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オーウェル入門 哲学入門シリーズ182
第一章 オーウェルってどんな人?
ジョージ・オーウェルは、権力が人間をどう変えるかを執拗に見つめた作家である。本名はエリック・アーサー・ブレアといい、一九〇三年に英領インドで生まれた。小説家として有名だが、ただ物語を書いた人ではない。帝国の支配、貧困の現実、革命の裏切り、政治と言葉の腐敗を、身をもって知ったうえで文章にした人だった。だからオーウェルを読むときは、名文家とか予言者とかいう肩書きだけでは足りない。彼は、近代社会の病気を体で診断した作家だったと考えたほうがよい。
オーウェルの出発点には、帝国の時代がある。父はインド帝国の役人で、家は大富豪ではないが下層でもない、いわば中流のはしにぶら下がるような位置にあった。彼自身はイングランドで育ち、奨学金で名門校に進んだが、そこでは支配する側の文化を学びつつ、自分が完全な特権階級ではないことも痛感した。この感覚は重要である。外から排除される者の痛みと、内側に入り込んだ者の息苦しさを、彼は両方知っていたからだ。のちにオーウェルが、ただの成功者の言葉ではない奇妙な切実さを持つのは、この半端な位置に長く立たされていたからでもある。
若い頃の彼は大学へ進まず、ビルマで帝国警察として働いた。ここで彼は、支配する側の制服を着た。だがその経験は、帝国への誇りではなく嫌悪を深めることになる。支配者は強そうに見えるが、実は支配される人々の視線に縛られている。命令する側に見えても、制度の役を演じる機械になってしまう。オーウェルはそのことを、のちに「象を撃つ」という有名な文章で描いた。周囲の期待に押され、本当は撃ちたくない象を撃ってしまう話である。ここで描かれているのは、単なる植民地警察の苦悩ではない。権力を持つ者もまた、権力の芝居から逃げにくいという逆説である。
ビルマから戻ったあと、彼はあえて貧しい暮らしの現場へ近づいていく。パリで皿洗いをし、ロンドンで浮浪者に混じって暮らし、労働者街にも足を運んだ。ふつうなら隠したいはずの転落や惨めさを、彼は観察の材料に変えた。ここで育ったのが、貧困を抽象語にしない眼差しである。貧困とは、金が足りないというだけの話ではない。部屋が寒いこと、服が擦り切れること、身体の匂いを気にすること、自分の声が社会で軽く扱われること、そうした細部の積み重ねとして現れる。たとえば腹が減ることそれ自体より、腹が減っている人間として見られることの屈辱のほうが、時には人を深く傷つける。オーウェルはそういうところを見逃さなかった。
この頃から彼は、社会主義に強くひかれるようになる。ただしそれは、教科書の理論に酔ったからではない。不公平な社会を見て、これではいけないと思ったからである。ところが彼は、左翼の陣営に入れば満足した人でもなかった。知識人がきれいな言葉で民衆を語りながら、実際には民衆を軽蔑していることも見抜いていた。オーウェルの文章がいま読んでも生きているのは、この二重の視線のためだ。彼は右を批判したが、左であれば何でも許したわけではない。不正には反対する、だが味方の不正も見逃さない。その厄介さが、オーウェルという人間の骨格になっている。
彼を決定的に変えたのは、スペイン内戦だった。ファシズムに抵抗するために現地へ行き、義勇兵として戦い、喉を撃たれ、さらに反ファシズム側の内部で起きる弾圧や粛清を目の当たりにした。ここで彼は、政治の恐ろしさを一段深く理解した。敵が嘘をつくのは分かりやすい。だが本当に恐ろしいのは、正義を掲げる味方もまた、平気で事実をねじ曲げることだ。昨日まで英雄だった人間が、今日には裏切り者として新聞に書かれる。現場で見たことと、紙面に載ることが食い違う。そのとき壊れるのは名誉だけではない。現実そのものが壊れ始める。後の『動物農場』や『一九八四年』の核心は、すでにこの体験のなかにある。
オーウェルが大作家として世界に刻まれるのは、晩年の二冊によってである。『動物農場』は、革命がどう腐っていくかを寓話の形で描いた。『一九八四年』は、監視と恐怖と改竄によって、人間の内面まで支配しようとする社会を描いた。だが、この二冊だけを取り出して読むと、オーウェルが突然未来を予言したように見えてしまう。それは半分しか当たっていない。彼は空想だけで恐怖を作ったのではない。植民地支配を見た、貧困を歩いた、戦争と宣伝をくぐった、その果てにあの小説へたどり着いたのである。だから彼のディストピアは妙に具体的で、作り物めいていない。悪夢なのに、役所の廊下みたいな手触りがある。
オーウェルを語るとき、もう一つ外せないのが言葉への感覚である。彼は、政治が堕落すると言葉が濁ると考えた。曖昧な言い回し、大げさな抽象語、責任を隠す受け身の文、そういうものが増えると、人は自分が何をしているのか分からなくなる。たとえば「人を殺した」と言わず「必要な処置を行った」と言い換えれば、残酷さは急に見えにくくなる。言葉は現実を説明する道具だが、同時に現実を隠す幕にもなる。オーウェルはこの危険を早くからつかんでいた。だから彼の文章は、できるだけ明るい場所に物を置こうとする。難しいことを、わざと難しく書く人ではない。むしろ難しいことほど、逃げずに平明な言葉で書こうとした。
ではオーウェルとは、結局どういう人だったのか。ひとことで言えば、政治に巻き込まれた文学者であり、文学を手放さなかった政治的作家である。彼は思想家のように考え、記者のように観察し、小説家のように形を与えた。しかもその三つを、別々の仕事としてではなく一つの仕事としてやった。現実を見て、言葉を疑い、権力を恐れ、それでも真実を書こうとした。そのため彼の作品は、時代を越えて参照される。監視社会を語るとき、プロパガンダを批判するとき、革命の腐敗を論じるとき、人は今でもオーウェルへ戻ってくる。オーウェルは、二十世紀の事件を書いた作家であると同時に、現代人が何度も使う概念の供給源でもある。
この章の入口でオーウェルを作家と呼んだが、読み終えた今なら、それだけでは足りないことが分かるはずだ。彼は物語を書いた人であり、社会を観察した人であり、言葉の健康を守ろうとした人でもあった。しかもそれらは全部つながっている。帝国を見たから、権力に敏感になった。貧困を歩いたから、きれいごとを信用しなくなった。戦争を経験したから、正義の名で行われる嘘を疑うようになった。言葉の腐敗を見たから、文章の明晰さを倫理の問題として考えた。オーウェルとは、現実の泥に足を突っ込みながら、そこから真理という言葉を救い出そうとした人だったのである。
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