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ニコライ・ハルトマン入門 哲学入門シリーズ166
第一章 ニコライ・ハルトマンってどんな人?
ニコライ・ハルトマンは、一八八二年にリガで生まれ、一九五〇年に亡くなった哲学者である。二十世紀前半のドイツ語圏ではかなり大きな存在だったのに、今では名前だけ聞くと少し地味に見えるかもしれない。だが、この人はただの難解な学者ではない。哲学が「人間はどうやって知るのか」という問いに偏りすぎたとき、「いや、その前に世界そのものがどうできているのかを見なければだめだ」と言い出した人だった。しかもその言い方は、昔の形而上学にそのまま戻ろうというものではなく、近代哲学を通ったうえで、もう一度存在を考え直そうとするものだった。
この人の出発点には、少し意外なねじれがある。ハルトマンは最初から存在論の人だったわけではない。若いころは、マールブルク学派と呼ばれるネオ・カント派の空気の中で学び、知識の条件や認識の成り立ちを重視する哲学に深く触れていた。つまり、最初は「人間はいかにして対象を知るのか」という近代的な問題設定の内側にいたのである。けれども彼は、その立場の中で考えれば考えるほど、知る側ばかりを見ていては、知られる側の世界の厚みが消えてしまうと感じるようになった。そこで彼は、認識論の優先を退け、存在論を前面に戻そうとした。ここにハルトマンの転回がある。
だから、ハルトマンをひとことで説明するなら、「存在を考え直した哲学者」になる。ただし、その存在は、ぼんやりした神秘のことではない。石があり、植物が育ち、動物が動き、人間が歴史や文化を作る。この世界には、目の前にある物のあり方、生き物のあり方、心のあり方、精神や文化のあり方が、それぞれ違う仕方で重なっている。ハルトマンは、その違いを雑にひとまとめにせず、「世界には層がある」と考えた。石ころと猫は同じように存在していないし、猫と国家も同じようには存在していない。この当たり前のようでいて見落とされやすい違いを、哲学の言葉で丁寧に捉えようとしたのが彼だった。
ここで面白いのは、ハルトマンが派手な革命家タイプではないことだ。彼は、「これですべて解決した」と大声で宣言するより、「この問題はまだ解けていないが、問題の形はここまで見えた」と言うタイプの哲学者だった。彼にとって大事なのは、難問を無理やり消してしまうことではなく、どこが本当に難しいのかを正確に残すことである。この態度は、日常でもわりと役に立つ。たとえば人間関係の悩みで、すぐに答えを決めつけると話が乱れることがあるが、「何が食い違っているのか」を先にはっきりさせるだけで、問題の見え方が変わることがある。ハルトマンは、哲学でもそれをやった。答えを急ぐより、まず問題を壊さないのである。
この慎重さのせいで、ハルトマンはハイデガーのように強い印象の言葉で読者を引きずるタイプではない。だが、そのぶん世界の見方はかなり堅牢である。彼は、人間だけを特別扱いして世界全体をそこから説明しようとはしなかった。むしろ、人間もまた多層的な現実の中に置かれた存在だと見る。無機的なものの上に有機的なものがあり、その上に心的なものがあり、さらに精神的なものがある。ここでいう精神とは、気分や気合いのことではない。言語、制度、法、芸術、歴史のように、個人を超えて成り立つ世界のことである。ハルトマンは、人間を偉そうに中心へ置くのではなく、より大きな現実の中で捉え直した。
しかも彼は、存在論だけの人ではない。倫理学や美学でも大きな仕事をしている。これはかなり重要で、もし存在論だけを扱う人なら、「世界の骨組み」を論じて終わりだったかもしれない。だがハルトマンは、善いとは何か、美しいとは何か、歴史や文化はどのように成り立つのかという問いにも手を伸ばした。つまり彼にとって存在論は、抽象的な骨組みの遊びではなかった。価値や芸術をふくむ現実の厚みを、どうすれば取りこぼさずに考えられるか。そのための土台として存在論が必要だったのである。この順番が大事だ。価値の話を気分の話にしないために、まず存在の層を考えるのである。
伝記を少しだけ見ると、この人の歩みは二十世紀ヨーロッパの不安定さとも重なっている。リガに生まれ、ロシア帝国の空気の中で育ち、のちにマールブルクで学び、第一次世界大戦をはさみながら大学で教え、ケルン、ベルリン、ゲッティンゲンへと場を移していった。こうした移動の中で、彼は一時の流行を追うより、自分の仕事を少しずつ積み上げていった。若いころの著作には古代哲学やプラトンへの関心が見え、成熟期には存在論の大著が並び、さらに倫理学や美学へと射程が広がっていく。人生の流れそのものが、「問題を深めながら領域を広げる」という彼の思考の癖を映しているように見える。
では、なぜ今ハルトマンなのか。答えの一つは、現代が何でも一つの原理で説明したがる時代だからである。脳で説明しようとしたり、経済で説明しようとしたり、言語や権力だけで説明しようとしたりする。もちろん、それぞれ大事な視点ではある。だがハルトマンは、そうした一元的な説明がこぼしてしまうものに敏感だった。生物には生物の法則があり、心には心の法則があり、文化には文化の法則がある。それぞれは下の層に支えられつつも、ただの言い換えにはならない。この発想は、いまでもかなり強い。たとえば恋愛を化学反応だけで語ると何かが抜け落ちるし、逆に気分だけで語っても現実が見えなくなる。ハルトマンは、その両方を避けようとする。
もう一つ、ハルトマンが面白いのは、読んだあとに人へ説明しやすいことだ。もちろん本格的に読むと難しい。だが芯のところは意外とつかみやすい。「世界は一枚岩ではない」「人間の認識より先に、対象はある」「問題は解決できなくても、正しい形で立てられる」「価値はただの好みではない」。この四つを押さえるだけで、ハルトマンの姿はかなり見えてくる。しかもこの四つは、哲学史の知識がなくても、日常の会話へ持ち込める。物事を単純化しすぎる議論に出会ったとき、「いや、その現象には固有の層があるのでは」と言えるだけで、見える景色が変わる。ハルトマンは、そういう言い方を与えてくれる哲学者である。
第一章の最後に、ひとまずこう覚えておけばいい。ニコライ・ハルトマンとは、近代哲学が認識へ傾きすぎたあとで、世界そのものの構造をもう一度見ようとした人である。そしてその世界は、単純な一階建てではなく、何層にも重なった建物のようなものだと考えた人である。一階の柱がなければ二階は立たないが、二階を一階の言葉だけで言い尽くすこともできない。生命、心、精神、価値、芸術。そうしたものを、幻想として切り捨てず、しかし神秘化もしない。この難しい中間の道を歩こうとしたところに、ハルトマンの魅力がある。哲学の本を読んでいるはずなのに、いつのまにか世界の見え方そのものが少し変わる。そこが、この人の入口である。
続く章では、この入口からさらに踏み込み、ハルトマンがなぜ「認識より存在が先だ」と考えたのかを見ていく。そこを越えると、彼がただの存在論者ではなく、近代哲学の癖を知り尽くしたうえで、それでもなお存在へ戻ろうとした哲学者だったことが、もっとはっきり見えてくる。
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