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ラトゥール入門 哲学入門シリーズ198
第一章 ラトゥールってどんな人?
駅の改札で、ICカードをかざしたのに扉が開かない。ほんの一瞬だけ、体が前へ出かかり、足が止まる。後ろに人がいれば、少し気まずい。カードの残高、読み取り機、閉じた扉、背後の列、駅員の視線、それらが一気にこちらの行動を変える。誰かに命令されたわけではない。それでも、体は止められた。ここには、人間だけでは説明しにくい小さな出来事がある。
ラトゥールの考えは、こうした場面から入るとわかりやすい。世界は、人間の意志だけで動いているわけではない。もちろん、モノに人間と同じ心があるという話でもない。けれど、改札機、申請書、スマートフォンの通知、道路の段差、ドアの自動ロックは、人の行動を少しずつ曲げる。やるべきことを思い出させ、やってはいけないことを止め、行ける場所と行けない場所を分ける。ラトゥールは、このような人間と非人間の入り混じった働きに、しつこく目を向けた思想家である。
ブルーノ・ラトゥールは、フランスの思想家であり、科学技術社会論と呼ばれる分野から大きな仕事を始めた。だが、彼を単に「科学を研究した人」と呼ぶと、少し狭くなる。実験室の観察者であり、近代という考え方の批判者であり、法や制度の民族誌家であり、最後には気候危機の時代に政治を考え直した思想家でもあった。ひとつの肩書きに収まらないのは、彼の思想そのものが、ひとつの箱に収まらないものを追いかけたからである。
たとえば、科学的事実という言葉を聞くと、多くの場合、どこかにすでに答えがあり、科学者がそれを見つけるのだと考えたくなる。山の中に宝石が埋まっていて、発見者が掘り出すようなイメージである。ラトゥールは、そのイメージを少しずらす。科学者はたしかに何かを発見する。しかし、その発見は、実験装置、試料、測定値、ノート、図表、論文、査読、引用、研究費、同僚の反論を通って、ようやく「事実」として安定する。宝石を掘り出すというより、崩れやすい山道に橋を架け、何度も通れる道にしていく作業に近い。
ここで大事なのは、ラトゥールが「事実は作られている。だから嘘だ」と言ったわけではない点である。むしろ反対である。橋は作られている。だからこそ渡れる。料理は作られている。だからこそ味わえる。事実もまた、多くの手続きや道具を通じて作られるからこそ、他人が確かめ、批判し、使い、受け継ぐことができる。作られていることは、弱さの証拠ではない。作られ方を追うことで、その強さやもろさが見えてくる。
この発想は、日常にもそのまま使える。たとえば、役所の窓口で書類を出すとき、名前の欄、住所の欄、押印欄、本人確認書類、受付番号がそろわないと、手続きは前に進まない。窓口の人だけが決めているのではない。紙の様式、法律、端末、番号札、待合室の椅子、締切日が、行動の流れを作っている。ラトゥールなら、ここで「社会がそうさせている」と一言で片づけない。どの紙が、どの人を、どの場所へ動かしているのかを追う。
ふつう「社会」と言うと、人間たちの集まりを思い浮かべる。世論、常識、制度、組織、空気。だが、そう言ってしまうと、細かな働きが見えなくなることがある。「空気を読め」と言われる場面でも、実際には会議室の机の配置、議事録、上司の沈黙、資料の書き方、発言時間、前例が働いている。空気という透明なものが人を動かしているのではなく、さまざまなものが結びつき、人の動きを一定の方向へ押している。ラトゥールは、この結びつきを見るために、アクターネットワーク理論という道具を使った。
アクターとは、何かに差異を生むもののことである。人間だけではない。鍵、ドア、細菌、論文、グラフ、法律、地図、コンピューターも、状況を変えるならアクターとして見ることができる。ネットワークとは、単なる網ではない。何かが別の何かを動かし、その途中で意味や力が変換され、また別のものへ渡されていく連なりである。だから、ラトゥールのネットワークは、完成した路線図ではなく、工事中の線路に近い。どこでつながり、どこで途切れ、どこで別の方向へ曲がるのかを、現場で確かめるための言葉である。
この考え方を持つと、身近な道具の見え方が変わる。ドアクローザーは、ドアを閉め忘れる人間の代わりに閉めてくれる。シートベルトの警告音は、同乗者の注意の代わりに体を急かす。道路の段差は、警察官が立っていなくても車を減速させる。これらは、人間の命令がモノへ移された例である。ラトゥールはこれを、技術への委任として考える。社会のルールは、頭の中だけにあるのではない。金具、音、段差、表示、フォーマットの中にも沈み込んでいる。
もちろん、この言い方には違和感もある。「モノが行為する」と言われると、まるでモノに意思があるように聞こえる。しかし、ラトゥールが見たいのは意思ではなく、働きである。傘に意思はないが、雨の日の移動を変える。スマートフォンに人格はないが、通知ひとつで集中を切る。椅子に道徳心はないが、教室で誰がどこを向くかを決める。人間の内面だけを見ても、行動は説明しきれない。行為は、人間と非人間のあいだに広がっている。
ラトゥールが面白いのは、ここから近代そのものへの問いへ進んだところである。近代人は、自然と社会を分けて考えることに慣れている。自然は科学が扱う客観的な領域であり、社会は人間が作る価値や制度の領域である、と。しかし現実の問題は、きれいに分かれてくれない。感染症は、ウイルス、病院、行政、統計、マスク、労働、噂、ワクチンが絡み合う。気候変動は、大気、海、工場、車、国際会議、電気料金、生活習慣、選挙が絡み合う。自然だけでも社会だけでもないものが、むしろ現実の中心にある。
ラトゥールは、こうした混ざり合ったものをハイブリッドとして考えた。ハイブリッドは、例外的な怪物ではない。むしろ現代社会の普通の姿である。食品表示、原子力発電、遺伝子検査、人工知能、気候モデル、医療データは、どれも自然と社会、事実と価値、人間と非人間をまたいでいる。ところが私たちは、それを語るときだけ、自然の問題か、社会の問題かに分けたがる。ラトゥールは、その分け方そのものが、私たちの目を曇らせていると考えた。
だから、ラトゥールを読むことは、世界を疑うことではなく、世界の作られ方を細かく見ることに近い。目の前の事実をすぐ壊すのではない。すぐに「裏には権力がある」と言うのでもない。どんな道具が関わり、どんな人が動き、どんな文書が通り、どんな反論が消え、どんなものが残ったのかを追う。これは、完成した料理を前にして「おいしい」か「まずい」かだけを言うのではなく、材料、火加減、包丁、皿、食べる場所まで見ていく態度である。
晩年のラトゥールは、この態度を気候危機へ向けた。地球は、遠くから眺める青い球体ではなく、私たちが呼吸し、食べ、住み、争い、依存している薄い居住圏である。自然は、人間の活動の背景として黙っている舞台ではない。大気も海も土壌も、こちらの行為に反応し返してくる。そうなると政治も、人間だけの会議では足りない。川、森林、農地、発電所、温室効果ガス、動物、微生物、将来世代を含めて、どのように共同の世界を作るかが問題になる。
ラトゥールってどんな人か。ひとことで言えば、完成品ではなく、作られている途中を見る人である。科学的事実が事実になる途中、ドアや書類が人を動かす途中、社会が組み直される途中、近代の分け方が破綻する途中、地球が政治の相手として現れる途中を見る人である。彼の思想は、難しい用語を覚えるためのものではない。改札で止められた一瞬、書類に書き直しを求められた瞬間、通知音に体が動いた瞬間に、すでに始まっている。世界は人間だけでできていない。その当たり前のことを、もう一度、精密に見るための案内人がラトゥールである。
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