は、過去を研究する人であると同時に、いまの社会を見るための目を与えてくれる人でもある。

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