文学・思想の一丁目一番地

ニール・ポストマン入門 哲学入門シリーズ193

ニール・ポストマン入門 哲学入門シリーズ193
ニール・ポストマン入門 哲学入門シリーズ193

第一章 ニール・ポストマンってどんな人?

 スマホを閉じたあと、なぜか頭の奥がざらついていることがある。たいしたことはしていない。少しニュースを見て、短い動画をいくつか見て、誰かの意見を読み、広告を飛ばし、また別の投稿へ移っただけである。けれども、画面から目を離した瞬間、何かを知ったような気分だけが残り、何を考えたのかはよく分からない。怒ったのか、笑ったのか、感心したのか、疲れたのかも曖昧である。体は椅子に座っていただけなのに、心だけが人混みの中を引きずり回されたようになっている。

 この感じを、ただの「情報疲れ」と呼ぶことはできる。現代人は情報を浴びすぎている、と言うこともできる。しかし、それだけではまだ粗い。問題は、情報の量だけではない。同じ一時間でも、本を読んだあとの疲れと、動画を流し見したあとの疲れは違う。誰かと長く話したあとの疲れと、通知を追いかけ続けたあとの疲れも違う。どちらも頭を使っているはずなのに、残るものが違う。片方には、考えが少し深くなった感じがある。もう片方には、気分だけが細かく切り刻まれた感じがある。

 ニール・ポストマンは、まさにこの違和感を考えた人である。彼は、メディアを単なる情報の通り道とは見なかった。テレビ、新聞、本、学校、コンピュータ、広告、ニュース番組。それらは、ただ何かを伝える道具ではない。それぞれが、人間の注意の向け方、考える速さ、信じ方、疑い方、話し方を変えてしまう環境である。魚が水の中で泳ぎ方を覚えるように、人間はメディアの中で考え方を覚える。水が変われば、泳ぎ方も変わる。ポストマンの出発点は、この単純だが恐ろしい事実にあった。

 たとえば、静かな部屋で一冊の本を読むとき、人は前の文を覚えながら、次の文へ進む。途中で分からなくなれば、戻る。筆者の主張が正しいかどうかを、何ページにもわたって追いかける。ここでは、急ぐことよりも、つながりを保つことが大切になる。読む人の体は、ある意味で長距離走の姿勢を取らされる。すぐに結論へ飛びつくのではなく、少しずつ筋道をたどる。印刷された文章は、そういう知性の形を育てやすい。

 一方で、テレビや短い動画では、話はすぐに切り替わる。悲惨な事件の次に、明るいCMが来る。政治家の発言の次に、動物のかわいい映像が来る。視聴者は、前の情報を深く処理する前に、次の刺激へ運ばれていく。そこで求められるのは、長く考える力よりも、瞬間ごとに反応する力である。顔が印象的か、声が聞きやすいか、絵として強いか、退屈しないか。内容が重要であっても、その内容は画面に合う形へ変形される。

 ポストマンは、一九三一年にニューヨークで生まれ、二〇〇三年に亡くなった。大学では長く教育に関わり、ニューヨーク大学で教えた。彼は教育学者であり、メディア理論家であり、技術文明を批判した公共的な思想家でもあった。だが、この肩書きを並べても、彼の面白さはまだ見えてこない。彼の本質は、「人間はどんな環境でなら、まともに考えられるのか」と問い続けたところにある。学校について語っているときも、テレビについて語っているときも、コンピュータについて語っているときも、彼はいつも同じ問いを追っていた。

 ポストマンを理解するとき、まず避けたい誤解がある。それは、彼を「テレビが嫌いな昔の人」と見てしまうことである。たしかに彼は、テレビ文化を強く批判した。代表作『Amusing Ourselves to Death』では、テレビが政治、宗教、ニュース、教育を娯楽の形式へ変えてしまう危険を論じた。しかし、彼が怒っていたのは、テレビ番組がくだらないからではない。問題はもっと深い。テレビという形式そのものが、公的な話題を短く、分かりやすく、見栄えよく、退屈しないものへ変えてしまうことだった。

 これは、料理を皿に盛る話に似ている。どんな料理も、紙コップに入れれば立ち食いの軽食のように見える。高級な皿に盛れば、ゆっくり味わうものに見える。中身が同じでも、器は食べ方を変える。テレビも同じである。政治について語っていても、テレビの器に入った瞬間、それは表情、声、身ぶり、秒単位の切り返し、視聴率の競争と無関係ではいられない。ポストマンは、この「器が中身を変える」という問題を見ていた。

 彼の有名な発想に、「メディアは環境である」というものがある。環境という言葉は重要である。道具なら、使うときだけ手に取ればよい。ハサミは紙を切るときに使い、使い終われば机に置ける。しかし、環境はそうではない。空気や光や温度は、こちらが意識していなくても、体の働き方を変えている。暑い部屋では考えが鈍り、暗い道では声が小さくなり、人が多い場所では歩き方が変わる。メディアもまた、そういうものとして人間を包み込む。

 だから、ポストマンにとって重要なのは、「テレビで何を見たか」だけではなかった。「テレビを見る社会では、何が真面目な話として成立しにくくなるのか」が問題だった。「コンピュータで何を処理できるか」だけでもなかった。「コンピュータを中心にした社会では、何が数値で測れるものとして扱われ、何が意味の外へ追いやられるのか」が問題だった。彼はいつも、目の前の便利さから一歩引き、その便利さが作り替える人間の姿を見ようとした。

 この姿勢は、教育への関心とも深くつながっている。ポストマンにとって、学校とは知識を詰め込む場所ではなかった。学校は、社会が当たり前だと思っているものを疑うための場所である。世の中には、もっともらしい言葉、権威ある説明、派手な広告、数字で飾られた主張があふれている。子どもや若者が、それらをそのまま飲み込むだけなら、学校は社会のコピー機になってしまう。そうではなく、学校は「これは本当か」「この言葉は何を隠しているか」「この数字は何を測っていないか」と問う力を育てる場所でなければならない。

 ここで、ポストマンの教育論とメディア論は一つになる。メディアが人間の考え方を形作るなら、教育はその形作られ方を自覚する訓練でなければならない。テレビを見て笑うことが悪いのではない。ニュースを短く知ることが悪いのでもない。問題は、自分がどんな形式に合わせて考えさせられているのかを知らないことである。笑っているつもりで、笑うべき形に合わせられている。知っているつもりで、知った気分だけを与えられている。その状態を見抜くことが、ポストマンにとっての教育だった。

 彼が単純な反技術主義者ではなかったことも、ここで分かる。ポストマンは、新しい技術がすべて悪いと言ったわけではない。むしろ、技術は常に取引である、と考えた。何かを得るとき、何かを失う。速く連絡できるようになれば、待つ時間の意味が変わる。多くの情報を検索できるようになれば、覚えること、考え抜くこと、偶然出会うことの価値が変わる。便利になった分だけ、人間の習慣や制度も組み替えられる。

 たとえば、スマホの地図は便利である。道に迷う不安を減らし、初めての場所へも行きやすくする。しかし同時に、街を身体で覚える経験は減る。曲がり角の匂い、建物の並び、坂の感覚、遠くに見える看板を頼りに進む力は弱くなる。これは、スマホが悪いという話ではない。得たものと失ったものを同時に見る、という話である。ポストマンの技術批判は、便利さを否定するのではなく、便利さの陰にある代価を見えるようにするものだった。

 彼のもう一つの大きな主題は、娯楽化である。娯楽化とは、楽しいものが増えることではない。深刻なものまで、楽しませる形式に合わせられてしまうことである。政治は政策の中身より、候補者の見た目や切り抜きや失言で消費される。ニュースは理解のためではなく、次々に感情を揺らすために並べられる。教育もまた、退屈させないことを最優先すると、学ぶことの苦しさや回り道を失ってしまう。すると人は、自由を奪われなくても、考える力を少しずつ手放していく。

 ここでポストマンが重視したのが、オルダス・ハクスリーとジョージ・オーウェルの対比である。オーウェル的な恐怖とは、権力が本を禁じ、言葉を統制し、人々を監視する世界である。一方、ハクスリー的な恐怖とは、人々が快楽や気晴らしに満たされ、自分から考えることをやめていく世界である。ポストマンは、現代の危険は後者に近いと見た。禁止されて黙るのではなく、楽しすぎて黙る。奪われて無知になるのではなく、与えられすぎて分からなくなる。

 この視点は、テレビの時代を超えて、現代にもそのまま響く。短い動画、SNS、通知、ランキング、トレンド、AIによる要約。これらは便利で、楽しく、役に立つことも多い。しかし、それらが作る環境の中で、人間の注意はどのような形になるのか。長く考える力はどうなるのか。公共の問題を、怒りや笑いの小さな刺激として処理する癖は強まらないか。ポストマンの問いは、古くなっていない。むしろ、媒体がテレビからスマホへ移ったことで、さらに身近になっている。

 ニール・ポストマンとは、メディアの中身よりも、メディアが作る人間の形を見ようとした思想家である。彼は、テレビを嫌ったのではない。技術を憎んだのでもない。人間が、自分を包む環境に気づかないまま、その環境に合わせて変形されていくことを恐れたのである。だから彼の思想は、過去のテレビ批判では終わらない。ニュースを見るとき、スマホを開くとき、学校について考えるとき、AIを使うとき、いつでも問い直すことができる。

「このメディアは、何を伝えているのか」

「このメディアは、私たちをどんなふうに考えさせているのか」

 この二つの問いのあいだに、ポストマンの世界がある。前者だけなら、情報の話で終わる。後者まで進むと、環境の話になる。そして環境の話まで進んだとき、初めて人は、自分がただメディアを使っているのではなく、メディアの中で作られてもいることに気づく。ニール・ポストマンは、その気づきのための思想家である。

続きはこちらから
ニール・ポストマン入門 哲学入門シリーズ193
ニール・ポストマン入門 哲学入門シリーズ193

哲学入門シリーズ一覧に戻る
うしPのページに戻る