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カンギレム入門 哲学入門シリーズ187
第一章 カンギレムってどんな人?
朝起きたとき、体が少し重いと感じることがある。熱を測ってみると、三十六度八分だった。数字だけ見れば、たぶん大きな異常ではない。けれども、自分の感覚では、いつもの朝とは違う。頭の奥がぼんやりして、肩のあたりが硬く、布団から出るのにいつもより時間がかかる。では、この人は健康なのだろうか。それとも、もう病気なのだろうか。
逆のこともある。健康診断で、血圧や血糖値や肝機能の数値に注意がつく。本人はとくに苦しくない。食事もできるし、歩くこともできるし、生活もそれなりに回っている。それでも紙の上には「基準値外」と書かれる。すると急に、自分の身体が不安なものに見えてくる。昨日まで普通に使っていた身体が、検査結果を見た瞬間に、どこか故障した機械のように思えてくる。
この違和感の中に、ジョルジュ・カンギレムの入口がある。カンギレムは、身体をめぐるこうした素朴な問いを、医学と哲学のあいだで考え抜いた人である。健康とは何か。病気とは何か。正常とは、ただ平均値に近いことなのか。異常とは、ただ基準から外れることなのか。こうした問いは、病院だけのものではない。学校、職場、家庭、社会の中で、人はいつも「普通」「正常」「大丈夫」という言葉に囲まれて生きている。
たとえば、風邪を引いたときのことを考えてみる。熱が出て、食欲が落ちて、体がだるくなる。医者は症状を見て、必要なら薬を出す。ここまでは普通の医療の話である。けれども、病気のあいだ、人は世界の感じ方そのものも変わる。いつもの階段が長く感じられ、明るい部屋がまぶしくなり、誰かの声が少しつらくなる。身体の状態が変わると、世界の広さや重さまで変わる。病気とは、ただ体内の数値が変わることではなく、その人が生きている世界の形が変わることでもある。
カンギレムが見ていたのは、まさにこの部分だった。彼は、病気を単なる「正常からのズレ」として片づけることに疑問を持った。もちろん、医学的な測定や診断を否定したわけではない。熱を測ること、血液を調べること、臓器の状態を見ることは、医療にとって欠かせない。しかし、それだけでは病気を十分に理解したことにはならない。病気になるとは、その人の生活の仕方、動ける範囲、耐えられる刺激、望める未来が変わることでもある。
ジョルジュ・カンギレムは、一九〇四年にフランスで生まれ、一九九五年に亡くなった哲学者である。彼は、ただ机の上で生命を考えた人ではない。哲学を学びながら医学も学び、医師としての知識を持ち、科学史や医学史を研究した。代表作として知られるのが『正常と病理』である。この題名だけを見ると、専門家向けの医学哲学の本に思えるかもしれない。けれども、その奥にある問いは驚くほど日常的である。人は、どのようなときに自分を健康だと思うのか。どのようなときに、自分を病気だと感じるのか。
普通、正常という言葉を聞くと、多くの人は平均を思い浮かべる。平均体温、平均身長、平均血圧、平均寿命。数字の世界では、平均から大きく外れたものは異常と呼ばれやすい。これは便利である。多くの人の状態を比較し、危険な変化を見つけるためには、基準が必要だからである。けれども、カンギレムはそこで立ち止まる。平均に近いことと、生きやすいことは同じなのか。基準値内にいることと、健康であることは同じなのか。
ここで大事になるのが、カンギレムの「規範性」という考え方である。難しく聞こえるが、まずは「生命が自分なりの基準を作る力」と考えればよい。人間の身体は、ただ外から決められた基準に従って動く機械ではない。暑ければ汗をかき、寒ければ震え、疲れれば眠くなり、傷つけば治ろうとする。しかも、その反応の仕方は一人ひとり違う。ある人にとっては平気な運動量が、別の人には負担になる。ある人にとっては普通の食事が、別の人には体調を崩す原因になる。
つまり、生命はただ測られるものではなく、自分の置かれた環境の中で、自分なりの「普通」を作っている。ここがカンギレムの発想の面白いところである。正常とは、どこか外にある一本の線ではない。生命が環境の中で作り出す、生きるための基準である。そして病気とは、その基準が壊れて何もなくなることではなく、別の狭い基準の中で生きざるをえなくなることである。
たとえば、足を痛めた人は、以前と同じようには歩けない。階段を避け、歩幅を小さくし、外出の予定を減らす。その人は、単に「正常な歩行能力を失った」のではない。痛みのある身体で生きるために、新しい動き方を作っている。もちろん、それは望ましい状態ではない。苦痛もあり、不自由もある。けれども、そこにも一つの秩序がある。病気や障害の中にも、その人なりの生活の組み立てがある。カンギレムは、そこに生命の働きを見ようとした。
この考え方は、健康の見方も変える。健康とは、ただ検査に引っかからないことではない。何が起きても一切乱れない身体のことでもない。むしろ健康とは、多少乱れても、また別の仕方で立て直せる力である。風邪を引いても休めば戻れる。生活が変わっても、少しずつ新しいリズムを作れる。失敗しても、別の道を探せる。生命にとって健康とは、固定された完全さではなく、変化に応じて自分の規範を作り直せる余裕なのである。
だからカンギレムは、生命を機械のように見る考え方に慎重だった。機械なら、設計図通りに動くことが正常であり、そこから外れれば故障である。だが、人間の身体は設計図だけでは語れない。生きている身体は、環境とぶつかり、傷つき、慣れ、回復し、時には以前とは違う状態を自分の普通にしていく。人間は壊れた部品を交換すれば元通りになる装置ではない。生きるとは、いつも少しずつ自分の基準を作り替えることなのである。
カンギレムが哲学史や科学史の中で重要なのは、医学の中に隠れていた価値の問題を見つけたからである。医学は客観的な事実を扱う。これは確かである。しかし「この状態は治すべきだ」「この状態は苦しい」「この状態はよい」と判断するとき、そこには価値が入っている。数値だけでは、何がその人にとって耐えがたいのかは分からない。患者が「つらい」と言うとき、その言葉は医学の外にある雑音ではない。むしろ、病気とは何かを考えるための重要な手がかりである。
この意味で、カンギレムは読者の日常にも深く関係している。自分は普通なのか。自分は正常なのか。人と同じように動けない自分は、どこか壊れているのか。そう感じたことのある人にとって、カンギレムの思想は一つの見方を与えてくれる。正常とは、みんなと同じ形に収まることではない。生命が、自分の条件の中で生きるための基準を作ることである。病気や弱さは、単なる欠陥としてだけでなく、別の仕方で世界に適応しようとする生命の姿としても考えられる。
もちろん、カンギレムは病気を美化したわけではない。苦痛は苦痛であり、不自由は不自由である。治療が必要な状態はあるし、医学の力が人を救うこともある。けれども彼は、病気の人を単なる失敗した正常として見なかった。病む人もまた、生命として世界に向き合い、自分の規範を作ろうとしている。その視点があるだけで、病気を見る目は変わる。人間を見る目も変わる。
カンギレムとは、身体の数値の奥に、生命の働きを見ようとした哲学者である。正常と病理という、誰もが知っているようで深く考えたことのない言葉を、彼は根本から問い直した。朝のだるさ、検査結果の不安、病気のときの世界の狭まり、回復したときの生活の作り直し。そうした身近な経験の中に、彼の哲学は息づいている。カンギレムを読むとは、健康と病気について学ぶだけではない。自分の身体を、そして他人の生き方を、平均や基準だけで判断しないための言葉を手に入れることである。
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