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カール・バルト入門 哲学入門シリーズ194
第一章 カール・バルトってどんな人?
何かを信じていたはずなのに、その信じていたものが、ふいに自分を裏切ったように感じることがある。先生の言葉、会社の理念、国の正義、家族の常識、世間でよいとされている生き方。昨日までは頼れるものに見えていたのに、ある出来事を境に、それが急に薄っぺらく見える。胸の奥に、すっと冷たい風が入る。足場だと思っていた床が、実は薄い板だったと気づく。その感覚から、カール・バルトという人を考えはじめるとよい。
バルトは、神について考えた人である。もっと正確に言えば、人間が神についてうまく語れると思い込むことに、強烈な疑いを向けた人である。神を説明する。神を感じる。神を道徳の支えにする。神を文化の深みに置く。そういう言い方は、一見すると敬虔に見える。しかしバルトは、その中に人間の都合を見た。人間が神を語っているようで、実は自分の理想、自分の時代、自分の正しさを、神という名前で飾っているだけではないのか。その問いが、彼の思想の入口にある。
日常でも、似たことは起こる。たとえば、ある組織が「みんなのため」と言いながら、実際には上の人間の都合だけを守っていることがある。ある人が「あなたのため」と言いながら、本当は自分の不安を押しつけていることもある。言葉は美しい。けれど、その言葉の主語が誰なのかを見誤ると、人は簡単に支配される。バルトにとって、神学の問題もそこにあった。人間が神を語るとき、その言葉の主語は本当に神なのか。それとも、人間が神を利用しているだけなのか。
カール・バルトは、一八八六年にスイスのバーゼルで生まれた。父も神学者であり、若いころのバルトは、当時の進んだ神学を熱心に学んだ。彼が最初から古い教義を振り回す頑固者だったわけではない。むしろ、若いバルトは近代的で、学問的で、文化的な神学の空気を吸って育った。人間の宗教経験、道徳的な人格、歴史研究、文化の深み。そうしたものを通してキリスト教を理解しようとする神学に、彼は強く影響を受けていた。
ところが、そこにひびが入る。決定的だったのは、第一次世界大戦である。バルトが尊敬していた神学者たちの多くが、戦争を支持する側に立った。高度な学問を持ち、深い宗教を語り、人間性を重んじていたはずの人々が、国家の戦争に神学的な正当性を与えてしまう。その光景は、バルトにとって単なる政治的失望ではなかった。自分が信じていた神学そのものが、現実の暴力を止められないどころか、それを支える言葉になってしまった。その衝撃が、彼の内側で床を抜いた。
ここで大事なのは、バルトが「人間はだめだ」とだけ言ったのではないことだ。彼の問いは、もっと鋭い。人間の宗教、人間の文化、人間の良心、人間の理性を、そのまま神へ向かう道として信じてよいのか。もしそれらが、いざというとき国家や時代の熱狂に飲み込まれるなら、神学の出発点を人間の側に置くこと自体が危ういのではないか。これは、教会の中だけの問題ではない。正義の言葉が暴力に変わる瞬間を、誰もがどこかで見たことがあるからである。
バルトは、スイスのザーフェンヴィルという町で牧師をしていた。そこは、抽象的な神学だけで済む場所ではなかった。労働者がいて、貧しさがあり、生活の苦しさがあり、日曜日の説教を聞く人々の月曜日の現実があった。神について美しく語っても、目の前の人間の生活に何も響かないなら、その言葉は空回りする。逆に、社会問題だけを語っても、神の言葉が人間の都合に吸収されてしまう。バルトは、この両方の危うさを、牧師としての現場で感じていた。
この経験から生まれた代表的な著作が『ローマ書』である。これは、聖書のローマの信徒への手紙を読んだ本だが、ただの注解ではなかった。そこには、神を人間の文化や道徳の延長に置く時代への、雷のような批判が込められていた。バルトは、神を人間世界の最高価値にしなかった。神は、人間の理想の頂点に座っている存在ではない。むしろ、人間の世界を外から裁き、同時に救う方である。人間が上へ登って神に届くのではない。神のほうが、人間の足場を打ち破って来る。
この言い方は、はじめは冷たく聞こえるかもしれない。神が人間の外から来る。神は人間の手元にない。神は人間の宗教経験に回収されない。そう聞くと、神は遠く、怖く、近づきがたい存在に見える。しかし、バルトが守ろうとしたのは、神の冷たさではなく、神の自由である。人間が神を所有できないからこそ、神は人間の都合を超えて近づくことができる。人間が神を道具にできないからこそ、神の恵みは人間の計算を破って届く。
たとえば、誰かを本当に愛することを考えるとよい。相手を完全に理解した、相手の考えは全部読める、相手は自分の期待どおりに動くはずだと思った瞬間、その人は相手を愛しているというより、相手を所有している。相手が自由な他者であるからこそ、その人の言葉には驚きがあり、出会いがあり、こちらを変える力がある。バルトにとって、神の他性もそれに近い。神は人間の所有物ではない。だからこそ、神の言葉は人間を本当に変える。
バルトのもう一つの重要な顔は、教会と国家の関係をめぐる抵抗者としての顔である。ナチズムの時代、教会が国家や民族の思想に飲み込まれていく危険があった。バルトは、教会が従うべき唯一の神の言葉はイエス・キリストであり、国家や民族や指導者を神のように扱ってはならないと考えた。この姿勢は、バルメン宣言という文書にも結晶する。ここでも問題は同じである。人間の側にあるものを、神の位置へ置いてしまうな、ということだ。
だからバルトは、単なる難解な神学者ではない。彼は、人間が自分の正しさを神聖化する危険を見抜いた思想家である。宗教が危ないのは、信仰があるからではない。むしろ、人間の願望や集団の熱狂が、神の名を借りて絶対化されるときに危ない。バルトはその危険に対して、神は人間の手元にない、と言った。この否定は、世界を虚しくするためではない。人間の偶像を壊し、神の自由な恵みを聞く場所を開くための否定である。
その意味で、バルトを読むことは、神学を学ぶことにとどまらない。自分が頼っている言葉を点検することでもある。正義、良心、文化、国家、家族、成功、信仰。これらは人間に必要な言葉である。しかし、それらが絶対化されると、人間はそれを神のように扱いはじめる。バルトは、その瞬間に「本当にそうか」と問いを差し込む。人間が神を語っているつもりで、自分自身を大きくしているだけではないのか。その問いは、今でも十分に鋭い。
カール・バルトとは、二十世紀プロテスタント神学を大きく組み替えた人物である。だが、それ以上に、人間の側から神を確保しようとする近代の自信を疑い、神が自ら語るという出来事から、信仰、教会、倫理、政治を考え直した人である。彼の思想は、床が抜けるような失望から始まり、神の言葉を聞き直す試みに変わった。信じていたものが崩れたとき、人はただ絶望するだけではない。崩れた足場の下から、本当の問いが姿を現すことがある。バルトの神学は、その問いに耳を澄ませるところから始まる。
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