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ストローソン入門 哲学入門シリーズ169
第一章 ストローソンってどんな人?
ピーター・F・ストローソンは、二十世紀のイギリスを代表する哲学者のひとりである。名前だけ聞くと、いかにも専門家のための難しい哲学者に見えるかもしれない。だが、彼が考えていたことの中心には、とても身近で、誰にでも関わる問いがある。私たちは、ふだん言葉を使って世界のことを語っている。あの人、この机、昨日の出来事、自分の気持ち、他人の責任。そうしたものを、私たちは当たり前のように指し示し、理解し、判断している。ストローソンは、その当たり前がどうして成り立っているのかを、きわめて粘り強く考えた哲学者だった。
彼は一九一九年に生まれ、オックスフォードを中心に活動した。二十世紀の英米哲学では、言葉をきちんと分析することで哲学上の混乱をほどこうとする流れが強かった。ストローソンもその流れの中にいる。ただし、彼は単に言葉尻を細かく点検する人ではない。言葉の使い方を調べることを通じて、私たちがそもそもどんな世界の見取り図の中で生きているのかを明らかにしようとした。だから彼の仕事は、言語哲学に属しているようでいて、実は形而上学や認識論や倫理学にも深くつながっている。言葉の話をしていたはずなのに、いつのまにか人間とは何か、責任とは何か、世界とは何かという大きな問いに届いている。そこがストローソンのおもしろさである。
ストローソンを理解する入口として有名なのが、ものを指すとはどういうことか、という問いである。たとえば「いまのフランス国王はハゲである」という文を考えてみる。この文は、文の形だけ見れば、何かについて述べている普通の文に見える。だが、いまフランスに国王はいない。ではこの文は偽なのか、それともそもそも話がうまく成立していないのか。ここに、言葉と世界の関係をどう考えるかという大きな問題が隠れている。ストローソンは、文をただ論理式として処理するだけでは、この種の言語の働きはうまく捉えられないと考えた。言葉は、誰かが、ある場面で、何かを前提しながら使うものである。つまり、言葉は生きた行為でもある。この視点が、彼の哲学の出発点のひとつになっている。
ただし、ストローソンは日常会話の観察だけで満足する人ではなかった。彼はさらに、私たちが世界を理解するときの基本的な枠組みそのものへ目を向けた。私たちは、世界をばらばらの感覚の集合として受け取っているのではない。物があり、人がいて、同じものが時間の中で持続し、場所を占め、ほかのものと関係する世界として経験している。昨日見た机と今日見た机を、同じ机だと考える。向こうから歩いてくる人を、さっきまで電話していた相手と同じ人だとみなす。こうしたことができるからこそ、私たちは世界の中で暮らせる。ストローソンは、このような見方を偶然の癖ではなく、人間の経験の基本構造として考えた。世界を理解するための骨組みが、私たちにはすでにある。その骨組みを描き出す仕事を、彼は「記述的形而上学」と呼んだ。
この発想は、哲学にありがちな、世界の本当の姿は日常感覚とは全然違うのだ、という方向とは少し違う。もちろん哲学には、常識を疑い、見慣れた世界像を壊す仕事もある。だがストローソンは、その前にまず、私たちが実際にどんな概念の網の目の中で物事を理解しているのかを見ようとした。たとえば、人間を考えるときもそうである。人はただの肉体なのか、ただの心なのか。ストローソンは、どちらか一方に還元する考え方に慎重だった。私たちはふつう、他人を単なる物体としてではなく、考えたり感じたり責任を負ったりする存在として扱う。同時に、そうした心のはたらきは、空中に浮かぶ霊ではなく、この身体をもつこの人のものとして理解される。つまり「人」という概念は、心と身体の両方をまとめて担う独特の位置をもっている。ここでも彼は、私たちのふだんの理解の仕方を、哲学的に掘り下げているのである。
ストローソンのよさは、派手な革命家ではないところにもある。ニーチェのような強い断言で読者を揺さぶるタイプではないし、ハイデガーのように独特の語彙で世界を組み替えるタイプでもない。むしろ、すでに私たちが知っているつもりでいることを、静かに、しかし容赦なく見直させる。そこには地味さがある。だが、その地味さは弱さではない。たとえば、他人を責めるとはどういうことか、という問題を考えたとき、彼は自由意志の抽象理論だけを見なかった。私たちが現実に、怒り、感謝し、失望し、許し、期待する、そういう人間同士の感情のやりとりに目を向けた。人を責任ある存在として扱うとは、どんな理論を信じるかだけでなく、どんな関係の中で生きるかにかかっている。この見方は、哲学を机上の理屈から人間の現実へ引き戻す力をもっている。
ストローソンの文章や議論には、冷静さがある。だがその冷静さは、世界に無関心だからではない。むしろ逆で、私たちが世界の中でどうやって足場を確保しているのかを、本気で大事にしているからこそ、安易に話を飛ばさないのである。目の前のコップを指して「これ」と言うとき、そこには指差しだけでなく、相手と世界を共有しているという前提がある。友人に「彼はひどいことをした」と言うとき、そこには行為だけでなく、責任や期待や失望の網の目がある。ストローソンは、こうした何気ない場面の下に、じつは人間の世界理解の深い構造があることを示した。彼の哲学は、日常の言葉を軽く見るどころか、その中に人間の世界そのものが映っていると考える哲学なのである。
ストローソンを「分析哲学の人」とだけ覚えるのでは足りない。彼は、言葉を調べた人であると同時に、世界の骨組みを描いた人であり、人を人として扱うとはどういうことかを考えた人でもある。何かを指すこと、同じものとして認識すること、他人を責任ある人格として受け止めること。そうした一見ばらばらに見える問題が、彼の中ではつながっている。世界はただ目の前に転がっているのではない。私たちは一定の概念の枠組みの中で世界を経験し、その中で人と関わり、言葉を使い、判断している。ストローソンは、その見えにくい骨組みを照らし出した哲学者だった。
この意味で、ストローソンは派手な答えをくれる哲学者ではない。むしろ、すでに使っている言葉や、すでに生きている世界を、もう一段深く見させる哲学者である。そして、その一段の深まりが強い。ものを指すとは何か、人とは何か、世界を理解するとは何か、責任をもつとは何か。こうした問いは、哲学の教科書の中だけにあるのではない。会話の中にも、怒りの中にも、約束の中にも、思い出の中にもある。ストローソンは、そのことを静かに、しかし確実に教えてくれる。彼を読むとは、難解な専門家の議論に耐えることではない。自分がすでに生きているこの世界の、見えにくい設計図を読みはじめることなのである。
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