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ハンス・ヨナス入門 哲学入門シリーズ167
第一章 ハンス・ヨナスってどんな人?
ハンス・ヨナスは、二十世紀という激しい時代のただ中で、人間がどこまで世界に責任を持てるのかを考え抜いた哲学者である。あとで見るように、彼は生命とは何か、技術は人間をどこへ連れていくのか、未来の人びとに対して私たちは何を負っているのか、といった重い問いを真正面から引き受けた。だが最初から「環境倫理の人」「責任の哲学者」として出発したわけではない。若いころのヨナスは、古代のグノーシスという宗教思想を研究する人でもあった。世界を嫌い、世界から逃れたいと願う精神のかたちに強くひかれ、その研究を通じて、近代人の心の病まで見ようとしていたのである。
この人物を理解するには、まず彼の人生が、机の上だけで完結したものではなかったことを押さえる必要がある。ヨナスはドイツ系ユダヤ人として生まれ、若いころに哲学と神学を学んだ。学問の世界には、当時のヨーロッパ思想を代表するような大物たちがいた。現象学の流れ、実存の問い、宗教の解釈、そのどれにも彼は触れている。だが二十世紀前半のヨーロッパは、思想の花が咲くだけの穏やかな場所ではなかった。ナチズムが台頭し、ユダヤ人である彼は故郷を離れざるをえなくなる。亡命、戦争、そしてホロコースト後の現実は、ヨナスの思索に深い傷と重みを与えた。
この点はかなり重要である。哲学者というと、抽象的な概念を組み立てる人に見えやすい。だがヨナスは、歴史の暴力に直面した人だった。人間は理性があるから進歩する、知識が増えれば世界はよくなる、そういった近代の明るい約束が、簡単には信じられない時代を生きたのである。高度な知識を持つ社会が、必ずしも人間的になるとは限らない。むしろ高度な知識と組織力が、巨大な破壊に使われることさえある。その現実を知った人間が、のちに技術文明へ強い警戒を向けるようになるのは、自然な流れともいえる。
ヨナスの思想には、初期と後期で扱うテーマが大きく変わったように見えるところがある。初期の彼は、グノーシスという古代思想を研究した。グノーシスでは、この世界は根本的にどこかおかしい、あるいは悪いものだと見なされることが多い。人間の本当の魂はもっと高い世界に属し、この不完全な世界から救い出されなければならない、という感覚がある。現代の感覚に引き寄せるなら、「この世界にはどうしても馴染めない」「本当の自分はここに属していない」と感じるような、鋭い疎外感に近い。ヨナスは、こうした古代の思想を研究しながら、そこに現代人の虚無感とも通じるものを見ていた。
ここで一つ、ヨナスの面白さが出てくる。ふつうなら、古代の宗教思想を研究する人と、現代の技術文明を批判する人は、別の棚に置かれそうである。ところがヨナスは、この二つを深いところでつないでいる。世界を嫌い、世界から逃れようとする精神は、形を変えれば近代にも現れる。自然をただの材料と見なし、この世界を住む場所というより操作対象として扱う態度も、別の意味で世界とのつながりを失っている。世界を愛せない者は、世界を壊すことにも鈍感になる。ヨナスは、そうした危険を早い段階から感じ取っていたように見える。
やがて彼の関心は、生命そのものの意味へと向かっていく。生きものは、ただの物体ではない。石がそこにあるのとは違い、生きものは自分を保ち続けなければならない。栄養を取り、傷つけば回復し、環境の変化にさらされながら、それでもなお生き延びようとする。この「生きようとするあり方」に、ヨナスは大きな哲学的意味を見た。生命をただの機械として片づけてしまえば、人間の精神も価値も、結局は無意味な副産物に見えやすくなる。逆に、精神だけを特別視しすぎると、人間は自然から浮いた存在になってしまう。ヨナスはこの両極端を避け、生きものの中にすでに自由や自己関係の芽があるのではないかと考えた。
たとえば、植物と動物と人間を思い浮かべるとわかりやすい。植物は動きが少なく見えるが、それでも光や水に応じて自分を保とうとしている。動物になると、環境の中を移動し、危険を避け、欲しいものを探しに行く。人間はさらに言葉や記憶、計画を持ち、自分自身を振り返ることができる。ヨナスは、こうした違いを認めつつも、そこにまったく断絶した別世界を見るのではなく、生命から精神へといたる連続を見ようとした。これは、あとで責任を考えるうえでも大切になる。人間だけが突然この宇宙に落ちてきた特別な点ではなく、生命の長い流れの中で、より大きな力を持ってしまった存在なのだという見方につながるからである。
では、ヨナスはどうして「責任」という言葉にたどり着いたのか。ここには二十世紀後半の技術の変化が大きく関わっている。昔の人間の行為は、影響範囲が比較的狭かった。誰かが木を一本切る、村で争いが起きる、ある町で橋をつくる。もちろん昔にも悲劇はあったが、行為の届く範囲は今より限定されていた。ところが現代の技術は違う。工業、兵器、エネルギー開発、医療技術、生物操作などによって、人間は遠い場所や遠い未来にまで影響を及ぼせるようになった。便利さは増したが、同時に、取り返しのつかないことを起こす力も増えてしまったのである。
ここでヨナスは、古い倫理だけでは足りないと考える。たとえば昔ながらの道徳では、目の前の相手をだますな、暴力をふるうな、約束を守れ、といったことが重視される。もちろんそれらは今でも大切である。だが、現代ではそれだけでは不十分だ。まだ生まれていない人たちに、私たちは何をしてよいのか。自然をどこまで改変してよいのか。便利であることは、危険を押しのける理由になるのか。こうした問いは、技術が巨大化した時代になって前面に出てきた。ヨナスは、この新しい状況に応じて、倫理そのものの射程を伸ばそうとしたのである。
そのため、ヨナスの文章には独特の緊張感がある。彼は、のんびりと教養を語るタイプの哲学者ではない。むしろ「人間は自分の力に対して、まだ十分に賢くなっていないのではないか」という不安を強く持っている。火を使えるようになった子どもが、遊び半分で家を燃やしてしまうかもしれないように、現代人は巨大な技術を手にしながら、それをどこまで制御できるか分かっていない。ヨナスは、そうしたアンバランスを見ていた。力だけが先に大きくなり、責任の感覚がそれに追いついていない。その危うさが、彼の思想全体を貫いている。
ここまでを見ると、ヨナスは悲観的な思想家に見えるかもしれない。だが、ただ絶望を語る人ではない。むしろ逆である。彼があれほど強く警告するのは、まだ守るべきものがあると信じているからだ。生命には価値がある。人間の未来には意味がある。自然は、好き勝手に切り刻んでよい単なる在庫ではない。そうした感覚があるからこそ、技術文明への批判も生まれる。何も大切でないなら、責任などという言葉は要らない。ヨナスが責任を語るのは、世界がどうでもいい場所ではなく、引き受けるべき場所だと考えているからである。
このように見ると、ハンス・ヨナスという人物は、一つの肩書きでは収まらない。古代宗教の研究者であり、生命の哲学者であり、技術文明の批評家であり、未来世代への責任を論じた倫理学者でもある。そしてその背後には、亡命、戦争、近代の暴力、科学技術の巨大化という、二十世紀の経験が横たわっている。彼の思想は、どこか一つの論点だけを抜き出すと平板になる。グノーシス研究だけでは古代思想の専門家に見え、責任倫理だけでは環境問題の論客に見える。だが本当は、世界を見失った精神から出発し、生命の意味をたどり直し、そのうえで未来への責任へ到達した思想家なのである。
ヨナスを読む意味は、単に昔の哲学者を一人覚えることではない。人間は世界の中でどう生きるべきか、自分の力をどう制御すべきか、という問いを自分のものとして持ち直すことにある。便利さが増すほど、選択の幅は広がる。だが選択の幅が広がるということは、失敗の規模も大きくなるということでもある。ヨナスは、その当たり前でいて見落とされやすい事実を、重く鋭く示した。彼は「できること」と「してよいこと」は同じではないと考えた哲学者だったのである。
第一章ではまず、ハンス・ヨナスを、戦乱の世紀を生きながら世界と責任の意味を考えた人物としてつかんでおけばよい。彼は人間の弱さを見た。だが同時に、人間がなお引き受けることのできる責任も見ようとした。そのために、古代の宗教思想を読み、生命の姿を考え、現代技術の危うさを問い続けた。ヨナスとは、世界に絶望しきらず、それでも甘くも見ず、壊せるだけの力を持ってしまった人間に向かって、ではどう生きるのかと問い直した哲学者なのである。
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