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ハーバート・スペンサー入門 哲学入門シリーズ181

第一章 ハーバート・スペンサーってどんな人?

 ハーバート・スペンサーは、一八二〇年にイングランドのダービーで生まれた思想家である。いまでは「適者生存」という強い言葉で覚えられやすいが、彼の仕事はそれだけではない。哲学、心理学、生物学、社会学、倫理学をばらばらの分野としてではなく、ひとつの流れとしてまとめようとした、きわめて大きな構想の持ち主だった。十九世紀の知的世界では重要人物であり、その名声は当時ダーウィンに並ぶほどだったとされる。つまりスペンサーは、単に刺激的な標語を残した人ではなく、世界全体を説明しようとした体系家だったのである。

 彼の出発点は、いわゆるエリート教育ではなかった。父は学校教師だったが、家の思想的空気はかなり非国教会的で、権威に素直に従うより、自分の頭で考えることを重んじていた。スペンサー自身もケンブリッジ大学へ進む道を取らず、読書と独学を通して知識を身につけた。若いころには鉄道の土木技師として働き、その後はジャーナリズムと政治的著述へ向かっていく。この経歴は重要である。というのも、彼は最初から大学の講壇で抽象理論を磨いたというより、社会の現場や技術の感覚を持ちながら、そこから思想を組み上げた人だからだ。思想家である前に、現実の仕組みに強い関心を持つ観察者だったのである。

 では、スペンサーは何を考えた人なのか。ひとことで言えば、「世界はどのように発展し、複雑になっていくのか」を、あらゆる分野にわたって説明しようとした人である。彼は生物だけでなく、人間の心、道徳、社会制度まで、進化という観点から捉えようとした。ここでいう進化は、ただ生き物が変化するという話ではない。単純なものが複雑なものへ、均質なものが異質なものへ移っていく、そうした大きな変化の法則として理解されていた。たとえば、小さな村が分業の進んだ都市になるとき、そこでは役割が細かく分かれ、関係が入り組み、社会全体の構造が複雑になる。スペンサーは、そうした変化を自然界と社会の双方に見ていた。

 そのため彼は、自分の思想を部分的な論文の寄せ集めとしてではなく、「総合哲学」という大きな仕事として構想した。科学がそれぞれの分野で見つけた知見を、さらに上の水準で結び直し、世界の全体像を描こうとしたのである。中世に神学が世界の秩序を一つにまとめようとしたなら、近代以後には科学を軸にした新しい統一が必要になる。スペンサーはそう考えた。生物学の話だけをする人でもなく、政治哲学だけをする人でもなく、学問の地図そのものを描き直そうとした点に、彼の野心がある。だからスペンサーを読むとは、ひとりの意見を知ることではなく、十九世紀の知性がどこまで「全部をつなげよう」としたかを知ることでもある。

 ただし、スペンサーはしばしば誤解される。「適者生存」という表現を作ったのは彼であり、そのため後世では、強い者が弱い者を押しのける思想の代表のように扱われてきた。たしかに彼は国家の介入に批判的で、個人の自由と権利を重く見た。しかし、現在の研究では、スペンサーを粗雑な社会ダーウィニストとしてだけ片づけるのは不正確だとされる。彼は単純に「強い者が勝てばよい」と言いたかったのではない。むしろ、社会がより自発的で平和的な協力へ向かうには、個人の自由が守られなければならないと考えていた。つまり彼の議論は、冷酷な競争礼賛として読むだけでは足りず、自由、権利、進歩、秩序がどう両立するかという難問への答えとして読まねばならない。

 この点は、彼の政治思想を見るとよく分かる。スペンサーは、政府の役割を個人の権利保護にかなり限定して考えた。教育、宗教、経済、福祉などに国家が広く介入することには、強い警戒を示した。その背景には、権力は善意であっても膨張しやすく、個人の自由を侵食するという見方がある。彼にとって法とは、自由を守るために最低限だけ認められる制約だった。ここだけ見ると、ずいぶん極端に思えるかもしれない。だが彼の目には、命令と統制で動く社会より、契約と自発的協力で成り立つ社会のほうが、長い目で見て成熟した社会に映っていた。のちに彼が軍事型社会と産業型社会を対比するのも、この発想の延長にある。

 さらに面白いのは、スペンサーが科学を重んじながら、世界のすべてを人間が知り尽くせるとは考えなかったことである。彼は、経験によって確かめられるものを重視したが、同時に究極の実在については人間知性の限界を認めた。宗教的教義には批判的でも、世界の最終的な根拠を軽々しく知ったとは言わない。この姿勢は、単純な科学万能主義とも違う。何でも説明できると信じるのではなく、説明できる範囲を広げつつ、なお説明の届かないところがあると認める。その意味でスペンサーは、科学の時代に生きながら、知の傲慢さにも警戒していた思想家だった。

 スペンサーという人を最初に押さえるなら、まず三つの顔を覚えるとよい。第一に、世界をひとつの原理でつなごうとした体系家。第二に、個人の自由と権利を強く擁護した自由主義者。第三に、進化の思想を社会へ広げたことで、賞賛と誤解の両方を引き受けた論争的人物。この三つは別々ではなく、全部つながっている。社会はどう発展するのか。個人はなぜ尊重されるべきか。国家はどこまで介入してよいのか。人間は何を知れるのか。スペンサーは、そのすべてを一枚の地図に描こうとした。第一章でまず見ておきたいのは、彼が「ひとつの危険な言葉の人」ではなく、「近代そのものを説明しようとした人」だということである。

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