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エックハルト入門 哲学入門シリーズ189

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エックハルト入門 哲学入門シリーズ189

第一章 エックハルトってどんな人?

 夜の部屋で、一人で考えすぎているとき、ふと自分が自分の声に追い詰められているように感じることがある。明日のこと、過去の失敗、人からどう見られているか、何を得られなかったか、そうした考えが頭の中で何度も回る。何かを考えているつもりなのに、実際には考えに握られている。自由に思考しているようで、思考のほうに捕まっている。

 そのとき、もし誰かが「もっと努力しなさい」と言ってきたら、心はさらに硬くなるかもしれない。「もっと信じなさい」と言われても、信じる力さえ残っていないことがある。「もっと立派な人間になりなさい」と言われると、立派でない自分を責める材料が増えるだけかもしれない。人間は、何かを足せば救われるとは限らない。むしろ、持ちすぎているもの、握りしめすぎているもの、離せなくなっているものによって、深いところで疲れてしまうことがある。

 マイスター・エックハルトは、その「握りしめているもの」を見つめた人である。彼は、十三世紀末から十四世紀初頭にかけて活動した、ドイツ語圏の神学者であり、ドミニコ会の修道士であり、説教者であった。大学で神学を教える知識人でありながら、同時に、修道女や一般の信徒にも向けて、ドイツ語で説教を行った人物でもある。つまり彼は、難しい神学を知っている人であるだけでなく、日々の不安や執着のなかにいる人へ向かって語った人でもあった。

 エックハルトを理解するとき、最初に大事なのは、彼をただの「神秘家」として遠ざけないことである。神秘家という言葉を聞くと、雲の上の体験を語る人、普通の生活とは関係のない霊的な人、という印象を持つかもしれない。しかしエックハルトの言葉は、むしろ非常に現実的である。彼が見ていたのは、人間がなぜ不自由になるのか、なぜ善いことをしているつもりでも自分に縛られるのか、なぜ神を求めているはずなのに、自分の願望を神の名で飾ってしまうのか、という問題だった。

 たとえば、誰かに親切にしたとする。その親切そのものはよいことかもしれない。けれども、心の奥で「感謝されたい」「立派だと思われたい」「これで自分は善い人間だ」と思っているなら、その親切は少しずつ重くなる。相手のためにしているはずなのに、いつのまにか自分の価値を確認する道具になってしまう。人は、悪い欲望だけに縛られるのではない。善い行為へのこだわり、正しさへのこだわり、信仰深さへのこだわりにも縛られる。

 エックハルトが重視した「離脱」とは、このようなこだわりから自由になることである。離脱というと、すべてを捨てて山にこもることのように聞こえる。だが、彼が見ていたのは、まず心の向きである。物を持っているかどうかより、物に心を持たれているかどうかが問題になる。人に評価されるかどうかより、評価への欲望に自分の中心を奪われているかどうかが問題になる。つまり離脱とは、世界を嫌うことではなく、世界に触れながらも、世界に自分の根を奪われないことなのである。

 この考えは、日常の小さな場面にも現れる。たとえば、スマートフォンの通知が鳴るたびに、心が勝手にそちらへ引っ張られる。何か重要な連絡かもしれないと思う。しかし実際には、確認しても大した内容ではない。それでもまた通知が鳴れば、同じように手が伸びる。自分がスマートフォンを使っているようで、スマートフォンのリズムに自分が使われている。エックハルトの言う離脱は、こうした状態を見抜く感覚に近い。問題は機械ではない。問題は、自分の内側の中心が、外の刺激によって簡単に動かされてしまうことである。

 では、外のものに動かされない中心とは何か。ここでエックハルトの有名な考えである「魂の根底」が見えてくる。魂の根底とは、人間の心のもっとも奥深い場所を指す。そこは、感情が騒ぐ表面でも、損得を計算する場所でも、他人に見せる顔でもない。人から褒められても、けなされても、その変化のさらに奥にある静かな場所である。エックハルトは、その魂の最深部において、人間は神と出会うと考えた。

 これを、湖にたとえると分かりやすい。風が吹けば、湖の表面には波が立つ。雨が降れば、水面は乱れる。石を投げれば、波紋が広がる。けれども、湖の深いところは、表面ほど簡単には乱れない。人間の心も同じである。怒り、不安、焦り、見栄、後悔は、たしかに心を揺らす。だが、それらが心のすべてではない。もっと深いところには、外からの刺激だけでは壊れない場所がある。エックハルトは、その場所を単なる心理的な深層としてではなく、神が生まれる場所として語った。

 ここで言う「神が生まれる」とは、不思議な奇跡を外から待つという意味ではない。エックハルトにとって大切なのは、神がどこか遠くにいるだけではなく、魂の奥で出来事として現れるということである。人間が自分の欲望、自分の計算、自分の正しさを手放すとき、魂の奥に神の働きが現れる。外から何かを獲得するのではなく、奥にすでにあるものが開かれる。だから彼の思想は、上へ上へと登っていく話であると同時に、内へ内へと沈んでいく話でもある。

 この内側への道は、甘い自己肯定とは違う。エックハルトは「本当の自分を大切にしよう」とだけ言う人ではない。むしろ彼は、「自分だと思っているもの」を徹底的に疑う。私たちは、自分の名前、立場、実績、失敗、欲望、記憶を集めて、それを自分だと思っている。けれども、それらはすべて変化する。昨日の成功は今日の不安になり、昨日の恥は今日の言い訳になる。変わり続けるものを自分の中心に置けば、中心そのものが揺れ続ける。

 だからエックハルトは、しばしば過激な言い方をする。神のために神を手放す、神から自由になる、といった表現がその代表である。これは、神を否定しろという意味ではない。むしろ、自分が作り上げた神のイメージ、自分に都合のよい神、自分の願望を叶えるための神を手放せという意味である。人は、神を信じているつもりで、実際には自分の安心を信じていることがある。祈っているつもりで、実際には自分の欲望を神に押しつけていることがある。エックハルトは、その危うさを見抜いていた。

 この点で、エックハルトは非常に厳しい。しかしその厳しさは、人間を罰するためのものではない。むしろ、人間を軽くするための厳しさである。たとえば、重い荷物を持って坂道を登っている人に、「その荷物を下ろしなさい」と言うのは冷たい言葉ではない。本人は大事な荷物だと思っているかもしれない。だが、その中身が見栄や恐れや執着であるなら、持ち続けるほど苦しくなる。エックハルトの言葉は、ときに突き放すように聞こえるが、その奥では、人間が本当に自由になる道を探している。

 彼が生きた時代は、教会の制度、大学の神学、民衆の信仰、修道院の生活が複雑に絡み合っていた。エックハルトは、その中で学者としても説教者としても活動した。彼はラテン語で高度な神学を論じ、ドイツ語で人々に語った。その二つの顔は、別々のものではない。難しい思想を持つ人が、生活の現場へ降りてきたのではない。むしろ、生活の現場にある苦しみを、神学の深い言葉で受け止めようとしたのである。

 晩年のエックハルトは、異端の疑いをかけられた。彼の表現があまりに大胆で、神と魂の一致を強く語りすぎるように見えたからである。たしかに彼の言葉には、危うさがある。神と人間の区別を壊してしまうように聞こえる箇所もある。信仰を制度から切り離しすぎるように読める箇所もある。しかし、その危うさこそが、彼の思想の力でもある。安全な言葉だけでは、人間の深い執着には届かない。エックハルトは、誤解される危険を抱えながら、魂のもっとも奥へ届く言葉を探した。

 エックハルトはどんな人か。ひとことで言えば、人間が自分自身に縛られる仕組みを、神学の言葉で徹底的に見つめた人である。彼は、もっと多くを得よとは言わない。もっと正しい自分になれとも、もっと立派な信仰者になれとも、単純には言わない。彼はむしろ、握っているものを見よ、それは本当に必要か、と問う。自分を守るために抱えてきたものが、いつのまにか自分を閉じ込めていないか、と問う。

 この問いは、現代にもそのまま届く。成果を出さなければならない。評価されなければならない。失敗してはならない。何者かにならなければならない。そういう声に囲まれている人間にとって、エックハルトの思想は、ただの中世神学ではない。心の奥にある静かな場所を取り戻すための、かなり鋭い道具である。彼の言葉を読むとは、遠い昔の神秘思想を眺めることではない。自分が何に縛られ、何を神のように握りしめ、どこで本当の自由を見失っているのかを、少しずつ見分けていくことである。

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