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デュラン入門 哲学入門シリーズ188

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第一章 デュランってどんな人?

 朝、目が覚めたとき、カーテンの隙間から光が入っているだけで、少し安心することがある。昨日までの不安が全部なくなったわけではない。解決していない問題も残っている。けれども、部屋が明るくなり、天井や壁の輪郭が見え、机の上に置いた本やコップの位置がはっきりすると、身体の奥で何かがほどける。反対に、夜中に目が覚めて、部屋の隅が黒く沈んでいると、そこには何もないと分かっていても、少しだけ身構えてしまう。理屈では説明できる。暗いから見えにくいだけだ。けれども身体は、それをただの暗さとして受け取らない。闇には闇の重さがあり、光には光の軽さがある。

 階段を上るときにも、似たようなことが起こる。息が少し上がり、足に力が入り、視界が少しずつ広がる。高い場所に出ると、気分まで上向くことがある。展望台や山の頂上から街を見ると、自分が少しだけ世界を見渡せる位置に来たように感じる。逆に、地下道へ降りていくと、同じ街の中にいるはずなのに、声が小さくなり、足音が響き、空気が重くなる。地下には地下の感じがある。上に行くことと、下に降りることは、単なる移動ではない。そこには、心の動きが重なっている。

 水に触れると、また違う感覚が生まれる。顔を洗うと、目が覚める。風呂に入ると、緊張していた身体がゆるむ。海を見ると、言葉にならない広がりを感じる。雨の日には、世界全体が少し内側に沈んだように見える。火を見ると、危ないと分かっているのに、目を離しにくい。焚き火やろうそくの火には、ただ明るいだけではない吸引力がある。私たちは、光、闇、高さ、深さ、水、火、包まれる感じ、切り分ける感じを通して、世界に意味を与えている。

 ジルベール・デュランは、こうした感覚を軽く見なかった思想家である。人間は、ただ言葉で考えているのではない。数式や論理だけで世界を理解しているのでもない。私たちは、世界をまずイメージとして受け取る。明るいもの、暗いもの、高いもの、低いもの、鋭いもの、丸いもの、乾いたもの、湿ったもの、開かれたもの、閉じたもの。そうしたイメージのまとまりが、人間の文化や物語や宗教や芸術の奥に流れている。デュランは、その流れを「想像界」として考えようとした。

 想像界という言葉だけ聞くと、現実から離れた空想の世界のように思えるかもしれない。けれども、デュランが見ていた想像界は、現実逃避の場所ではない。むしろ、現実に意味を与える深い層である。たとえば、同じ「光」でも、ただ電磁波として説明すれば物理学の話になる。けれども、人間にとって光は、それだけではない。朝の光は始まりを感じさせる。舞台のスポットライトは注目を集める。宗教画の光は救いを感じさせる。犯人を照らすライトは追及を感じさせる。光は、状況によって、安心、真理、暴露、希望、支配のイメージを帯びる。

 このとき、光は単なる物理現象を超えて、象徴になっている。象徴とは、何かを一対一で説明する記号ではない。信号機の赤が止まれを意味するような、固定された合図とは違う。象徴は、もっと深く、多くの意味を呼び込む。剣を見れば、戦い、決断、切断、正義、暴力が重なる。杯を見れば、受け入れること、満たされること、命、儀式、秘密が重なる。洞窟を見れば、怖さと同時に、守られている感じや、内側へ入っていく感じも生まれる。象徴は、意味の井戸のようなものだ。覗き込むほど、底が深く見える。

 デュランは、この象徴の働きを、人間の根本的な構造として捉えた。私たちが世界を見るとき、そこにはいつも身体がある。まっすぐ立つ身体、眠る身体、食べる身体、落ちることを恐れる身体、暗闇で身を縮める身体、水で洗われる身体、火に近づきすぎると危ない身体。こうした身体の経験が、やがて神話や物語や文化のイメージにつながっていく。山の上に神がいると感じるのも、地下に死者の国があると考えるのも、偶然ではない。人間の身体が、上と下、明るさと暗さ、乾きと湿り、外へ向かう力と内へ戻る力を、意味のある方向として感じているからである。

 たとえば、昔話で主人公が森へ入る場面を考えてみる。森は、ただ木が多い場所ではない。そこは迷いや試練の場所であり、日常の外側であり、何かに出会う場所である。主人公が洞窟へ入るなら、それはさらに深い内側への下降になる。地下へ降りる、暗い場所へ入る、怪物と出会う、宝を見つける、外へ戻る。この流れは、子ども向けの物語にも、宗教的な神話にも、現代の映画やゲームにも出てくる。デュランは、こうした反復するイメージの型を見ようとした。

 彼の有名な考えの一つに、昼的な想像力と夜的な想像力がある。昼的な想像力は、光、剣、上昇、分離、戦い、英雄のイメージと結びつく。世界をはっきり分け、敵を倒し、上へ進み、闇を照らす力である。試験に合格して階段を上がる。混乱した部屋を片づけて、ものを分類する。悪を倒すヒーローを見る。こうした場面では、世界を切り分けて秩序づける力が働いている。

 夜的な想像力は、それとは違う。闇、水、洞窟、杯、母胎、眠り、下降、融合のイメージと結びつく。こちらは、敵を切り分けるのではなく、包み込み、溶かし、内側へ戻し、再生させる力である。風呂に入って一日の疲れがほどける。暗い部屋で布団にくるまり、世界から一時的に守られる。海を眺めて、自分の悩みが大きな流れの中に沈んでいくように感じる。そこには、戦う力とは別の、生き延びるための力がある。

 ここで大切なのは、昼が善で、夜が悪なのではないということである。光がいつも正しいわけではない。強すぎる光は、暴き立て、逃げ場をなくし、人を追い詰めることもある。闇がいつも恐ろしいわけでもない。暗さは、眠りや休息や回復を与えることもある。剣が必要なときもあれば、杯が必要なときもある。上へ向かうべきときもあれば、下へ降りて、自分の奥にあるものと向き合うべきときもある。デュランの面白さは、このようなイメージの力を、単純な善悪に閉じ込めず、人間存在の深い動きとして捉えたところにある。

 デュランは、二十世紀フランスの思想家であり、社会学者、人類学者としても知られている。若いころには第二次大戦を経験し、レジスタンスにも関わった。その後、大学で教えながら、象徴、神話、想像力を研究した。彼は、ガストン・バシュラールの詩的想像力、ユングの元型論、エリアーデの神話研究、コルバンの宗教的想像力などから刺激を受け、それらを自分なりに組み替えた。けれども、この名前の一覧を先に覚える必要はない。まず重要なのは、彼が「人間は象徴を生きる存在だ」と考えたことだ。

 近代の学問は、しばしば理性、分析、分類、証明を重視してきた。それはもちろん大切である。病気を治すにも、橋を造るにも、機械を動かすにも、正確な知識は必要である。けれども、人間は正確な知識だけでは生きていない。病気になった人は、検査数値だけで苦しむのではない。「身体が重い」「未来が暗い」「底に沈んでいくようだ」と感じる。恋をした人は、脳内物質の変化だけを生きているのではない。「世界が明るくなる」「胸が熱くなる」「高いところへ連れていかれるようだ」と感じる。人間の経験は、いつもイメージをまとっている。

 デュランは、このイメージを、未熟なものとして捨てなかった。むしろ、そこに人間理解の鍵があると見た。神話や象徴は、科学以前の古い迷信ではない。それらは、人間が時間、死、不安、欲望、希望に向き合うために作ってきた深い形式である。人間は、いつか死ぬことを知っている。時間が過ぎ、身体が衰え、大切なものが失われることを知っている。その恐怖に対して、あるときは英雄のように戦い、あるときは母胎のような場所へ戻り、あるときは季節の循環のように再生を信じる。象徴や神話は、そのための精神の道具でもある。

 たとえば、卒業式を考えてみる。ただ学校を終えるだけなら、事務的な手続きで十分なはずである。けれども、人は式を行う。服装を整え、証書を受け取り、歌を歌い、門を出る。そこには、一つの場所から別の場所へ移るという象徴的な意味がある。葬式もそうである。ただ遺体を処理するだけではない。花を置き、火を使い、言葉を捧げ、別れの形を作る。人間は、人生の大きな変化を、象徴なしには受け止めにくい。デュランの思想は、このような人間の現実を見ている。

 だから、デュランを読むことは、遠い神話の世界へ逃げることではない。むしろ、自分が毎日どのようなイメージに動かされているかを知ることである。なぜ、明るい部屋で安心するのか。なぜ、地下に降りると声が小さくなるのか。なぜ、剣を持つ英雄に胸が高鳴るのか。なぜ、水辺にいると気持ちがほどけるのか。なぜ、人は人生を「上がる」「落ちる」「沈む」「抜け出す」「燃える」「冷める」といった言葉で語るのか。そこには、身体とイメージと文化が結びついた深い回路がある。

 デュランは、その回路をたどろうとした思想家である。彼は、人間を単に合理的な動物としてではなく、象徴を作り、象徴に動かされ、象徴の中で生きる存在として見た。私たちは、事実だけの世界に住んでいるのではない。事実に意味を与えるイメージの網の中に住んでいる。朝の光、夜の闇、階段、洞窟、水、火、剣、杯。そうしたものが、心の奥で言葉より先に働いている。

 デュランとはどんな人か。ひと言で言えば、彼は「想像力を人間の中心に置き直した人」である。空想を軽いものとして退けるのではなく、象徴や神話を古い迷信として捨てるのでもなく、人間がどのようなイメージで世界を住みやすくし、恐怖に耐え、希望を作るのかを見ようとした。彼の思想に入るとは、難しい用語を覚えることから始まるのではない。まず、自分の身体がすでに知っている光と闇、上昇と下降、戦いと休息の感覚に気づくことから始まるのである。

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