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龍樹入門 哲学入門シリーズ176

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第一章 龍樹ってどんな人?

 龍樹という名前は、仏教を少しでも学ぶと、かなり早い段階で出会うことになる。けれども実際にその人がどんな人物だったのかと問われると、急に輪郭がぼやける。生没年ははっきりせず、一般には二世紀ごろのインドで活動したと考えられているが、出身地や生涯の細部には不確かなところが多い。伝記らしい伝記が十分に残っていないからである。それでも龍樹は、仏教思想の歴史のなかで、とびぬけて大きな存在として扱われてきた。理由は単純で、この人が仏教の核心にある縁起や無我を、だれも忘れられない鋭さで言い直したからである。

 伝説のなかの龍樹は、どこか超人的ですらある。ある話では、若いころに術を使って王宮へ入り、そこで大きな事件に巻き込まれた末に、世のはかなさを知って出家したとされる。また別の話では、龍宮から深遠な経典を持ち帰ったとも語られる。このため龍樹という名そのものに、神秘的な響きがつきまとう。だが大事なのは、これらの伝説をそのまま史実として受け取ることではない。むしろ後の人びとが、龍樹をただの学者ではなく、仏教の深部に触れた特別な人物として記憶した、という事実のほうが重要である。伝説は事実の代用品ではないが、その人物がどう受け止められたかを示す鏡にはなる。

 では思想の側から見たとき、龍樹はどんな人なのか。ひと言でいえば、ものごとを実体としてつかもうとする人間の癖を、徹底して問い直した思想家である。人はふつう、目の前の机や石や身体だけでなく、自分の心や性格や立場についても、何か変わらない芯があるように感じる。原因と結果にも、どこかでしっかりした接続部分があると思いたがる。龍樹は、そうした見方に向かって、本当にそれはそれ自体で立っているのかと問い返した。しかもこの問い返しは、単なる言葉遊びではない。私たちが苦しみ、執着し、対立し、恐れるとき、その奥にはたいてい、固定した何かをつかみたい気持ちがひそんでいるからである。

 龍樹の有名さは、「空」という言葉と結びついている。だがここでいう空は、何もないという意味ではない。物事が独立した実体としては成り立たず、つねに条件と関係のなかで生じているという見方である。たとえば一台の車を考えてみればよい。車はエンジンでもなければ、タイヤだけでもない。座席でもハンドルでもなく、それらの部品が一定の関係で組み合わさり、人が使い、社会の制度のなかで意味を持つことで、はじめて車として成り立つ。もしそのどこかに、車そのものの絶対不変の本体があると思うなら、龍樹はそれはどこにあるのかと問うだろう。部品のどれかか、部品の総和か、名前か、機能か。その問いは、私たちの思考の足場を静かに揺らす。

 この揺らし方に、龍樹の個性がある。彼は新しい実体を立てて古い実体を壊す人ではない。かわりに、私たちが無意識に置いてしまう前提を、ひとつずつ取り外していく。だから龍樹の文章は、何か壮大な世界像をどんどん積み上げるというより、積み上がったものを崩しながら、本当に必要な見方だけを残そうとするように見える。読んでいると、ときに冷たく感じるほど論理的である。だがその冷たさは、相手を打ち負かすためのものではない。熱に浮かされた頭を冷やし、見えているつもりのものが本当に見えているのかを確かめるための冷たさである。医者が患部を切るときの刃物のように、目的は破壊ではなく治療にある。

 ここで重要なのは、龍樹が仏教の外に立って仏教を批判したのではなく、むしろ仏教の根本を守るために、その言い方をいっそう厳密にしたという点である。仏教にはもともと、すべては縁によって生じるという縁起の考えがあった。自己もまた固定した実体ではないという無我の考えもあった。ところが思想が発達していくと、人はその教えを整理し、分類し、説明しようとする。その過程で、かえって目に見えない実体のようなものを置いてしまう危険がある。龍樹は、その危険を見抜いた人だった。仏教を守るために、仏教のなかに入り込んだ実体化の癖と戦ったのである。その意味で彼は、反逆者というより、原点回帰を極端な精度で遂行した人だったといえる。

 また龍樹は、ただ否定するだけの虚無主義者でもない。これも大きな誤解である。たしかに彼の議論は、原因、運動、時間、自我、生成、消滅など、ほとんどあらゆる主題に向けられる。そして読者は、ここまで否定して最後に何が残るのかと不安になる。だが龍樹が残そうとしたのは、何も信じない荒野ではない。関係のなかで成り立つものを、関係のなかで受け取るための柔らかい知性である。ものを固定しないからこそ、変化に対応できる。自分を絶対化しないからこそ、他者との関係も見直せる。空は世界を消す思想ではなく、世界を硬直した見方から解放する思想なのである。

 こうして見ると、龍樹は神秘家であると同時に、きわめて現実的な人でもある。伝説では龍宮に出入りし、後世には菩薩のように仰がれた。だが思想の実際は、驚くほど地に足がついている。言葉の使い方を吟味し、思考のほころびを見つけ、執着がどこで生まれるかをたどる。その作業は、豪華な宗教的感情だけではできない。相当に忍耐強く、しかも人間の思い込みに深い関心を持つ人物でなければ不可能である。龍樹は、世界の秘密を一気に語る預言者というより、人間がなぜ誤ってつかむのかを見抜いた観察者だった。その観察の鋭さが、二千年近くたった今でも、なお読む者の思考を突き崩す。

 龍樹を理解する第一歩は、この人を単なる「空の哲学者」として覚えることではない。そうではなく、実体視という人間の癖を見抜き、それをほどくことで、仏教の核心をもう一度生かそうとした人としてつかむことである。彼は何もかもを否定した人ではない。むしろ、誤ったつかみ方を否定することで、世界との正しい関わり方を開こうとした人だった。龍樹が大きいのは、深いことを言ったからだけではない。人がものを考えるとき、どこでつまずくのかを知っていたからである。その意味で龍樹は、単なる古代インドの思想家ではない。今もなお、私たちの思考の癖を照らし返してくる、危険なほど鋭い案内人なのである。

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